室賀氏についての考察
真田丸で大泉洋演じる真田信幸に対して「黙れ小童!」と一括する西村雅彦演じる信濃国人衆の室賀正武の父親である室賀満正(勝永)について調べてみた。武田信玄の麾下に入った室賀入道と呼ばれた人物が生島足島神社の起請文にその名が残っているのでその人物だと思うのだが、肝心なのはその名前だ。寺島進演じる出浦昌相は、出浦盛清と呼ばれることが多かった人物であることから、今回の大河ドラマでは戦国武将の名前についてもかなりの時代考証のメスが入れられているものと思われる。資料によっては、室賀入道は、正武とも信俊とも伝わる。別名で伝わっている人物の特定は、塩尻峠(勝弦峠)の戦いで小笠原長時方から離反した仁科道外が、仁科盛明とも仁科盛能とも伝わりその方面の研究をしているのだが、なかなか決め手に欠け難航しています。
ともかく大河では西村正武のことを内野家康や近藤正信が山城守と呼んでいることから室賀入道のことを指していることは間違いないです。しかし資料や小説によっては信俊、室賀一葉軒信俊などと呼ばれている。
長野県町村誌
室賀氏は六孫王経基の後胤室賀某より代々之に居る。永享(1429-1440)以来村上氏威勢大におよび本郡を侵す。室賀氏之が幕下となる。天文二十二年 (1553)八月、室賀山城守信俊、村上義清に従ひ、武田晴信と上田原に戦い敗績して、義清は越後へ走る。信俊、武田氏に降り、二十騎の将となり後入道 す。武勇兼備にして、永禄四年(1561)九月十日、川中島の戦いに信玄斥候を命ず。其男治部少輔信秀、遠州高天神の城代となる。下郷生島足島神社起請文 に室賀山城守信俊、同治部少輔経秀、同常陸守正吉、同甚七郎吉久あり。室賀山城守信俊、天正三年((1575)五月、長篠の戦いに重痩を負ひ甲州へ帰陣し 終に卒す。同十年三月武田勝頼滅び六月織田信長凶変の際本国空国となり、真田昌幸本郷に威を振ふ。室賀兵部少輔、昌幸と戦ひ勝負決せず。昌幸諮りて和議 し、兵部少輔を居城に招き之を殺す。室賀氏の一族浪人し室賀兵庫、徳川氏に仕ひ五千五百石を領す。室賀源十郎紀州藩に仕え千五百石を給わる。※ 長野県町村誌 では信俊として記載されている。
加沢記
小県郡と佐久の諸侯は、信濃へ進出してきた徳川氏に出仕するが、真田昌幸は小県郡の独力による統一戦を進め、天正十一年十月に領土の隣接する室賀氏の居館を攻めた。この戦は室賀氏より和議の申し入れがあり決着が着かなかったが、徳川家康は翌年の六月に室賀氏に真田討伐を命じる。この情報を事前に入手した昌幸は、室賀信俊を完成間近の上田城に招き謀殺している。※加沢記では信俊として記載されている。
新田次郎著「武田勝頼(一)」
信玄が死んだという新しい時点で、もう一度将来を考えざるを得ないところに来ていた。長篠城を守備しているのは城主菅沼新九郎正貞及び室賀一葉軒信俊、小笠原信嶺の三将であった。室賀信俊及び小笠原信嶺は何れも信濃武士であり、城主菅沼正貞に対して、目付役的な任務を帯びて在城していたのであった。
新田次郎著「武田勝頼(二)」
敗戦となるとともに、武田の陣営は乱れたが、身を捨てて主人をかばおうとする武田武士の本領が各所で見受けられた。半里余の道を勝頼の一行は走りに走って、寒狭川の猿橋の渡に来て見ると、ここには長篠城から退いて来た室賀信俊、高坂源五郎が殿軍としてひかえていた。もしこの軍隊が居なかったならば、勝頼は退路を酒井忠次の軍に断たれることになる。
吉川英治「上杉謙信」
室賀入道は、地侍だ。この辺の地理に詳しい。
出典不明
天正12年、真田家は小県郡を支配する室賀氏と争い、小規模戦闘にて勝利を重ね、和睦に持ち込む。直後に信幸は父・昌幸と共謀して当主・室賀義澄を殺害し、真田氏は小県を支配下に治めた。(室賀義澄=室賀正武)
武田フリークなので「武田家の史跡探訪」というサイトをあたってみたら、 室賀一葉軒信俊が父母の為に建てた前松寺というのがあることを知りました。その昔、室賀温泉「ささらの湯」という出来たばかりの日帰り温泉施設を訪れたことがあり、まんざら縁や思い入れが無い訳ではない。記憶が定かではないが北沢秋著の合戦屋シリーズでも 室賀入道は登場していたような気がする。
「武田家の史跡探訪」 前松寺 http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/zensyouji.htm












