[わたしのゴミゼロの世界 - my Zerowastism -]大川硝子工業所:530 Newsletter VOL.5
530はゼロウェイストなライフスタイルを様々なコラボレーターとともに作っていくコミュニティです。ゼロウェイストというテーマを今まで取り上げてこなかった様々な視点で書き残していきたい。物質的なゴミの減量にとどまらないゼロウェイストの奥深さを、読者の皆さんと一緒に探っていきたい。そんな想いのもと、2021年1月から隔週でニュースレターを配信していきます。上半期のテーマは、530メンバーの「わたしのゴミゼロの世界 - my Zerowastism -」。
こんにちは。オーカワです。墨田区で家業でもあるガラスびん会社の代表をやっています。おそらく530メンバーの中では年長者の部類で、かつ実は環境問題云々には疎いタイプの人間です。コンポストもやってないし、マイバックもよく忘れるし、ジュースが飲みたくなればペットボトルも買います。でも環境問題な事柄には興味あるし解決したいと思う。そんなどっちつかずで、且つモノづくりな立場と一消費者でもある私が思う「ゴミゼロの世界」について。
先に言ってしまうと、これだけドップリと物で溢れて便利な生活に慣れてしまった現代人が急激に「全人類ゼロウエイスト!」なんて無理な気がする。綺麗事や正論だけ並べて解決できるほど楽な事柄ではない。考えて欲しいのは、人それぞれ仕事も趣味も生き方も生活の仕方もバラバラ。どこに重きを置くかも個人の自由。そんな中、全く意識がなかった人に「ゴミをなくすためにコンポストしようね!」なんて話しても「いやいやそんな暇ない。そもそもその堆肥どこで使うの?私植物とか育ててないし。」という流れが現実だ。ご多分に漏れず私もどちらかと言えば「そんな暇ない。仕事と子育てで生活は満たされている。」という感じ。そして仮にこういう考えを押し付けてしまうと、最悪その人の大切な何か(趣味とか時間とか)を奪ってしまうことになりかねない。でも、反面同じ意識を持つ仲間が増えないと、現状の世の中では一向にゴミが減らないのも事実。そうゴミゼロへの道は非常に悩ましく険しく一筋縄ではいかない。だけど、それはもしかしたら考え方や捉え方次第で光は見えてくるかもしれない。
私は食べ終わったお菓子の箱や使い終わったトイレットペーパーの芯などは、性格的に物で溢れている環境が好きではないのですぐ捨ててしまう。(家族は私を捨て魔と呼ぶ)ある日3歳の息子の幼稚園から「ご家庭で要らなくなった箱などは工作で使うので都度持ってきてください。」というお達しが来た。息子はその箱たちを切ったり貼ったり手を加えながら毎日楽しそうに工作をしている。私にとってのゴミは、実は可愛い息子の知育玩具となっている。空き箱がゴミ箱に行こうが、息子の幼稚園での遊び道具になろうが、捨て魔の私の目の前から消えるので、ぶっちゃけどっちでも良い。でもゴミ箱→燃えるゴミ→ファイヤー!より、息子→楽しく遊ぶ→脳みそ刺激→空き箱で何を作ったか家族で会話→息子の成長を伺える機会の創出!の方がどう考えても建設的でコスパも良い。当然出来上がったものは後世に残すべき芸術品ではないのでホトボリ冷めれば、燃えるゴミ→ファイヤー!ではあるが、これだけ有効に使えれば十分に役割を果たせていると言える。この時代ある程度は文明から生み出された物を使って生活をしないといけない訳で、どうしたって地球や自然と調和しにくいゴミは出てきてしまう。でもそのゴミにどういうプロセスを踏ませるか?を考えるだけで、ゴミがゴミとして成立するまでの時間は稼げる。延命治療みたいで何だかネガティブに聞こえるかもしれないけど、この考え方や発想が、大きかったり大量に発生してしまうもので実現すれば、かなりの効果はあるのではないだろうか。
最近何かとプラスチックの事が問題視され、最も身近な存在でもあるペットボトルが標的にされている。日本にペットボトルが登場したのは1977年にしょう油の容器として採用され、その数年後に飲料用としても採用されたそうだ。1979年生まれの私。記憶を辿ると「びん→PET」「缶→PET」という変遷を肌で感じていたような気がする。しかしなぜPETボトルがここまで広まったのか?メーカー側からすれば「軽いし、扱いにそこまで気を使わなくてもよい」というメリットがある。しかしメーカー側がそんな仕事のしやすさを理由にペットボトルの使用を推し進めたわけではなく、単に消費者側の「ライフスタイルの変化」がそうさせたのだ。
分かりやすい例として、専業主婦が当たり前だったころは、日中母親が食材の買い出しをしに街へ出掛けていた。多少の重い荷物はそこまで負担にはならなかっただろう。でも今はどうだろうか?こと都心部の共働きの家庭であれば、仕事帰り最寄り駅からの帰り道にスーパーへ寄り食材を調達。場合によってはその足で幼い子供を保育園にお迎えに行き、徒歩や自転車で家路につく。そんな毎日の負担を少しでも減らすためにも軽くて扱い易い容器に変わることは必然であった。なんて話をびん屋なので半ば自虐的に話す機会が公私ともにちょくちょくあったのですが、最近はこの話はもしかしたらもう過去の話なのかも?って気がしてきていて。
なぜならこのコロナ渦でネット販売は一層加速し、重たい物は自分の足を使って買いにいく必要はなくなったのだ。であればペットボトル製品でなくても、びん入りや缶入りでもまったく問題ないのではないだろうか?(配送にかかるCO2のなんちゃらとかはとりあえず置いといて)
消費者は選べる余地があるなら缶やびんの方をチョイスする。そしてメーカー側は同じアイテムでも消費者が容器のチョイスができるラインナップ作りを検討して頂きたいところ。「実はゴミを減らしたいけど、買うべきものは必然的にゴミが出てしまう」という場合もあるだろう。でも少し現場の意見として明るい話をすると、少しずつ変化の兆しは見えていて「環境の事を配慮してプラからびんへの移行を考えています。」という類の問い合わせが最近増えている。もちろんSDGs的観点もあるとは思うけど、「ユーザーからの要望」という話も大いにアリ。「売り手(生産者)が変わってくれないと、私たち(消費者)は変われない。」なんて思いがちですが、実は逆で私たちが変われば、売り手は変わります。昨今のマーケティング同様に環境問題解決も「川上起点」ではなく「川下起点」ってことかも。そしてそれが国や世界を変えるキッカケになったり。
また、もし「ゴミゼロ」な思想や行動が、新たな趣味や生き方の一つに加わったらどうなるだろうか?例えば若者の中で「#ゴミ拾い」なハッシュタグが流行る。その流れを受けて各種アパレルメーカーがオリジナルのトング、ほうき、チリトリを発売。例えばコンポストが浸透しコンポスターなる人種が生まれ、コンポスト作りを競い合う。蕎麦屋の暖簾分けならぬミミズ分けとかが始まる。有名コンポスターのコンポストが高値で取引。1年待ちもざら。例えば街歩き雑誌では「東京バルクストア巡り」なんて特集が組まれたり、グルメ誌では「給水スポット味比べ」な企画が組まれたり。と半ばギャグ的に書きなぐったけど、イヤホンをして音楽を外で楽しむウォークマン、日本酒を気軽に楽しむワンカップ、ペットボトル入りの冷たい緑茶、電話を持ち歩く……。当時はだれもが考えもしなかったし、最初は受け入れられなかったけど、その後一般的になった文化や物は世の中に沢山溢れている。そう考えるとさっきのギャグ的発想もリアルになることは十分にあり得るのではないだろうか?それに堆肥だって量り売りだって水筒を持ち歩くだって、実践するかしないかはさて置き日本人が今までやったことがある生活様式の一つ。廃れたものでも感覚的には受け入れることができる素養はあるのではないだろうか?
と、最初からガッツリ否定的な内容ではじまった文章も、何だか最後は明るい前向きで夢のある文章に。深刻な事こそ明るく楽しく接して「あら!いつの間にか解決!」そんな感じでいけたらいいなと思ったり。モノづくりな立場と一消費者でもある私。どちらの気持ちも事情も察するところはあるんだけど、そこは生産する側も消費する側もお互いを認め合い、時にぶつかり合いながら切磋琢磨していく事で、より良い方向に向かっていくんじゃないかなとこっそり妄想しております。