Hiroshi Kariya,
OSDLM2018, B3 Flipped, Mixed Media, In progress thru 2019
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Hiroshi Kariya,
OSDLM2018, B3 Flipped, Mixed Media, In progress thru 2019
Hiroshi Kariya OSDLM2018 3 Variations Mizuma Art Gallery
Hiroshi Kariya, News Face Sutra 3-4/1999
Collage on canvas, News Article,, Acrylic, Vinyl Resin, 4”x5”
Private Collection
Hiroshi Kariya Mizuma One Stroke Dotted Line 2017 Mizuma Art Gallery
Hiroshi Kariya OSDLM2017 (Detail) Seed Sutra, Mizuma Art Gallery, Tokyo
レビュー 刈谷博展「ひとつの/そして/無数に偏在する/それ」 竹重伸一(ダンス批評)
刈谷博展「ひとつの/そして/無数に遍在する/それ」会場風景、ミヅマアートギャラリー 2018撮影:宮島径© KARIYA Hiroshi, Courtesy Mizuma Art Gallery
確かに筆者である「私」はこの展覧会が開催されたミヅマアートギャラリーの空間に2度足を踏み入れた。しかしその時「私」は一体どこに存在していたのだろう?
こんなことを考えてしまうのは、この展示を見ることが、細部は多くの同サイズの小品から構成されながらも優れて全空間的な経験だったからである。そしてその空間は単なる一つ一つの作品の和とは次元を異にしたものだったのである。
刈谷博が1984年から豆粒に書き続けているという「the now is」という英語の言葉を筆者なりに考えてみたい。「the」という指示代名詞によって固有化された「now」今という瞬間の運動が「is」空間的に存在する。この言葉が示しているのは切断された時間であり、時間の空間化のことではないだろうか。20世紀以降の美術史は時間の次元に表現の領域を拡大してきた歴史とも言えよう。例えばジャクソン・ポロックの抽象表現主義絵画には彼のアクション・ペインティングに伴った時間の痕跡も塗り込められている。その時間はあくまでも持続する有機的な時間である。しかし刈谷の展示空間から感じる時間は逆に無機的な時間である。刈谷の「種子経」は先ず彼の毎日の生の痕跡を示している。「the now is」と書き込まれている一日一握りの豆粒が貼り付けられた同じ手の平サイズのアクリル板の一つ一つが、一日一日の「the now is」であると共に、私たちが実際にギャラリーで見るのはそのアクリル板の無数の反復された集積なのである。豆粒の群れは一つ一つのアクリル板で違う模様を描きながら全体として微小な粒子の巨大な運動に見えてくる。
更に今回の展示では別の『顔経』と題されたシリーズも展示されていた。こちらの方は一つのアクリル板に一日一握りの豆粒が貼り付けられているのは同じながら、裏側に「the now is」が書かれた豆粒の表側には一つ一つ違う人間の顔写真が貼り付けられている。ニューヨークタイムズから切り抜かれたそれらの写真の中には、一目でわかる有名人も時折含まれているが、ほとんどが無名の人物であり、全体は固有性が消去された顔の巨大な群れである。人間に自己同一的なアイディンティティを保証する顔は豆粒にまで卑小化され、匿名な物質の集合に変容させられている。
そしてその『顔経』シリーズのネガとして考えるべきなのが、ギャラリー入口一番手前の左側壁に展示されていた『Rocket Attacks Attacks In Afgan Village』と題された、タリバンの発射したロケット弾によって殺されたという黄緑色のカバーで覆われた男性の遺体を前に佇んでいる、アフガンの村民たちを写した報道写真をコラージュした作品である。こちらの方は顔が切り抜かれて消去され、豆粒大ののっぺらぼーな顔に変えられた元の新聞記事である。刈谷に彼らの顔を消去させたのは死の力である。死のもたらす否定の力、空虚の力である。豆粒大の人々の顔の裏側には同じ人々ののっぺらぼーな顔が貼り付いている。「私」は死の力によって消滅し、無数のものに変容する。
刈谷の作品の徹底的な平面性もそのことと深い関係があるように思う。そこには「私」とその内面性を支える「神」の制度が作り出す三次元的な奥行きは存在しない。我々はあたかも一枚の皮膚のように広がる、それらのアクリル板の表面をひたすら見つめることができるだけである。しかし一度そのアクリル板に近づいてみると、その画面は、板、紙、インクの文字という「地」からビニール樹脂に包まれた豆粒という「図」が浮かび上がる極めて豊かな表情を持っていることに気づかされるのである。遠くから見ると遺伝子のゲノムのように蠢いて見えるその多様な豆粒の模様は近づいて見ると人間の皮膚のように有機的で官能的である。特に今回ミヅマアートギャラリーの空間に合わせて特別に制作されたという縦336cm×横213cmの巨大な作品『ミヅマ一筆点線画 10000粒の景』の豆粒の群れは、まさに蛇のように8の字状に力強くうねっていてとりわけ印象的であった。
冒頭の問いに戻ろう。「私」が存在していたのは刈谷が今回の展示タイトルの中で「It (それ)」と名付けた非人称の匿名的な空間である。その空間は刈谷の一日一日の反復的な行為に基盤を持ち、今回の展示を経過してまたそこに戻っていく。この展示空間はそうした日常の時間に開かれているが故にItには始めも終わりもないのである。刈谷博のそうしたItへのこだわりは河原温からの影響が大きいように思われる。しかしコンセプチュアルな匿名性を徹底するあまり『TODAY』シリーズで限りなくレディ・メイドに近づいた河原と違い、刈谷の作品においては手作業の技が復活している。人によってはそれを反動とみなす人もいるだろうが、筆者は現代美術の未踏の領野を切り開いたものと考えている。
文: 竹重伸一 (ダンス批評)
Hiroshi Kariya, Seed Sutra, 2003
Mixed Media:Collage, Time Magazine Articles, Vinyl Resin
Hiroshi Kariya 2018/2/1 99pcs New York