機械は考えることはできるが、しかし問題をつくりだすことはできない。機械に考えさせるためには、ブログラム・カードという、機械の言葉で書かれた質問票をあたえてやらなければならないのである。
安部公房『第四間氷期』講談社、1959年
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機械は考えることはできるが、しかし問題をつくりだすことはできない。機械に考えさせるためには、ブログラム・カードという、機械の言葉で書かれた質問票をあたえてやらなければならないのである。
安部公房『第四間氷期』講談社、1959年
スタージョンの法則は普通、もっと単刀直入に「すべてのものの九〇パーセントはクズ(crap)である」と表現される。分子生物学の実験の九〇パーセント、詩の九〇パーセント、哲学書の九〇パーセント、数学誌の査読付き論文の九〇パーセント等々は、クズだということだ。これは真実だろうか? たしかに、これは誇張であるかもしれないが、しかし、どんな分野にも多数の凡庸な仕事があるということは認めておこう(それはもっと多くて九九パーセントだと言うへそ曲がりもいるが、こんなゲームに加わるのはやめよう)。
ダニエル・C・デネット『思考の技法──直観ポンプと77の思考術』阿部文彦、木島泰三訳、青土社、pp. 65–66
ウィリアム・ジェイムズは「人生は生くるに値するか」という文章のなかで、たとえ宗教や哲学を持っていないひとでも、自殺一歩手前というところで、次の三つのものによって踏みとどまることができるはずだといっている。第一は動物ですら持っている単純な好奇心で、人生にまったく生きる意欲を失った人間でも明日の新聞に何が載るだろうかとか、次の郵便で何が来るかを知るためだけでも(自殺を)あと二四時間のばすことができる。第二は憎しみや攻撃心であって、たとえ心のなかで愛や尊敬のような感情が死んでいても、自分をこんなひどい目にあわせるものに対して戦おうという感情に支えられることもできる。第三は名誉心で、自分というものの存在を可能ならしめるために、どれほどの犠牲が払われたか、たとえばどれほどたくさんの動物が自分を養うために屠殺されて来たかを考えれば、自分もまた自分の分を果たし、これくらいの悩みは耐え忍ぼうという気をおこすのがふつうである、といっている。
動物の屠殺の項はいかにも西洋人の意見らしくておもしろいが、この名誉心というのを自尊心ということにふりかえてみるなら私たちにもうなずける。日本の大学生たちに自殺についての意見を書かせてみると、自殺は卑怯であると記す者が多い。自尊心と生への責任感が自殺をふみとどまらせるのに役立っていることはたしかであろう。
神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房
フランスの古い物語にこういうのがある。山奥でいつもたったひとりで牛番をしていた男がある時都会へ出て来て、オペラに招かれた。うまれて初めて見る華麗な舞台にすっかり感激したこの牛番は思わず次のように叫んだという。「ああ、ここにぼくの牛たちがいたらよかったのになあ」と。
神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房
長い一生の間には、ふと立ちどまって自分の生きがいは何であろうか、と考えてみたり、自分の存在意義について思い悩んだりすることが出てくる。この時は明らかに認識上の問題となってくるわけで、大まかにいって次のような問いが発せられるわけであろう。
一 自分の生存は何かのため、またはだれかのために必要であるか。
二 自分固有の生きて行く目標は何か。あるとすれば、それに忠実に生きているか。
三 以上あるいはその他から判断して自分は生きている資格があるか。
四 一般に人生というものは生きるのに値するものであるか。
神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房
自分の幸福について語るときにはひかえ目でなくてはいけない。あたかも盗みをざんげするかのように告白しなければならない。(一九〇六年一二月一〇日)
ジュール・ルナール
酒は百薬の長――古くから飲酒の免罪符のように使われてきたこの言葉が今春、国税庁のホームページから消えた。「適量なら問題ない」と思っている人は少なくないが、実際のところ、飲酒にメリットはあるのかないのか。
お酒が「少しなら体に良い」と信じられてきた根拠に、飲酒量と死亡リスクの関係を示す「Jカーブ効果」というグラフがある。お酒を「まったく飲まない人」に比べ、「少しだけ飲む人」の方が心臓病などのリスクが下がり、長生きするというデータだ。
お酒好きにとってこれ以上ない免罪符だったが、近年の大規模な検証によって、この定説は完全に覆された。「少し飲む人が健康に見えた」のは、実は統計上の「錯覚(バイアス)」に過ぎなかったのだ。
これまでの調査では、「まったく飲まない人」の中に「病気になったからお酒をやめた元・愛飲者」が多く混ざり込んでいた。そのため、飲まない人たちの死亡率が見かけ上高くなり、結果的に「少し飲んでいる人」の方が健康に見えていただけだったのである。さらに、適量で晩酌を楽しめるような人は、もともと経済的・時間的に余裕があり、食事や運動など、飲酒以外の生活習慣が健康的であるという背景も重なっていた。
こうした「不健康だから飲まない人」や「生活習慣の差」というノイズを最新の技術で取り除いたところ、悲しいかな、グラフのくぼみは消え去った。お酒は「飲めば飲むほど、量に応じてストレートに死亡や病気のリスクが上がる」という厳しい現実だけが残ったのである。
ただし、科学の世界でこの議論が「完全に決着した」わけではない。現在、WHOなどは「お酒に安全な量(適量)はない」という厳しい姿勢をとっているが、最新のアメリカの専門機関の報告書の中には「データの補正方法によっては、やはりごく少量の飲酒には心臓病などを予防する小さなメリットが残る」と主張するものもあり、専門家の間でも意見が対立している。つまり、「確実に体に良い」とは言えないものの、少量飲酒の是非にはまだグレーゾーンが残されているわけだ。
酒は百薬の長――古くから飲酒の免罪符のように使われてきたこの言葉が今春、国税庁のホームページから消えた。「適量なら問題ない」と思っている人は少なくないが、実際のところ、飲酒にメリットはあるのかないのか。
お酒が「少しなら体に良い」と信じられてきた根拠に、飲酒量と死亡リスクの関係を示す「Jカーブ効果」というグラフがある。お酒を「まったく飲まない人」に比べ、「少しだけ飲む人」の方が心臓病などのリスクが下がり、長生きするというデータだ。
お酒好きにとってこれ以上ない免罪符だったが、近年の大規模な検証によって、この定説は完全に覆された。「少し飲む人が健康に見えた」のは、実は統計上の「錯覚(バイアス)」に過ぎなかったのだ。
これまでの調査では、「まったく飲まない人」の中に「病気になったからお酒をやめた元・愛飲者」が多く混ざり込んでいた。そのため、飲まない人たちの死亡率が見かけ上高くなり、結果的に「少し飲んでいる人」の方が健康に見えていただけだったのである。さらに、適量で晩酌を楽しめるような人は、もともと経済的・時間的に余裕があり、食事や運動など、飲酒以外の生活習慣が健康的であるという背景も重なっていた。
こうした「不健康だから飲まない人」や「生活習慣の差」というノイズを最新の技術で取り除いたところ、悲しいかな、グラフのくぼみは消え去った。お酒は「飲めば飲むほど、量に応じてストレートに死亡や病気のリスクが上がる」という厳しい現実だけが残ったのである。
ただし、科学の世界でこの議論が「完全に決着した」わけではない。現在、WHOなどは「お酒に安全な量(適量)はない」という厳しい姿勢をとっているが、最新のアメリカの専門機関の報告書の中には「データの補正方法によっては、やはりごく少量の飲酒には心臓病などを予防する小さなメリットが残る」と主張するものもあり、専門家の間でも意見が対立している。つまり、「確実に体に良い」とは言えないものの、少量飲酒の是非にはまだグレーゾーンが残されているわけだ。
そのような二流の人物たちになぜ関わるべきなのだろうか? ちゃんとした理由があるのだ。私は、ヨーロッパの美術館を訪れるまで、自分は十六、十七世紀の多くの画家について、本当の意味ではその価値が分かっていなかったのだと思い知らされた。というのも、それらの美術館で私が見たのは、訪れる部屋から部屋を埋め尽くしていた、同じジャンルの二流の絵画だったからである。もしあなたが、入門的な美術史概説の授業や、一流美術館で見られるような、優れたモノしか見たことがなかったら、その優れたものがどんなに優れているのかを正しく捉えるのは難しい。良い図書館と大図書館〔ないし偉大な図書館〕の違いをご存じだろうか? 良い図書館にはすべての良い本があるが、大図書館にはすべての本があるのだ。偉大な哲学者を本当に理解したいならば、その偉大な哲学者の陰に隠れている、それよりは若干劣る同時代人と先輩たちを考察することに、ある程度の時間を費さなければならない。
ダニエル・C・デネット『思考の技法──直観ポンプと77の思考術』阿部文彦、木島泰三訳、青土社、p. 627
人間がいかにしてこうした性質を獲得したかというのは、進化理論において未だ解決されていない重要な問題だが、社会生活のあらゆる領域で、人々が他人の話に首を突っ込む傾向を強く持っていることは明らかだ。これは、社会規範を実効化するために即席の協力関係を築くことを可能にするため、社会的安定性を大きく増大させることが多い(例えば、行列に割り込もうとする人や、弱かったり傷つけられやすかったりする人を虐待している人に対して第三者がどんな行動をとるか考えてみよ)。しかし、これが対立をエスカレートさせる場合もある。命を脅かすような暴力の多くはこの第三者効果、つまり、当初の当事者ではなく、当事者によって巻き込まれた「協力者」たちによって生じている。協力者の介入が対立を緩和したり悪化させたりする理由の解明は、犯罪学や紛争研究における大きなテーマである(この点で、マーク・クーニーの“Warriors and Peacemakers: How Third Parties Shape Violence”『戦士と仲裁者:第三者はいかに暴力を形作るか』は推薦してもしきれない)。
ジョセフ・ヒース「キャンセル・カルチャーはシンプルに説明できる」(2023年12月3日)
批判が公正であると見えれば見えるほど、耐えるのが難しい場合もあるのである。ある著述家について、何か弁護可能な解釈を見つけ出そうと英雄的な努力をすることは、それが空しい努力に終わった場合、怒りに満ちた中傷よりもずっと壊滅的な結果を生み出すこともあるということも、覚えておく価値のあることであり、心にとどめておいてほしい。
ダニエル・C・デネット『思考の技法──直観ポンプと77の思考術』阿部文彦、木島泰三訳、青土社、p. 64
論敵を戯画化するというこのような傾向に対する、私が知るかぎり最善の解決策は、社会心理学者でありゲーム理論の研究者であるロバート・ラパポート(ロバート・アクセルロッドによる伝説的な「囚人のジレンマ」トーナメントで勝利する「しっぺ返し」戦略の創始者)がかなり以前に広めた一連のルールである。
上手な批判的コメントの作り方。
一 あなたは標的の立場を、標的に「ありがとう。そういう風に述べようとしていればよかったですね」と言わせられるほど明確に、鮮やかに、そして公平に、表現し直すべきである。
二 あなたが同意できることを(とりわけ、一般に、また広く認められていないものは特に)リストアップすべきである。
三 標的から学んだことがあれば、それが何であっても言及すべきである。
四 そのようにしてはじめて、あなたはそれにふさわしい反論や批判の言葉を述べることが許される。
ダニエル・C・デネット『思考の技法──直観ポンプと77の思考術』阿部文彦、木島泰三訳、青土社、pp. 61–62
物理学者ウォルフガング・パウリが、同僚の研究に対して発した「間違えてすらいない」という有名な軽蔑の言葉がある。批判者たちの間で共有される明瞭な誤謬は、暖昧なたわごとよりもすぐれている、ということである。
ダニエル・C・デネット『思考の技法──直観ポンプと77の思考術』阿部文彦、木島泰三訳、青土社、p. 52
あえて誤る〔ミスする〕という危険を冒そうとするだけではあきたらず、窮地を脱するための明確で詳細な情報が手に入るなら、実際に誤ろう〔ミスしてみよう〕とすることもあるだろう。この場合、誤る〔ミスする〕ことが先に進むための鍵なのである。もちろん、いかなる誤りも犯さないことが絶対に重要である場合がある。たとえば、外科医や飛行機のパイロットである。しかしながら、広く認められていることではないが、誤る〔ミスする〕以外に道がないような場合もあるのである。
ダニエル・C・デネット『思考の技法──直観ポンプと77の思考術』阿部文彦、木島泰三訳、青土社、p. 42
哲学者たちはなぜ自分の分野の歴史を教えたり学んだりすることにあれほどの努力を傾けるのかと、科学者たちはよく私に訊いてくる。化学者たちはたいてい化学の歴史についてごく初歩的な知識しかもたずにうまくやっているし、同様の事例をあげれば、多くの分子生物学者も、〔分子生物学が成立した〕一九五〇年頃以前の生物学でどんなことがあったのかに対して興味すら抱かないように見える。科学者たちの問いに対する私の答えは、哲学の歴史とは結局、とても魅力的な誤りを非常に賢い人々が犯してきた歴史であり、その歴史を知らないとそれと同じ忌々しい誤りを何度も繰り返すことになってしまう、というものである。だからこそ、私たちは哲学の歴史を学生たちに教えるのであり、軽率にも哲学を無視する科学者たちはそれなりのリスクを背負わなければならないのである。
ダニエル・C・デネット『思考の技法──直観ポンプと77の思考術』阿部文彦、木島泰三訳、青土社、pp. 41–42
「ウソ偽りを信じるくらいならむしろ永久に信じないでいるほうがましだ」と語る者は、ひとに欺かれることに対する彼自身の内心の恐怖が圧倒的に強いことをもっぱら物語っている。……これはちょうど、身に一カ所の傷を負う危険を冒すくらいなら、戦闘を永久に見合わせるほうがいいと兵士に告げる将校のようなものである。そんなことでは、敵に対してにしる自然に対してにしる勝利はえられない。われわれが犯す誤りは、むろんこれほどひどく厳粛なものではない。どんなに警戒したところでまず確実に誤りが引き起こされるこの世の中では、いくらか軽い気持ちでいるほうが、誤りに対してこんなにまで神経をとがらせるよりもいっそう健全であるように思われる。
ウィリアム・ジェームズ『信ずる意志』