スープカレーに世界平和とギャラクシーを見た話
最後の投稿がどのくらい前だったか思い出せない。
このサイトは更新されないまま、ネットの海に漂流しつづけるのだろうと思っていた。
でも今日食べたカレーが、とにかくとてつもなかったので、ここでそれを吐露しなければならない衝動に駆られ、パスワードを思い出しながらログインした。長くなるけど聞いて欲しい。
目黒のシャナイアに行った。ネットで見た写真がおいしそうで、どうやら孤独のグルメのロケ地らしくて、店名がかっこよかったから。
私はカレーの専門家でも評論家でもないが、スープカレーは最後のひと口がいちばんうまい。というか、最後のひと口がいちばんうまいスープカレーが、うまいスープカレーだと思っている。
今日食べたシャナイアのスープカレー、最後のひと口で私は泣きそうだった。世界、このスープカレーのようであれと、とんでもなく大きな感慨に浸ってしまった。
ザラザラとして、丸く重厚な、どんぶりのような器。そこに、数え切れないほど多くの要素で構成された、銀河がそっくり収まっていた。ほろほろのチキン、皮付きのニンジン(かなりでかい)、パプリカ、クコの実、エリンギ、大根、じゃがいも、ブロッコリー、エトセトラエトセトラ。
具材の種類がとにかく多いのだが、それだけが銀河たる所以ではない。これはスープカレーという1つの料理ではなく、もはや具材ひとつひとつの、逸品料理たちのるつぼだった。
私はスープカレーが大好きだ。本場の札幌に行ったら、胃の容量を少しでもあけるために米は食べず、毎食スープカレーを食べ続けるほど大好きだ。だから今まで、とにかくたくさん食べてきた経験値の自負はある。私は今日この日まで、スープカレーは主役のスープが決め手だと思っていた。素材の美味しさを活かす店でもなお、やはりあくまで主役は個性を持ったスープだった。
でもシャナイアで、その先入観は簡単に覆ってしまった。シャナイアのスープは主役ではない。具材をひとつひとつを主役とし、平等に、平和に、最善の形で生き生きとさせるための、「環境」そのものだった。
チキンを食べると、チキンとそのまろやかさを引き立たせる香りがする。
ニンジンを食べると、素材の甘みと、それを最大限に引き出す風味をほのかに感じる。
エリンギとパプリカを一緒に口に入れると、ほかとは全く違うさわやかな料理になる。
ひと口ひと口に魔法がかかっているようだった。同じ風味のスープに浸かっているはずなのに、それぞれが全く違う魅力を、全力で解き放っていた。ほかの者に紛れ、人数合わせで存在している者や、環境にのまれて我を失っている者は、1人もいなかった。それぞれの輝きを持って、互いを妨害せず、確かに存在しているもの同士の銀河が、世界平和がそこにはあった。何を言っているんだろう私は。けれどそこに、ざらついた重い器のなかに、確かに平和は存在していたのだ。
平和とは、うつくしい均衡を保った銀河とは、環境であり、土壌だったのだ。すべてのものが心から安心して存在でき、互いを干渉せず妨害しなくてよい。だからこそ持ち前の魅力を、自信を持って発揮できる、計算された環境だった。現実の生活にこれを具現化するのは困難極まりない。ただここに、平和の象徴は確かに実在していた。
そんなことを考えながら口に入れた最後のひと口は、宇宙的なうまみの全てが集約されていて、本当に涙が込み上げるほどおいしかった。店内に所狭しと並んだ猫の置物や絵画に囲まれて、さながら私はスペースキャットだった。お店の売りとしてうたわれる薬膳は、心までも整えてくれてしまった。むしろ整いすぎて、ちょっとおかしくなっているかもしれないが、広い宇宙の中ではこれは微々たる誤差であろう。
世界平和の存在を証明してくれて、ギャラクシーを具現化してくれて、ありがとうシャナイア。曇天の目黒で、私は救済されてしまった。世界、このスープカレーのようであれ。














