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An archive and research center dedicated to Western Marxist Hungarian philosopher György Lukács is on track to reopen years after Viktor Orb
「研究者」
一応、わかりやすいので研究者と名乗ってはいるものの、博士号ももたない自分がそういうのもなあと思うことはあるし、論文や学術書をバリバリ書くというタイプとも違うので、自分は基本的には分野のなかの「飛び道具」みたいなものだと考えている。ポピュラライザーとも違う。単純に中東欧の研究をしているひとがあまり書かない媒体に書いて、同時にそれを歴史研究のコアな部分の仕事と他の表層的なはなしをつなげていく役割、みたいな役割に意味を見出しているのではないかと時々感じる。誰かに頼まれたわけではないけれど、そうすることで面白い相乗効果を何かのかたちで産むことができればよいのではないだろうかと考えている。自己規定での「研究者」が一体なんであるのかというのは、ひとによって結構変わるところがそもそもあるのではないかな。
最近、今後の(生成AIの進化以降の)研究者は、書いたものがよいかどうかではなく、書いたものとどう自分の行動が一致していくのかみたいなことが重要になるのではという議論を目にしたのだけれど、この点はもうずっと「研究」をするうえで自分が意識してきたことで、「研究」ということによって「生き方」を規定しているという意味では、結構そんな「生き様系研究者」である自負をもっているように感じる。
でもみんなそれほど一貫して生きられるようなケースも時代もないだろう。だからこそ、それはあくまで自分の生き方を規定する基準であるべきで、他人を断罪する道具にしてはならない。
Star Wars po polsku
改めてAI使用関連で考えたこと。
明確な所属先であったり、即座に相談できるような部署やシステムをフィジカルにもたず、家でひとりで研究をしていることがもっぱら(研究生活の95%)なので、正直AIはちょっとしたアイディアを相談したり、スケジューリングの手伝いをしてもらったり、書いてある内容がクリアーかどうかを尋ねたり、どうしても書きあぐねている箇所についてアドバイスをもらったり、そういう使い方が自分には必要なように思うし、実際それは、仕事に向き合うストレスを低下させ、作業の効率化を可能としている。
このようなツールは、他方、コントロールできるうちはよいけれども、日常的な使い方をしているといつ一線を超えてしまうかわからない。利便性だけ、時間の短縮だけを目的にすると、必ずそういうポイントはやってくると思う。今のところ、1日も使わない日もあれば、結構長く使う日もある。長く使う日の使い方は、アイディアの整理のためにあれこれ文献を調べながらやっている時か、具体的な課題などに取り組んでその直しを集中的にやっているとき。そうした自分の利用パターンの把握(やそれを目的にした記録)も大事だと思う。
ただし自分は、AIについてはおおむね親和的な感情をもっている。それは、自分はインターネットのメールサービスやサーチエンジンが一般的になった頃に大学に入学し、それを当然のように使用しながら、大学を卒業した世代で(今に比べれば全然だが自動翻訳などもあった)、またSNSも普及し始めた頃で、技術的条件の変化がどのような影響をもつのかということを、今よりはるかに規模は小さいにしても、相対的に考えることのできた世代だからである。たとえば、当時はWikipediaの信頼度のようなものは今より格段に低かった。今ももちろんWikipediaを直接引用するようなことは推奨されないにしても(誰がどのような公刊物に基づいて編集しているかわからない以上)、有象無象の情報サイトが溢れる中で、とある事象や人物、機関についての蓋然的な情報を把握するために、まず目を通すという段階で、他のソースより優先的に閲覧することが妥当だと感じる人が多いのではないだろうか。これは長い時間を経て、その技術や現象が、エスタブリッシュされていく過程があることを示しており、おそらく技術の進展や登場自体は不可逆的であろうという、わたし自身の(PCを8歳から触り、10歳からインターネットを使っており、通信系ガジェットにかなり囲まれて生活していたということにもよる)個人的な感覚に基づいている。
以下は今後の運用ポリシー。
***
AI関連の個人的ポリシーと運用・考え方の表明
(ここではアカデミックな場面での利用について。一般的なメールでの問い合わせや、アカデミア外・勉強など以外での情報取得に関する利用(たとえば法令などの解釈の説明、説明書などの解読、は適宜判断。)
⭐️基本的にはAIふくめ技術的なことに関心をもち、使用・利用のなかで自分の知識をアップデートすることは別途必要だが、仕事にどのように使うかは、倫理>有用性>緊急性の基準で判断することを第一とする。
・原則として所属先であるTUFSの倫理規定を参照する。https://www.tufs.ac.jp/documents/abouttufs/outline/guidelines/tufs_ai_guideline.pdf
ただしここでは具体例などは(個人情報を取り込まないこと以外には)充実していないので、その点に留意する。
・自動翻訳やAI翻訳は、「読むべきかいなかを決めるため」「自分が従前に知識がない言語で書かれたものの概要を調べるため」にのみ使う。自分が読めるものについてはなるべく楽をしない。
・画像生成についてはほぼ使用を考えていないものの、著作権を侵害しない範囲の画像生成(地図・年表など)には使ったVerを明記のうえ使用可能とする。
・DeepL Writeはmisconductにつながると解釈されるケースもあるので、基本的にはCorrections Onlyとし、最終的な修正の可否の判断も自分で責任をもって行う。
・DeepL Translatorについては、このHohenheim Universityの提示する案に基本はしたがうようにする。つまり、自分が十全に使用できる言語においてのみCorrectionや書き直しの提案を、最終的に自分が判断するという原則によって利用可能とする。
Machine translation tools can help you communicate with people who do not speak your language well. However, there are a few things you need
(一部の資料づくりで急に大量の自動翻訳を必要とするような場合には、その資料の閲覧範囲が極めて少人数に限られる場合は利用するかもしれないが、それも「望ましくはない」というスタンスで考える必要がある。)
・Basel大学によるAI利用規定も参照。特に、AIのログをつくって表にしておくというのは大事だと思う。参考文献への記載例の具体的な表記もあり、これは参考にしたい。
・ソースを読み込ませることについてはすでにOpenソースとなっているテキスト、ページ、動画、あるいは自分が責任を持てる範囲の自筆原稿以外は基本的に利用しない。ただし文字の解読など、ひとりで不可能な場合に必要であれば行うことについては、セキュリティを考慮したうえで可能とするも、他者の助けを借りることができる状況や時間的余裕(資源的余裕)があればその選択を優先する。また、そのような余裕をもてるよう努力する。
・学生などにもシェアできる、また自分でも考え方の面で応用すべきと思うのは、ケンブリッジ大学の以下の考え方。Permissble useとAdvisable useのちがいに注意している点が特に有益。AIは使って良いけれど、使うことが推奨されるわけではないらということ。他の人間と同じように扱い、AIだから(人間と違って勝手にコピペしてよい)という判断をしないことが大事という。他の人が手伝ってくれてアウトなラインは、AIについてもアウトという認識をもつべきおの評価。
On this page: Policy on the use of generative AI Policy on plagiarism Further information Policy on the use of generative AI Summary: In lin
・執筆などの過程で、上記にもとづきAIを使用した成果物について、必要と思われる範囲でチャットなどのログを残す(基本的にデータのAI学習への利用を拒否する設定をとる立場なので、古くなったものはそもそも記録から消すこともあるので、ログはコピペなどで残すことを考えている)。
・使用するAIは原則としてサブスクリプションをしているもののみとする。無料版では、検索としての精度にもやや不安があるように思い、なるべく「使うと決めたら課金」しておくほうがよいようには思っている。
現在の課金状況→①Claude 個人向けProに加入。②NotebookLM スタンダードプラン。Claudeがメイン、NotebookLMは論文サーチ(Deep Search)にサブで使っている。
その他にもAI Poweredということで使っているのは、上述のDeepL(おもにWriteを文法チェックで)、Elicit(登録あり、課金なし)、Transkribus(登録あり、課金なし)、Semantic Scholar(登録なし、課金なし)であり、これらはあまり使っていない。
***
わたしはAIの専門家ではないし、盗用・剽窃などを体系的に網羅したりする部署にいた経験をもつ研究者でもない。他方で科学研究費をもらっていたり、他人のプロジェクトとに関わったりもしているので、自分で強い意志と知識のアップデートをもって、取り組んでいくしかないように思う。
研究者としては抑制的にAIを使いつつ、一方で21世紀に生きるひとりの市民・権利者としての責任や知識探究にまつわる技術のあり方を考えることを怠らない。
一方、高等教育(人文科学を念頭においた一部)なるものが、生成AI関連の技術の使用を完全に明確に否定し、自分の頭と物理的な本を中心に知識の再構成と進展を目指す場として改めて自己定義と価値の創出をするのであれば、それはそれでひとつの道なのではないかと思う。ある意味では、「生成AIみたいなことを自分で回答し、検証できること(そして、自分一人で検証できる範囲がいかに狭く、また検証およびそこから新しい発想を展開するのが、時間も労力もかかることであること)を学ぶ場」として、もしかしたら大学という機関は、高度に知的な作業に価値を置く一部の人や、空間の共有による知識獲得に関心を持つ人のニーズを満たせるかもしれない。高度な趣味空間ということで、それは、公共の価値を目指した高等教育からはおそらく遠いものになるのだが、同時に、どのみち大学が学位(というなんらかの通行手形的存在の)生成機関としてしか多くの人にとって意味を持っていない現状、真に知的な探究を行いたい人だけのものになるのは、そう悪い話でもないように思う。それは大学の周縁化であり、大学的知の疎外ではあるのだが、それもまたひとつの未来として、そのように変化するのであれば、なるべく十全な形で変化に対応できるように考えていくしかない。
あるいは、AIは人間の脳の拡張機能として、もっと根本的に思考の基盤を変えていくとするなら、その場合にどういうシナリオがあるのかはまた別の機会に考えたい。
[読書メモ] 「鉄のカーテン」とは何だったのか?
ケンブリッジ大学出版のElements: Soviet and Post-Soviet Historyというシリーズの、その名も『The Iron Curtain: A Short History of Socialist Borders』(Lorenz M. Luthi著)がOpen Accessになっていたので、早速ダウンロードして読んだ。著者はカナダのマギル大学で近現代史を教えていて、もともと中ソ関係に関する著作などがある。
今回は、中・東欧を中心に広範な地域を扱うものになっている。分量自体は80ページ程度の概説書という感じで、全体に目を通すこともそこまで大変ではないけれど、事実としても史料としても全然自分の知らないこと盛りだくさんで、まだまだ読み返す必要があると感じている。
最近のインターネットの記事っぽいタイトルをつけたが、「「鉄のカーテン」とは何だったのか?」という内容。そもそも、ベルリンの壁だってまだ建設されていない時に、チャーチルがぽろっといった一言が何でここまでわたしたちの冷戦理解を規定していて、視覚的にも、思想的にも、遡及的・還元的な影響をもっているのかというのは、それ自体が大きな問いであるがゆえに、細分化して考える必要があるという本書の手法にまず納得させられる。
似たようなアプローチの本としてはMaek Kramer編著の『Imposing, Maintaining, and Tearing Open the Iron Curtain: The Cold War and East-Central Europe, 1945–1989』などもあるけれど、Lüthiの著作は「鉄のカーテン」という言葉の含意と実態にこだわったもの。
とりあえずここでは、本書を一読して面白かった点の紹介。
***
・「鉄のカーテン」は段階的につくりあげられたもの。そんな「鉄のカーテン」が各国の実際の生活のなかでどう見えたか。西側対東側という理解を取っ払って、「要塞化」された国境を周縁の視点から見てみる。
・ベルリンの壁ができる前から、たとえばチェコスロヴァキアのドイツ系住民追放やポーランドに残っていたユダヤ人の移住など、第二次世界大戦の余波としての移動はあり、それは道具化され制限・支配として機能していた。英国の戦後政策で、パレスチナへのユダヤ人の移住を制限しようとしたことなどが、チェコスロヴァキアの国境政策にも大きな影響を与えた事実など(東からの一方的な断絶ではなかった)。
・近代国家の基本は「入国」の管理にあるけど(移民管理とか)、社会主義圏は「出国」(特に自国民の)を制限したという点に特徴がある。国民が国家にとってきわめて大事な資源となっていたみたいな話でもあり、実は社会主義圏の中でも各国のボーダー(ハンガリー・ユーゴスラヴィアとか)は大きな隔たりを生み出したものだった。思想的なことだけでなく、労働力管理といった問題もあった。
・ユーゴの事例は面白く、たとえばイタリアと1954年までトリエステでもめたり、オーストリアともケルンテンの問題などあった。労働移民を黙認し、特にソ連との決裂以降は事実上国境政策が他の社会主義国よりも取られていなかったなど。ただし、戦後すぐの数年間はパスポートなどが取り消される事例が多く、ユダヤ系住民のみ、イスラエルとの二国間合意により出国可能だったなど。
・ハンガリーも、最初の数年間、隣国オーストリア(やユーゴ)との国境はそこまでしっかり管理されていなかったが、政治的な粛清が始まると、越境者の送致などが始まったと。1947年国境封鎖。しかし流出は継続し、地雷や監視塔などつくられる。法律もそれにあわせて整備。時にオーストリア側の警備員を殺傷してしまうなど。
・チェコスロヴァキアの国境はハンガリーに続いて閉じられた。ここでも最初の数年間は西ドイツやオーストリアに対してある程度開かれていたものの(つまり、警備などの態勢が不十分であった)、既に第二次大戦終結後から個人的な目的での旅行や移住は制限されていた。ポーランド系ユダヤ人の西側へのトランジットポイントにもなっていた。自国民を撃ってもよいという法律や出国ビザが厳格化されたのが、クーデターの起こった1948年の日。ハンガリーの政策にも似ているけど、結構国内の管理という点では異なっているとも。難民死亡者よりも国境警備隊の死者のほうが多かったとも。
・東ドイツは、もともと戦後にソ連や英米仏など4カ国でベルリンや境界地域、トランジットなどが管理されていたというのは他の国と違う点。敗戦国(ハンガリーもだけど)ならでは。1949年の東独建国までは、不法に出国しても犯罪扱いにはならず送還されるだけだった。ただし殺害などのケースも。1948年6月のソ連ベルリン封鎖は物資の問題だった。人の移動ではなかった。国境地域に近い人員の1万人以上が強制移住(あるいは自主的に退避)させられた。1953年ベルリンの蜂起から55年あたりのあいだは多くが西ベルリンへ亡命し、61年の壁建設までそれは続く。ハンガリアン・ピクニックの記述もすこし。
・他の「鉄のカーテン」事例としてソ連・フィンランド国境やバルカンにおけるユーゴ・ブルガリア国境、コーカサス地域などをまとめた章もあり。行き来が認められるようになった地域などもある。
・それぞれの国で異なる「鉄のカーテン」成立に対応する出来事があった。そもそも戦時中に埋められていた地雷などもあって国境警備や管理の問題は、大きな暴力を伴うもので、「要塞化」という言葉の示す現実を抜きにしても過酷なものだった。1960年代(あるいはスターリン死後)には一部軟化した国境政策も。
***
いわゆる西側諸国と接している国などを中心に書いているので(まあそれが「鉄のカーテン」のコンセプトでもあるし)、ポーランドに関する記述も一部はあったものの、限定的だった。住民移動の話含め、あるいはソ連との国境(ウクライナの共和国との国境)含め、いろいろと書けそうなことがあるのではないかとも考えた。イスラエルへの移住などでも。
現代でも地続きの国境政策や管理の話は、重要な含意があると思うので、そうした問題を考える材料にもなればよいと思う。
Seriesの表紙はこんな感じでコムナルカの写真。
ウクライナ研究の「揺り戻し」?
ロシアのウクライナへの全面侵攻から丸四年が経ち、その間に本当に多くの学術書が出版され、世界中でいろいろな講演会・学会などが開催されてきた。その中で、これまでは、戦争の最新情報などを含めつつ、「ウクライナそのもの」についての紹介や討議、またウクライナをめぐる語りの条件(脱植民地化論など)が問われることが多かったが、議論の成熟の結果なのか、さらに現在は、より副次的かつ反省的な問いが生まれてきているように思う。単純に言えば、この四年間で生み出されてきた知識の蓄積そのもの、戦時下での知識生産そのもののあり方への関心ということだとも言えるだろうか。
そうした一歩引いた視点からの、あるいはメタなレベルでの議論も活性化されている一方、米国やヨーロッパにおける政治状況の「分断」(あまりこの言葉自体は好きではないというか何か解決したつもりになる、よくないマジックワードだと思うのだが)の影響もあって、この四年間の爆発的な関心の高まりに対するある種の「揺り戻し」的な現象も見られはじめているのではないかと思う。
具体的には、以下の三つの事例。
***
①ハーバード・ウクライナ研究所(HURI)への助成金の打ち切り
2022年以降、ハーバード・ウクライナ研究所(HURI)は出版部門などを立ち上げつつ、従来の学術フェローシップだけでなく、政策対話なども展開するようになった。もともと名の知れた研究所ではあったけれど、他の国・地域のウクライナ研究の拠点とは違って、比較的政治色が薄かった(今でももちろん学術のほうに力点はあるけど)ので、この展開は興味深かった。
しかし、2025年4月にトランプ政権が全米人文科学基金(NEH)を通じての約20万ドルの助成をに打ち切ることを告げ、出版部門が実際に影響を受けているとのこと。NEHのアジェンダが大統領のアジェンダの影響を被っているのは、もちろん現在の政策の影響で、所長であるセルヒー・プロヒーによれば単なる金額の問題ではなく長期的な関心低下につながる流れと苦言。
②ユーリィ・スリョースキンの『西側(The West)』書評とそれをめぐる反応
2025年12月、カリフォルニア大学バークレー校のロシア史家であるユーリ・スリョースキン(Yuri Slezkine)がThe New York Reviewに『The West: The History of an Idea』とゲオルギオス・ヴァロウサキス(いうGeorgios Varouxakis)の本の書評をNYRBに寄稿して、「ロシア」は西側が自己定義に必要とする概念でその逆ではないこと、また、ウクライナを「エスノクラシー(民族集団による支配体制)」と論じたことなどに批判が集まった事例。
同書評を受けて、同じくバークレー校の中欧史家であるジョン・コネリー(John Connelly)とニューヨークのバード・カレッジのマリア・ソネヴィツキー(Maria Sonevytsky)が反論を加え、スリョースキンもそれに応じた事例。
Why ‘The West’?: An Exchange John Connelly and Maria Sonevytsky, reply by Yuri Slezkine (April 23, 2026)
コネリーは、スリョースキンの批判は本質的に西側批判で、西側が退廃で生存の問題を抱えているというプーチン政権下のロシアのナラティブに沿ったものであることを指摘。また、ウクライナが抱える(かつてナチス・ドイツに対してポーランドの村やチェコのリディツェが抱えたような)抹消への恐怖を否定して「西側」を攻撃するのは、ロシア自身がヨーロッパや人権という可能性に怯えているからだと批判。
ソネヴィツキーは、かつてはロシアが北極圏の少数民族に対して行ったことを批判していた歴史家であるにもかかわらず、現代ロシアの植民地主義的な視点を意図的に見過ごしているように見えると指摘。「「西側」が仮にロシアのおかげで存在しているのだとすれば、ロシアは世界がロシアに何を負っているのか、なぜウクライナ人が命を代償にしてそれに応じなければならないのか、という問いを投げかけるべき時はとうに過ぎている」と強く批判。
スリョースキンの応答は、2000年代後半からのウクライナの言語政策のことなどを主張の根拠としつつ、コネリーは「ロシアの完全な敗北」だけがロシアの解放を意味するという点でウクライナの犠牲を必要としており、ソネヴィツキーは「西側」と世界を混同しているという点で、それこそが元の本が考えようとしていた欺瞞だったのではというもの。
(※ちなみに、スリョースキンはウクライナと同じくエスノクラシー国家としてイスラエルとかつての南アフリカを挙げている点にも留意。これらを同列に並べているという点も、米国という環境で問題視された要素かもしれない。)
③CEU Democracy Instituteによるウクライナ動員比較研究パネルの中止
こちらも2025年12月に、中央ヨーロッパ大学(CEU)の『RevDem(レビュー・オブ・デモクラシー』がとりあげる予定だった、ウクライナにおける強制動員やそのユーゴスラヴィア戦争との比較、また、ジェンダーとミリ他リズムなどをテーマにしたパネルを、直前でキャンセルしたこと。公表されたのは、大学コミュニティなどからの懸念表明に基づく、バランスや公平性といった理由から中止になったということだけで、大学・研究所側のその後の反応は鈍い。
「Men in the Vans, Women on the Streets: Gender, Resistance, and Forced Mobilization in Ukraine and Ex-Yugoslavia」に登壇予定だった5名のうち、ヴォロディーミル・イシュチェンコとマルタ・ハヴリシュコはウクライナ市民もあり、それぞれドイツとアメリカで研究を続けている。前者は階級的な要素がウクライナの現代政治に与えている影響の大きさがどのようにメインストリームの研究のなかで無視されているのかという左派的な分析で知られ、後者は戦時のウクライナ民族主義や戦時の女性に対する暴力の研究で知られている。
個人的には、ハヴリシュコのSNSアカウントの投稿などは、不必要に煽動的で、十分に検証されていないテレグラム発の動画などもたくさん引用しているので、あまり適切な情報として参照したいとは思えないのだが、レクチャーを聞いたり、論文を読む限りにおいては、実証的な部分を押さえた研究者であると判断している。おそらくSNSなどは、過度に攻撃的な相手に対する防御としての意味もあるのかもしれない、などとは思う。
今回のパネルも、結局イタリアの高等師範学校が招待し、実施された(YouTubeでの記録はこちらから)。ユーゴとの比較は特に有益な話だったと思うし、学術的に大きな問題があったとは思えない。
わたしは、Democracy Instituteが、CEUのウィーン移転後のブダぺシュトでの重要な活動で、かつ、ハンガリーのまさに先週末の選挙に至るまでの、ハンガリーの権威主義的体制の批判や状況分析・情報発信において一定の役割を担っていたはずなのに、こういう民主的では決してない、言論統制のような動きをしてしまったことは、残念だと思っている。今後の(先の記事で挙げたペトゥーのいう再建を妨げるような)将来に暗い影を残す出来事だと思っている。大学がInvisible Universityを通じて、ウクライナをずっと支援し続けてきただけに、注釈つきであれど、深い議論のできる場を築くべきであったと思う。
***
このように、「揺り戻し」は、制度や資金の面からも、「西」「東」をめぐる(古くもある)言説の面からも、言論空間の自由という面からも起こっているのかも知れない。
これらが、2025年から2026年初頭にかけて話題になったというのは、トランプ第二次政権が発足した影響や、他の戦争との資源とアテンションの配分というだけでなく、戦争が少しずつ多様な言説を通じて分析の対象として扱われるコンセンサスが出来上がっているということでもあると考える。
もちろん、論争などは瑣末なことに思える点もあるのだが、議論が成熟していく過程のちょっとした不和・異同をどう見逃さないかというのは、結構研究における判断を鍛えていくうえで肝要なのではないかと思う。
リヴィウのタラス・シェフチェンコ像。
ハンガリー、第二の「ヨーロッパへの回帰」?
ハンガリーの選挙が終わった。今、ブダペシュトにいないので、なんとなくまだ自分の中では現実感を伴って理解できていないのだが、わたしがブダぺシュトで暮らし始めた2011年からの、長い、暗い、重たい現実に変化が生まれたのだということは、確かなようだ。
街頭に出た多くの人が「ヨーロッパ」という言葉を連呼したり、Queenの”We are the Champions”を歌ったりする動画は、奇妙なものに思えた。
(ちなみにここでQueenってなんで?となる人もいるかもしれない。Queenは実は1986年にブダぺシュトでコンサートを行っていて、その際にTavaszi szél(春の風)という曲をハンガリー語で歌ったというのが逸話として知られている。それを意識してか、今回野党から出馬し勝利し首相となるマジャル・ペーテルの活動を収めたドキュメンタリー映画のタイトルは「TAVASZI SZÉL - az ébredés(春の風ー覚醒)」だったのだ。わたしはまだ鑑賞できていないので、曲が使われていたのかはわからないものの、選挙の数週間前にこんなドキュメンタリーを公開するというのは本当に優れた戦略でもあったと思う。)
とはいえ、16年かけて滅茶苦茶になった政治機構が、統治の問題が、一夜で解決するわけではない。すでに多くの点で変化が生まれ始めているとは知りつつ、元与党フィデスが野党としてとどまる現状は緊張感がある。
もともと、マジャルがTISZAが勝てば「ポピュリズムからの転換、つまりポスト・ポピュリズムに世界でも一番はやく到達するのがハンガリー」ということをわたしも知り合いなどには話していて、それはexcitingだがかなりdauntingなことでもあるだろうとは思っていた。
同じような「ポスト・ポピュリズム」について、選挙が終わってから出た評で、重要と思うものを二つをこちらに紹介する。
***
ひとつはティモシー・ガートン・アッシュがガーディアン紙に寄稿したもの。もちろん誰もが知るように、アッシュは1989年の体制転換時に有名になった論者なので、今回の変化を振り返るのに相応しい人物でもある。
「In a joyful Budapest, with the populists routed, I saw the chance of an unprecedented transition by Timothy Garton Ash」
・1989当時、よく耳にしたのと同じ、ハンガリー語の「体制転換(Rendszerváltás)」という言葉が、今回も使われていること。2024年の選挙でトゥスクの党が勝利したからといって、ねじれのためにポスト・ポピュリズム的な流れに完全に移行できなかったポーランドの事例と比べて、今回は司法・議会の面からも制限がなさそうに見えるので改革の度合いは大きくなるだろうこと。
・これは、同じく1989年にスローガンとなっていた「ヨーロッパへの回帰」の第二のバージョンなのではないか。(☜とはいえ、わたしの知り合いも言っていたけれど、「どこへの帰還なんだ?」と。ヨーロッパも当時とは随分変わってしまったし、ヨーロッパという言葉をEUと置き換え可能なものとするとすれば、それは容易にカテゴリーミステイクを生むだろう。)
・EU自体もオルバーンを甘やかしてきたことの反省をどのように総括していくのか、そしてマジャルとTISZAを政治的パートナーとしてどう受け容れていくのかが問われる。
***
もうひとつはオルバーン政権に追い出されたCEUで教鞭を取る、女性史・ジェンダー学の教授として有名なペトゥー・アンドレアの記事。
「After Collapse: Rebuilding Higher Education After Illiberal Transformation by Andrea Pető」
・もともとフィデスが築き上げていたような政治体制(非専門家やエセ政治家による縁故主義的な体制)が長く続くとは思えなかった。CEUがブダぺシュトを離れることになった時も「世界一暮らしやすいウィーンを楽しんで、崩壊したら戻ってきて、再建できるものを再建しましょう」と思っていたこと。しかし、実際その時がやってきて、再建するにも何をどうするのかという疑問は残るということ。
・大学自治と科学アカデミーの独立はまず目標とすべきことだけれど、16年間かけて壊されたものを元に戻せるのか?そして、戻すことが必要なのか?(旧共産主義からの負の遺産もまだまだ多かった)旧体制の復活ではなく、21世紀のための強度ある制度にしていくことが不可欠だ。
・学生たちが海外に出たまま戻らない国、キャリアのない国ではなく、知的生産が公共的な価値をもつ国に再び作り直していくとしたら、それは一筋縄のことではない。
また、同じくペトゥーが別の記事で指摘していることだが、TISZAのキャンペーンの中に「ジェンダー」という言葉は出てこず、どちらかといえば女性性や母性を強調するような(ポーランドの保守政権のレトリックにも似た)ものになっている。
***
まとめはどちらもざっくりしたもので、わたしが拾い上げたい部分をひろったところもある。しかし、どちらも、1989年以降を経験しているからこその言葉なのではないかと思う。
それから、V4という枠組みでいえば、チェコでも公共放送の独立を脅かす法律が審議中だし、スロバキアもスロバキアで相変わらずなので、全然、地域的にも楽観できる状態ではない。
また、ハンガリーの抜けたこのロシアやイスラエルの支持の穴・情報ネットワークの穴というのがどういう風に埋まっていくのかもわからない。他の国・他のリーダーが埋めるのか、どうか。
(ちなみにマジャルに対してハンガリーのユダヤ系団体からも祝辞が送られていたのだが、これまでほどにイスラエルと密な関係を築いていくかどうかによっては、若い世代の反発も大きなものになりうる。)
2025年のプライド・パレードの日の旗。失われた穴を埋めるものは何になるのか。
『三体』と文明論(2026年の今こそ)
イランは文明である、というイランの大使館(在イスラマバード)アカウントのツイートを読んで、そういえば『三体』を読んで文明について考えていたことがあるなと思い、本当に今更ではあるが、この現代中国小説のレビューを公開する。
***
劉慈欣(リウ・ツーシン)の『三体』は、2006年から2010年のあいだに中国で発表されたSF三部作だ。日本では早川書房から翻訳が出版されており、それだけでなくファンのつくった二次創作までもが翻訳され(本家公認らしい)、世界的に話題を読んだのは多くのひとの記憶に新しいと思う。
数年前のNetflixの映像化(改編あり)でも話題になったし、そもそも三千万部以上世界で売り上げているらしいので、おおまかな作品のイメージなどについては知っているひとが大半かもしれない。
それでも、かいつまでん書いておけば、文化大革命期の中国を起点に、地球外知性体との接触、宇宙文明間の抗争、そして宇宙的なものの終焉へと至る、圧倒的なスケール感で物語が展開する。第一部『三体』、第二部『黒暗森林』、第三部『死神永生』という構成のもと、どんどんスケールが大きくなる感さえある。残念ながら通しで読む方が理解できるのだが、それぞれの部の面白さや読みどころがあるので、気になったところから読むのもよいかもしれない。
単なる物語としての面白さにとどまらず、この小説は文明・歴史・人間の進歩といった問いを投げかけるもので、2021年前後、自分もかなり何度も通しで読み直している時期があった。個人的には、SFではなく、ジャンルとして「文明小説」というものをつくって振り分けてもいいくらいに思うほど、科学技術や自然条件というよりも、人間が中心の物語だと感じている。
以下に、『三体』の、個人的読解ポイントを4つ挙げてみたい。
①トーマス・ウェイドというキャラクター、革命と前進
『三体』の面白さはキャラクターが結構コミカルで、イメージしやすい。読者が感情移入できるキャラクターが必ず出てくると思う。個人的にはトーマス・ウェイドが一番好きなキャラクターだ。ウェイドは第二巻以降に出てくる、主要なキャラクター程心(チェンシン、女性)の上司(?)にあたる人物で、三恒星系の惑星軌道を変えるための多段式ロケット計画のプロジェクトを統括する人物として登場する。
このウェイドが繰り返し口にするのが「前へ」という言葉だ。20世紀的な、進歩を言祝ぐ、つまり振り返ることなど許さないのだという思想。
彼のセリフとして何度か登場する「前へ」というフレーズは、マヤコフスキーの詩を容易に想起させる。長詩「よし!(Хорошо! )」(1927年)で、マヤコフスキーは労働者の革命の前進性を高らかに唱えたが、ウェイドの語彙はその詩的世界と共鳴する。さらに言えば、「左翼行進曲」(1918年)における Левой! (左へ)を何度も繰り返すリズムは、ウェイドの反復にも重なる。
この小説が文化大革命の場面から始まることも考えるなら、文革は、進歩を破壊する「反革命」の暴力だったが、ウェイドの「前へ」は、その暴力を破棄し、革命本来の原理に立ち返ろうとする意志の表明としても読むことができる。現代中国という舞台のなかの、進歩と革命的前進。著者がどこまでマヤコフスキーを意識していたかは不明だが、人類を救うためにどこまでもひたむきなウェイドの姿に(その後半での役割も含め)、この物語の屋台骨のようなものを見出したくなる。
②「文明に時を刻め」の碑文
二つ目の個人的な興奮ポイントは、「文明に時を刻め、なぜなら文明は時を生み出さないから」("Make time for civilization, for civilization won't make time")という碑文。
これは『暗黒森林』の中で羅輯(ルオジー)が目にする、未来世界のオベリスクに刻まれた言葉であり、その時代の地球文明が共有していた一種の理念のようなものとして登場する。一見すると刹那的に聞こえるその言葉の真意は、文明についての根本的な理解の転換にかかわるものだ。
文明それ自体は時間を生み出さないし、文明が何かをなし得るとしても、それは有限の時間の中においてのみである。だからこそその有限性のなかで、文明を発展させるしか人間に選択肢は残されていない。この認識は徹底して人間中心的だ。地球を一つの環境条件として捉える人新世的な発想とはかなり異なる。
もっと言えば、ハンチントンの「文明の衝突」論が前提とするような複数文明の対立という話とも異なる。地球文明全体をひとつと考え、その衝突さえも文明の営みに刻んでいこうとするようなところがある。ところで、「文明の衝突」という言葉が出回るようになってから、「文明」という言葉はかなり色のついた、そして矮小化された概念になったなあと思う。
それこそ、地域ごとの価値体系、くらいの話に貶められて、対立と摩擦の原因程度に語られることが多くなった気がする。しかし、『三体』が描くのは、複数の惑星・生命体・知性が暗黒森林理論の論理のもとに拮抗した宇宙規模の話の展開のなかで、その中心に「文明」という概念が据えられている点が重要だと思う。ある意味では、こうして宇宙規模のはなしに拡大するなかで、使い古されたように、手垢のついたように見えるこの概念に再び有意味性を与えているようだ。
ところで、原語である中国語の「文明(wénmíng)」について気になったので、Claudeをつかって調べてみた。一応、英語のCivilizationの訳語という理解で間違いないらしく、その点は日本語と同じとも言える。一方、中国語の古典では、「礼・道徳・教化」といった価値と強く結びついていたもので、「文」が文芸・礼・道徳を、「明」が栄えた状態を意味していたとのこと。現代の中国語で使われるcivilizationの訳語としての「文明」は、実は明治期の日本でのcivilization概念の翻訳過程で出てきた言葉で、19世紀末に中国語に改めて転用されたとな。さらに、鄧小平の「物質文明・精神文明」論を通じて政治的な含意が強化されたという。
そんなわけで、いわゆる既存の「文明論」とも射程が異なるのかもしれないが、中国から近代を問い直すという意味でもこの語がキータームになっているのが重要なように思われる。
③ 「歌い手」という奇妙な生命体
『死神永生』に登場する「歌い手」も、最初に読んだときにとにかく驚き、惹き込まれた存在だ。歌い手とは、天の川銀河を巡回しながら知的生命体(低エントロピー体とも)の存在を探知し、「浄め」と双対箔を使った攻撃によって、三次元空間を二次元に崩壊させることによって、自分たち以外の他の知的生命体を抹消する役割を担っているというもの。一度平面化された物質は二度と元には戻らないとのことで、三体世界もろとも、地球を含む世界も二次元化されてしまう(ネタバレですいません)。
純粋にSF的な発想を最大限に活かした(?)、次元降下という概念が面白いし(このへんは実際に物理・宇宙物理を専門とするひとからみればナンセンスな描写なのだろうか、しかし、宇宙の多次元構造みたいなことについてはすでに論もあるだろうし・・・)、宇宙の構造そのものが兵器になるというのは、もしかしたら普段そこまでSF作品を熱心に読まない自分のような読者には、特に科学とスケール感に興奮させられる点なのかもしれない。
また、歌い手という存在は暗黒森林理論の証明にもなっている。宇宙社会学なるものを始めるように言われる羅輯が論理的に導き出した、宇宙においてあらゆる文明は互いを脅威とみなし、先手を打って抹殺するだろう、という仮説は、歌い手の登場によって、より苛烈なかたちとやり方でその抹殺の残酷さ伝えることになる。
しかし、歌い手も、わざわざ自分たちを三次元なり二次元なり、低次元に展開することを厭わないにもかかわらず、美しい歌を美しいと感じ、変わらず歌を歌い続ける、文明の担い手としての存在感を有している。彼らのきわめて高度かつ高次元な文明は、今では歌というかたちによってのみ表現可能になってしまったけれど、それがどんなものだったのだろうかと読者の想像を掻き立てる。歌い手の暗黒森林的な冷徹さと、そうした歌を愛する儚さの対比が、滑稽でもあり、しみじみとしてしまうポイントでもある。
同時に、今になって「暗黒森林」理論を読み直すと、力だけで、先手を打ったものだけが、その暴力によって世界を統治するということを明かしているようにも思えて恐ろしくも感じる。
④ 冥王星の博物館という思考実験
最後は、物語終盤に登場する冥王星の地球文明博物館のはなし。
太陽系の二次元化という終末が迫りくるなか、程心と艾AAは冥王星にいる羅輯のもとへ向かい、そこに建設された博物館のことを聞く。ダヴィンチの『モナリザ』をはじめとする人類文明の叡智を収め、人間でなければ、いつかのどこかの知的生命体に自分たちの歴史を託すという「墓標」としてのミュージアム。
この発想は、歴史を考えるうえでもラディカルな思考実験だ。わたしたちは、今でもどこかで、この歴史が続いていくような、そんなものとして何かを書いていないだろうか。文明の興亡こそあれど、AがおわればBが生まれるという発想から、アーカイブが作られ、記念碑が建てられる。でも、そうした「文明」という体系そのものが終わるとしたら、何を残そうとするのだろうかという問い。
実は、数年前に、この「墓標」としてのミュージアムに着想を得て、集中講座を行い、学生にも課題として、「文明が世界が終わるとしたらあなたが残したいもの、もっとも人間の歴史を伝えるであろうもの」というテーマで、オブジェクトや展示について考えてもらった。その時にはまだ今ほど、「文明」論の究極系としての『三体』について考えていたわけではなかったけれども、なかなか有意義なディスカッションができたのではないかと思う(だったらいいんだけど)。
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というわけで、この小説が「文明」をめぐる問いに常に結びついているという点が、しかもそれが、何らかの生命体(人間しかり)に依拠するかたちで、科学や知識の(ウェイド的)「前進」とそれを停めるもの(歌い手)の抗争のなかに描かれているというのが、どっかの大統領が「ひとつの文明を破壊させる」と言ってしまう現代に、ものすごく共鳴するようにも思えるのだ(そして、そんな小説が生まれたのが中国社会のなかでであったという点も、未来へのひとつの示唆なのかもしれない)。
そんななかで、人間文明の遺産を残そうとする冥王星の博物館という発想は、人間が何かを作り、残し、前へ進もうとする営みの意味を、つまり、わたしたちの普通の日々の意味を肯定してくれるアイディアのように思う。無気力になって、自暴自棄になっても、生み出すことをやめてはいけないんだなと。
一点だけ、留保。劉慈欣の原文には、日本語訳や英訳の過程でかなりそぎ落とされているとされるミソジニー的な表現やイデオロギー的傾向があるという指摘もある。本稿での議論は翻訳版を読んだ上でのものであり、そうした側面が、ここで論じた点を損ねているかどうかまでは自分にはわからない。
Marina Abramović, My Grandma, My East (Central) Europe——Entangled Euro-East Asian Historical Account:
Two days ago, I landed in Ljubljana and almost immediately saw the gigantic poster of the Marina Abramović–Ulay exhibition, feeling simply excited and deciding to go there soon after my baggage claim. I went there for a few-week fellowship, at the institute where my friends work, and thus obviously felt overly cheerful as I passed through the small airport corridor filled with the promotion of the Lipizzaner stud farm.
Waiting for my suitcase, then, I received a message from my family about my grandma’s hospitalization back home and her rather critical condition, for which my father says, “Better to come back if you do not have any urgent programs.” Maybe I indeed had the program, but, hey, I was at the airport; dragging my very sleepy and unreliable brain that was cocktailed with various deadlines and obligations, after some calls to my partner and friends, I jumped to the conclusion, paid for a 1200 EUR ticket on the spot, and jumped on the plane. Without saying a nice goodbye, a see-you type of greeting, to my beloved artist.
…..Yes, I do like Abramović’s work; I was instantly intrigued by this retrospective exhibition of the art duo at Cukrarna, and do you think that is so typical of a quasi-Westerner who is just supposed to appreciate anything praised at the Guggenheim as an aesthetically salient experience?
Well, here is a bit of a story that may excuse my predictable attraction in some ways.
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Believe it or not, Marina Abramović was my first, sort of, conscious encounter with the region so-called East-Central Europe—which by now has become a Frankensteined part of my mind and body, with residency in and frequent travel/commute among the region for more than 15+ years.
It was eighteen-year-old me who visited a local museum in a rather insignificant rural town in the western Japan area, where they held a large-scale solo exhibition of Marina Abramović. It was entitled The Star, and they even printed a solid exhibition art book co-written by curators from other Japanese museums.
The time was 2004; even after the rapid economic downfall of the 1990s, even in a remote town of ca. 111,000 inhabitants, in Japan of not-yet-visible tourists on the streets, there nevertheless remained the cultural capital and practical management skill for organizing and successfully accommodating such by-then internationally renowned artists’ signature pieces.
I remember I stayed almost half an hour in front of the pictures and video of the Balkan Baroque installation from Venice 1997, with Abramović herself dressed in white and shaving off the meat from the bones. I could not stop staring at what she was doing, reflecting a lot and ending up in the exhibition three more times after school (or with classes skipped) to understand what was at stake, what she intended to do, and what it meant to be.
With very little (next to no) knowledge of the massacres and wars of the 1990s—which were in the textbooks, but students did not learn them because contemporary history would not be the subject of university entrance exams, as it was considered less established for testing interpretations—I began processing words like partisan, communism, anti-communism, genocide, and so-called East-Central Europe, with some help from time and Susan Sontag, as well as many, many other books and authors.
私たちN.G.は小さなデザイン事務所ですがどんな案件にも真摯に取り組むことをモットーにしています。丁寧にコミュニケーションをとりながら、型にとらわれず創意工夫した新鮮な考え方のデザインをご提案していきます。
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Today, I went to the very same museum, a 20-minute drive away from my home. The exhibition was interesting; the liminal space built by Yoshio Taniguchi was pleasing and perhaps enjoyed by even more people, including a handful of tourists, than the past Abramović exhibition. Yet I felt very nostalgic. My mixed feelings of relief (that the museum does still exist) and sadness (to clearly identify their financial struggle, with no colored brochures for the exhibition, etc., etc.) dramatically heightened when I was going down the stairs to the entrance where they had once put a huge picture of the Balkan Baroque.
Being born and growing up in a rural town in Japan in the 1990s–early 2000s was not an unfavorable experience. Culture was offered in abundance, if you looked properly for it; there were glimmers and grains everywhere, and you could at least have some means to reach the Serbian woman artist by being there. That, I believe, was very special. Maybe I was lucky; maybe I got to the right place at the right time. Nevertheless, the fact that a local museum could execute such an ambitious project sufficiently suggested the unique environment the country had been in since around that time.
Western and European cultural productions—mainly high culture, but underground included—were well translated, like mushrooms popping up one after another, circulated via commercial logistics of convenience, and generally well received by college-educated, but non-graduate-level-educated civilians who wanted to learn from the world outside. Okay, I admit that it was as much a consequence of capitalism and consumerism, aesthetizing and thus desensitizing politics, just as W. Benjamin’s explanation of Fascism makes a full sense of.
Nevertheless, for a naïve eighteen-year-old, it was nothing but a revelation. She now knew she needed to use her interests for good causes, for the development of intellectual ability—not just waste them nowhere, the place she thought she was standing.
https://www.mimoca.jp/
(The featured artist of the museum, Genichiro Inokuma, was from the small city called Marugame, Kagawa prefecture.)
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I visited Serbia two years later after the exhibition.
I went to Novi Sad to join an art and human rights summer camp.
I studied in Prague another year after that. It was not Balkan, but, well, I had that option.
Shortly before I turned twenty-four, I moved to Warsaw.
Since then, I haven't lived in Japan.
That meant I saw my grandmother at most twice a year, for about a week each time.
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My grandma—the reason I came back two days ago, and the indirect reason behind today’s museum visit—experienced the war. She belonged to the generation, among many others, who had to spend some of the “prettiest years of her life” in “cities crumbled down,” where “a lot of people around me were killed—in factories, in the sea, and on nameless islands,” and who “lost the chance to dress up like a girl she should,” just as in Noriko Ibaragi’s poem (see here, too: https://www.ronnowpoetry.com/.../WhenIWasPrettiest.html; I often compare her to a Japanese Szymborska).
While I could enjoy my careless teenage days—studying, giggling, dancing, quarreling, crying, and above all laughing—she spent her days and years sitting in shelters, growing potatoes on barren soil, and waiting for the meaningless war to end.
Speaking of the Emperor’s unconditional surrender broadcast on August 15, 1945, my grandma said that she was not listening carefully at all. The sound quality was too bad to decipher accurately; there was no sentiment, no mourning for heroic loss, no thoughts on what it could mean to lose—only a quick reflection: “I could maybe eat better things now.”
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In fact, my very interest in European history began to grow when my ninth-grade history teacher made the class watch a documentary on the Holocaust (actually a very good one from the Japanese state broadcaster NHK). That was the first time I learned that horrible things did not occur only to my grandparents—also the moment when I first became conscious of what Japan did in Asia.
I did not immediately associate the Holocaust I saw with the term East (or Central) Europe; I was simply thinking that the camps were located somewhere in Europe. In any case, I do not know whether showing Holocaust footage—general war atrocity scenes with some dead bodies included—was the best pedagogy of all time, but it definitely resonated and materialized through my grandparents’ stories.
And yet, a few years later—with the images I saw in Abramović’s Balkan Baroque—the war images I had encountered finally met and tightly combined with the term East (Central) Europe, the word that defines and haunts the current version of myself.
Audio from Marina Abramović: The Artist Is Present. Hear the artist speak about her work.
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In Japan, the Holocaust, or Shoah, became an integral part of intellectual vocabulary and had occupied a disproportionally large spot of cultural critique since around the late 1990s to, say, the early 2010s, both in media and academia. Films, TV productions, etc., all contributed to seriously arranged, overly complicated debates over problems of history and society, which should have been allocated more to regional and local perspectives in Asia. The Holocaust debate, to me seems, was utilized as a bypass to discuss atrocities caused by Japan. The double bind of dialogue around moral (ir)responsibility captured vocabularies that should have been built upon authentic domestic words and ideas, and in a sense they were hijacked, overwritten, and turned into discussion for discussion’s sake—words in vain.
My understanding is that, therefore, not many people successfully addressed either the Holocaust or Japanese wartime crimes, and that lingering impact is still visible today. To a certain extent, my interest in East (and Central) Europe was based on this disguise of stern rationality and morality that could not contribute to creating a national discourse on tremendous human loss, in both quantity and quality. Am I the part of the insensitive postwar generation that nulled everything by relativizing and taking roots out of the original contexts???
My grandma is still in a critical condition. I do not know whether she will make it this time—medically speaking, it is less likely, but who knows.
I wish I could talk with her.
I wish I could apologize to her for not appreciating peace enough to create meaningful things out of it.
With this statement, we mark the closure of LeftEast. After more than a decade of collective work, we are bringing this project to an end. W
ひとつの左翼運動の終結点として。
2026年、この時代に、左派が分裂せず、ともに未来のビジョンを築く、語るということは本当に難しくなっている。
Yiddish culture was an important part of the cultural landscape of Eastern Europe from the Baltic Sea to the Danube, connecting the scattere
COMME des GARCONS コム・デ・ギャルソン 1995年2月
2026年まで、生きて、辿り着いた。
今年も年に数回になりそうな予感がしますが、何か思うことがあれば更新していくので、よろしくお願いします。
年末に引っ越しました。
人生で一番、西の街。フランス側で住居を探したけれど見つからなくて、結局ドイツ側の住宅にしました。そうなると前に住んでいた場所とBundeslandも同じで、住所変更など手続きが楽。書類仕事が大変になることを覚悟してフランスでも生活してみたいと考えていましたが、そうはならず。小さな街ということもあって、生活環境もかなり快適。
年始はそのため荷解きやら家の周囲の散策やらしながら過ごしました。引越しの最中、父親から2年程前にもらった、善通寺の堅パン(カタパン)を発掘したので、どんなもんかと思ったらまだまだ普通に食すことができました。
日清戦争時に兵隊の非常食として食べられるようになったとのこと。
ジンジャーブレッドのような風味もあって、期せずしてクリスマスっぽい雰囲気を味わうことができました。
ちょうど祖父(母方)の従軍日記にも堅パンへの言及があって、もしかしたら地元の、この熊岡の菓子を祖父も戦地で食していたのだろうかと思う、第二次世界大戦終結から80年目の暮れの日でした。
ちょうど2年前に祖父の残した資料を高松市平和記念館に寄贈したこともあり、昨年からは祖父の従軍時代の経験を辿る調査も始めました。しかし、調べ始めてようやくいかに自分が日本の大戦について知らないかを思い知らされます。主要な闘いなどもヨーロッパの歴史のほうがよほど詳しいのは、これまでの勉強のおかげかもしれませんが、調査の方法も検討もつかず、苦労しています。
もし第十五航空隊、第六航空隊、第五航空隊(いずれも情報部隊)などの情報をお持ちの方がいたら、researchmapなどよりご連絡いただければありがたいです。
2026年は半・在野、独立(した)研究者として、なるべく引きこもってアウトプットに注力したいと思います。またここ2-3年は日本での活動にウェイトを置いていたので、今年はしっかり欧州での人間関係構築などにも時間を割いていくつもりです。単著も翻訳も、ここ数年以来の課題なので、今年はすこしでも世に問えるものを出していくことだけを考えたいです。
https://www.berghahnjournals.com/view/journals/focaal/2025/103/fcl1030110.xml?fbclid=IwY2xjawNlAFRleHRuA2FlbQIxMABicmlkETFzeHdFVlBmWVl3bTcwMnhCAR5ThKPpjNg27UPV3ZyCD7nsIK-uoIDB3j_JL251A1z94XewAD6FM1MjVk8VoQ_aem_EtrHddKGrZOSGAYyfMv2JQ
An essay by Hungarian historian István Rév
共生をめぐる人間と動物
共生をめぐる、まったくタイプの異なる2冊の本を読んだ。
・『ハンナ・アーレントと共生の〈場所〉論 (トポロジー) パレスチナ・ユダヤのバイナショナリズムを再考する』二井彬緒(晃洋書房)
・『生き物の死なせ方 共生・共存からはみ出した生物たちの社会学』渡邉悟史著(ナカニシヤ出版)
どちらも今年出版されたばかりの、話題書とも言える著作。
5月の一時帰国中、ほぼ同じタイミングでわたしの手元に届いた2冊で、6月には読み終えていた。それぞれ、著者とはいろいろ意義深い交流があり、お礼も伝えた。しかし、この2冊を同時に読んだからこそ湧き起こる、「共生」という言葉への理解の深まりもあったように思う。
以下では、この2冊の簡単な紹介と、個人的に興味深く読んだ点をまとめた上で、共生について人間と動物をかけあわせて考えてみたい。
***
『ハンナ・アーレントと共生の〈場所〉論 』は、二井の博士論文をもとにした本だ。もっぱら政治思想の分野で取り上げられることの多い、ハンナ・アーレントの主要な著作(『全体主義の起原』など)ではなく、アーレントが米国に移住する前の、難民として生き、同時に難民のための活動に従事していた時期の(初期、とも言えるのだろうか)、政治活動や社会評論とでもいうべきジャンルの文章を分析の中心としている点がまず特徴。
これらの著作は、ようやく2000年頃以降に体系的に読むことが可能になったものという背景もあり、アーレント研究の中心にはなかなか据えられてこなかったと別の場所で二井が話していた。なかでも、二井はパレスチナとイスラエルの共生のための「バイナショナリズム」論に焦点をあて(第一部)、そこから、つづく時代の彼女の代表的な著作の意味を考え直す(第二部・第三部)という作業を行なっている。
中東欧研究者、特にわたしのような、冷戦期/戦後社会主義時代の中東欧地域を研究している人間にとっては、ハンナ・アーレントはある意味では馴染み深い著者でもある。しかし、いわゆる政治思想の関心とも、社会思想史との関心とも、かなり異なる地点からアーレントを見ている、あるいはアーレントの著作を読んでいるという気がするのである。
つまり、それは、ハンナ・アーレントの書いていることを、ある種の「証明」として使うことのできる立場から読んでいる、ということなのだろう。20世紀の中東欧の歴史を学ぶ人間にとって、アーレントが『革命について』や『全体主義の起原』で書いていたことは、そこから思索の材料を得て、特定の概念に関する関心をひろげていくための有益な道具、というよりは、この土地で実際に起こったことに与えられる説明のひとつとして、あるいはそのような現実を思想家が眺めたという時代の記録として、ある意味では冷ややかな距離をもちつつ、しかしアーレント以外に誰も「全体主義」をここまで人口に膾炙させることなどできなかった、という絶対的な事実に対する尊敬とともに読んでいるということなのである(ハンガリー動乱についての文書なども)。
なので、ある意味では「たしなみ」として読まれ、一方ではアーレント自身の考察から遠い部分でも参照される。かくいう自分も、『全体主義の起原』については、サミズダート版の流通という問題から、関心をもって読んできた。むしろ、自分が研究している時代の知識人でアーレントにまったく言及しないようなひとはいないので、そういう意味では、アーレントへの膨大な一方的関心(その一部は直接的かつ実際的な個人としての交流にも基づく)というものが中東欧地域のなかに堆積しており、アーレントをアーレントとして読む、彼女の置かれた時代や文脈のなかで読む、ということはあまりなされてこなかったのかもしれないと本書を読んでいて感じた。
試しに、Radio Free Europe関係の史料を有するOSA Archivum でアーレント関連の文献を改めて検索してみたが、思うよりもはるかに少ない。この文書館は全体主義といえばまず誰もが考える社会主義期東側の、冷戦時代の情報を記録する場所なのだが、「全体主義」論といえばアーレントに頼り切りだったような側面はあるのかもしれない(とはいえ、1950-70年代ごろにはtotalitarianismという言葉の入った著作は英語圏、特に米国ではかなり出版されていたのだけれど)。あるいは、このギャップは逆に、アーレント的な立場性の難しい人間を、Free Europe CommitteeのようなCongressの下にあった組織が、上手に扱えていなかったということを示唆しているのかもしれない。
これは二井がたびたび論じ、他の箇所でも言及している、アーレントの難民としての立場(ながらく無国籍者であったこと)などにも関係するのかもしれない(https://www.bookloungeacademia.com/504/)し、アーレントの無国籍時代と米国在住権の取得に関する経緯などを、CongressやRFE/FECの亡命者インタビュー資料と照らし合わせて考えると、さらに亡命知識人のなかでも特異であったであろうアーレントの位置付けが浮かび上がるのではないかと考えた。
そして、アーレントをアーレントのままに読む、二井が行っているような、ある意味では当たり前の作業が、中東欧研究にひるがえって埋め込まれるべきだと痛感した。それは、ユダヤ人とパレスチナ人との関係を、イスラエルという国家の成立とパレスチナに対する暴力という問題を、中東欧(ないしはひろく西欧も含むヨーロッパ)における反ユダヤ主義の問題と結びつけて考えるときに、さらに必要とされる視点かもしれない。
なぜ、中東欧地域で、パレスチナを支持する声がかき消されやすいのか。なぜ、ドイツのような国家理性とまではいわずとも、歴史的経緯もあるとはいえ、イスラエルを非難することに尻込みしてしまうのか。ひいては、同地域で「共生」なる考えが(現代の移民問題も含め)大きな力をもたないことにも、アーレントの初期思想を、バイナショナリズムに関心をはらわず、「全体主義」的レンズをもって眺めてしまうことは、実は間接的につながっているのかもしれない。
(※「全体主義論」の同地域の研究における隆盛とは無関係に、アーレントを読む位置付けとして、ということ。)
本書の提示する見解のうち、個別の論点としても非常に面白い、多様なひろがりをもつものは多い。自分の興味関心に照らし合わせていくつか挙げておく。
ひとつは、『革命について』で論じられたような、はじまりの力、何かが生み出される際の大きな力のことを、「暴力」の参与として読みつつ、そこに肯定的な意味も与えている点である。これは、「ユダヤ軍創設論」の分析のなかで特に強調されるところだ。ミリタリズムの支配のなか、暴力に対する感情的な意見が世を席捲する現在には、暴力はまずもっと忌避され、批判されるべきものである、だがそれを、このような瑞々しいかたちで、ひとつの暴力論として提示できること、それ自体は、人間の知性にとってきわめて重要である。抽象的な議論は、現実を前にして遮られるべきではない。第二部にしてもそうだが、細かく読むと肝が冷えるような危険な発想にもアーレントを通じて近接しており(これはアーレント自身への批判でもあるような、まさにナチス的なものへの接近なのかもしれないが)、本書がただの博論本ではなく、非常にラディカルな全体性に貫かれた著作であることに気付かされる。
また、ナショナリズムとシオニズムの関係についても、中東欧研究あるいはヨーロッパ史の枠組みで語られるナショナリズム論を踏まえたうえで、アーレントのシオニズムがどのような意味においてナショナリズムであるのかを明かしており(シオニズムをナショナリズムとして捉えるというのは一般的な解釈の方向性だが、アーレントのシオニズム論はまだ一癖も二癖もあるので)、これについては、ナショナリズム論の研究者にもしっかりと検討いただきたいところと思う。
個人的にもっとも惹かれたのは、第三部・第六章の「人民」概念を再考する節だ。これは後半、第八章における国民や難民の定義にかかわる話にもつながってくる大事なところなので、もうすこししっかりと論じてほしいようにも思ったというのもあるが、アーレントが「人民」に相当する単語を用い、それを、西欧哲学的な願意の中に置かれた「市民」やナショナリズムの主体としての「国民」という概念から意識的に区別しようとしていたという点が、「人民共和国」の研究をしている身としては気になった。つまり、アーレントの「人民」に「人民共和国」的な意味がどこまで付されているのか、その根拠は何か、ということが気になったということである。
本書はまず読みやすく、全体を通じて一貫性もあり、構成も練られている。だが、逆にその清潔な雰囲気が、著者が伝えようとしている、アーレントの思想とアーレントの生が結びつく地平の泥臭さ(そう、アーレントは泥臭い)をかきけしてしまっているようにも思う。
また、アーレントの思想、特に初期思想について、ある程度体系的に学ぶことはできるが、その周辺を支えた彼女の周囲の亡命知識人やアメリカに向かうまでの大陸ヨーロッパでの人的交流の影響など、あるいは、固有の社会的要素を加味したような、細かい分析は行われていない。もちろんそれは、本書の目的ではないのかもしれない。しかし、社会思想史・政治思想史というジャンルの本として提示されるならば、アーレント内在主義的な視点では不十分な面もあるだろう。内在主義的な立場にたてば、アーレントの重要性や特異性はある意味論じるまでもなく自明のものとして与えられてしまうのだから。ゆえに、彼女の立場の時代性を浮かび上がらせるような要素が、一貫性を損なわずに、もっと展開されればと感じた。そもそも、アーレント研究者以外は彼女のエピソード的なこともあまり知らないことが多いのでだから、それをまじえて記述するだけでも十分な拡がりがでるだろう。
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『生き物の死なせ方』 は、渡邉のここ数年の研究成果を網羅する著作である。生き物(いきもの)社会学、という言葉で称されるような、社会学という人間ど真ん中の営みを、マルチスピーシーズ的な研究や、あるいは「いきもの」(≠生物)という人間の目からみた混淆の多種に向けた、そういう意味では、暴力的な要素の強い実践でもあると思う。(その是非についてはここでは問わない。)
この本は、一般読者向けという性質もあって、独特の読みやすさがある。小説的な読みやすさかもしれない。読み手がストーリーとして事例を把握できるような軽快さがそこにはある。おそらく想定している読者も、いきもの好き、いきものとの関わり方を真面目に考えたいと思っている人たちであるように思う。かといって、いきもの好きを喜ばせようとはしていない。そこに知的な胆力を感じる。
それでも、「地域社会学」とは何か、あるいはそもそも社会学なる学問は見たことも聞いたこともない、というような人間にとっても、苦手意識を持たずに通読できるのはありがたい点だ。個別の気になる事例をつまみながら読むことができるのもありがたい。表題の「死なせ方」という言葉のドギツさのわりには、非常にフレンドリーなつくりの本である。
他方で、個別の章で取り上げているような事例が、概念としてはどのような地平に結びついているのかもある程度示されているため、知的な満足感も十分に得られる。たとえば猫の章の「スペキュタキュラーな死」への接続など、事例と理論を架橋することにも十分な注意が払われている。
本書は「死のデザイン」という表現を用いながら、人間社会のなかに埋め込まれている(埋め込まれてきた)さまざまな動物の「死」を、結果やひとつの目的・帰結として描くのではなく、過程として描こうとしている点が最大の特徴だろう。
この作業の前提は、「死はデザインできるものである」という空恐ろしいものである。他方では、無条件に人間という種が他の生物の「死」を計画・企画しているわけではなく、人間がつくりあげてきた環境や社会のなかで「デザインせざるをえなくなっている」という部分に言及もされており、これによって本としての倫理的に絶妙なバランスを保っているようにも思う。「デザイン」という言葉のなかにある恣意性と偶然性を、わりと両面から適切に示すことができるような視座を提示しているからだ。本書の目的や各記述の真意を理解するうえで、この恣意性と偶然性はきわめて重要だと思うのだが、本書を一読した段階では、この操作の複雑さはあまり意識されないかもしれない。
これを、人間に置き換えて考えればどうなるか。人間における「死のデザイン」は、もっぱら医療(特に終末医療)分野に属する行為・発想である。つまり、それを「死のデザイン」と考えるよりは、むしろ延命や救済として捉えることのほうが一般的な領域である。だからこそ、人間の世界のなかで、人間の頭のなかで、勝手に周縁化してきた生き物たちに対して、「死のデザイン=死なせ方の過程」が、「死への過程」を伴う、そのような仕方での「共生」であるという事実にわたしたちは驚かされるのである。驚くのははっきりいって身勝手なのだが、この驚きが、ひるがえって、人間の医療そのものがもつ暴力的構造を暴き出している。「死のデザイン」として終末医療/医療そのもおを捉え直すことには、近年ではある程度考えられていることだし、卑近なレベルでは「終活」と呼ばれているような現象にも近いのだろう。しかし、死に向かう身体は、財産処理や家族との有益な時間などでは定義できないものであり、究極的にどこまでも虚しい、悲しいものであることがいきものたちによって明かされるのである。
(おそらく、だからこそ、本書ではいわゆる獣医という職業によって行われるペットの「安楽死」の問題は取り上げられないのだろう。それはあまりにも人間の医療機構と隣接してしまい、両者をつなぐ共生に伴う想像力を、類似性によって毀損してしまう恐れがあるから。)
実は、本書の草稿を、一年ほど前に目を通す機会をいただいていた。その時にも一読して、この本はすごく面白いと感じたのだが、かなり丹念に改稿され、出版された本書を読んで、かつて面白いと思っていた部分に疑問が生まれ、疑問に感じていた要素は逆に上手に解消されていたり、「お?」と思うような箇所がかなりあった。いくつか書き出しておきたいと思う。
まず、動物・生物という存在を見つめる解像度を、どこに合わせればよいのだろうかというのが、草稿を読んだときに感じたいちばんの疑問だった。草稿段階では、ネコとオオサンショウウオと昆虫と亀は、一緒くたに論じられる対象ではないだろうというふうに真っ先に思ったのである。しかし、この問題は、良い意味では解消されたていた。しかし、それは、序章で丹念に「死体」という言葉で、各種の差異をほぼかき消すという、非常に強い操作(これも、よい・わるいでは単純に測れないものだが)でもって可能になったのである。「死体」という、ある意味では元も子もない表現が、哺乳類も両生類も超えた、「人間以外」で括ることを可能にしているのだ。
また、最初に読んだ原稿では、各章で用いられる調査方法や、それを採用する背景にある方法論の違いについても、一様ではない点がかなり気になっていた。(インタビューや実地調査を中心とつつ、インフォーマントとの付き合い方は、書く事例でかなり異なるのだろうとも推察された。そもそも研究者にインタビューすること、自然死に近い形で去るる猫カフェの猫などをオーナーの話から分析することなど、このあたりは社会学研究者がどのように感じるのかも聞いてみたいところだ。)事例を扱っている各章の構成が、そこそこ統一されたためかもしれないし、「方法論」があくまで「問題意識」(=死のデザインという過程を、生かすこととは別の地平で捉える)の道具でしかないということが、随所で強調されているからかもしれない。
各章の構成ということでいえば、それぞれの章でまずある程度、関連する政策や歴史背景、社会問題との接点などがきちんと示された上で、事例の詳細へ、そして死のデザインというポイントへと戻ってくる、という流れで締めくくられるのが、しかし、無理なく一貫性のあるものとして読める要因なのかもしれない。ここはかなり工夫して改稿したのではないかと思ったところだ。
さらに、草稿時にはもっとシンプルだった各章のタイトルが、小気味よい、一見すると小説のような表題に置き換えられ興味を喚起される仕様になっていた。他方で、文章の内容自体には、感情を揺さぶるような表現は(もともと少なかったけれどより一層)削られ、各事例における人間の感傷であったりといった点ではなく、感情を言明化することの複雑さが強調された格好になっている。これは、単に感傷的な要素を排しているということでも、御涙頂戴に傾いているというのでもない。本書において、実は、「感情」というのはかなり重要な要素であるはずだ。しかしそれを、決して本書の主題としては取り上げないというところに、この見出しの面白おかしいかんじが、それでいて絶妙な倫理的リマインダーとして機能しているように思う。本人がどこまで意図してのことかはわからないが、編集の意向などもあったのかもしれない。
というわけで、本書も、二井の暴力論のようなものとはまた異なるが、ラディカルで、おそらく「(人間として、研究者として、)言ってしまってはダメなこと」をどこまで書かずに表現するのかという闘いを繰り広げており、その努力がどこに向かっているのかはわからないものの、それが本書を面白くする大きな動力となっているように感じられたのだ。
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上記2冊の本は、冒頭に述べたように、それぞれの著者たちが「共生」というテーマについて考えた本であるという共通項で、ざっくりと括ることができる。
しかし、当然ながら、「共生」をどういう角度から見るか、「共生」を語るためになにを題材として取り上げて考えるのか、という点では、かたや歴史的思想家、かたや個体名もぼんやりとしたいきものたちという、もはや同列に語ることさえ不可能な本でさえあると思われる。
むしろ、この2冊を並列して語ることは、かなり倫理的に問題があるようにも思う。人間にも「死なせ方」ってあるのか、だとか、いきものの「死なせ方」にこだわることは、結局人間を大きくいきものと括ったときに、「死なせてよい」と考える存在を生むことにつながるのではないかなど、今日的な文脈のなかでは「混ぜるな危険」としか思えないところもある。
それでも、あえて並べて語った先になにが生まれるだろうか、という好奇心と疑念が、なかなか頭を離れなかった。それは、たまたま両著者が自分の名前をあとがきで言及してくれているからこそ、わたしが「共生」について両者から受け取ったことをなんとか汲み取りたい、言語化したいと思ったのかもしれないし、いろいろな考え方ができるだろう。
とにもかくにも、「共生」という言葉を並べてみたときに、この2冊が有機的に、あるいは、尊厳を貶めないかたちでつながりうる地平はあるのだろうか?
まず、二井の著作における「共生」は、表紙にある英題からわかるように「Living Together(to live together)」というアーレント自身が用いていた表現の翻訳にあたる。活動的生などとつながる、アーレントの中心的な概念としての「ともに生きること」である。co-existenceでもco-habitationでもない、この「live together」が非常に人間的で、人間中心主義的とさえ響くことも確かである。
他方、渡邉の著作における共生は、co-habitationとこのアーレントのlive togetherの間を、どのように埋め、どのように思考するかという言葉として解釈できるのではないかと思う。つまり人間が人間と交流をするなかで、それでも生まれていく隙間のようなものがあり、その隙間を、本来であれば live together の対象とならないかもしれないいきものたちとの co-habitation によって埋め、つなぎ直し、そこから live together の物質的条件を明らかにしていくような印象を受けるのである。
それは、「居場所」づくりの話であり、二井の「場所」論(トポロジー)にもつながっている。トポロジーも、結局は空間のなかに、連続性のあるかたちでものの存在を定義できるようにするという点で、異なるものとの共生を前提としていると書くと、さすがに乱暴すぎるかもしれないが。
また、これは、ためらいつつ書くものとして読んでほしい。ホロコーストという(医療、科学、政治を総動員した)「死のデザイン」を経て、「革命的な」暴力をはじまりにして(ナクバ)、創設されたイスラエルという国において、今日も百をくだらない数の人間が毎日、補給場という「公共空間」に集まるなかで殺され、また、二年弱の間に数万単位の、あるいは、80年以上のあいだには何十万、百万という数の命と生活が失われてきた、21世紀の現在地点において、どのような「共生」(あるいはバイナショナリズム)を語ることができるのかという悩みは、ほぼ絶望に近い苦しみをわたしたちに与えている。
中東欧現代史の研究者として、また、猫2匹を家族として迎え入れ暮らす者として、「共生」の意味を日常のレベルで受け止めつつ、それを、まったく異なる方向ではあれ、思考のレベルで延長させ、時にはその暴力性を認めながら、生きていかなければならない。共生を目指すことは暴力の始まりなのかもしれない——そう毎日のニュースでふと思い至るなかで、精神は確実に蝕まれていく。
だからこそ、この環境を反転させて生きていくことができるように、どこまでも(二井がグリッサンを引いて語るような)ユートピアをもうひとつの可能性として響かせる思考が必要となるのである。現実がディストピアに変わった時、ユートピアは現実を生きる指針となる。ユートピアのなかにしかないリアリズムは、どんなくだらない現実よりも、はるかに重みをもって受け止められるべきである。
その点について、いくつかの留保や、自分の短絡的な考えであるとみとめつつ、あえてとある問題部組の表現について迂回しながら考えてみたい。
その言葉とは、「人間動物」という言葉だ。
少なくない数のイスラエル人が、パレスチナ人を「人間動物(human animal)」と呼び、巧妙に人間と動物のあいだの線引きをしながらも、「動物(animal)」という言葉のみでは彼ら彼女らを形容しなかったこと、その意味について、わたしは常々疑問だった。
イスラエルという国で、「動物」擁護やヴィーガニズムの思想を通じたかたちで、いろいろな権利の存在が時に過剰に拡張され、歪曲され、利用されているというのは、保井啓志の研究などを通じて広く認知されつつある。(保井の博論本『権利の名のもとに――イスラエルにおける性的少数者の権利と動物の権利』も未読だが注目している。)
このように、「動物」の存在意義をイスラエルは擁護しつつ、それと「人間動物」のあいだにもさらなる線を引き、その言葉をパレスチナ人にあてがうことで、パレスチナの存在を貶めている。そして、多くの人がこの「人間動物」という言葉に憤り、表現の稚拙さ(あるいは歴史的な参照地点を引き合いにそのレトリックの凡庸さ)を批判している。
しかし、わたしは、このレトリックに憤るよりもこのレトリックをこそ、パレスチナ人の尊厳に結びつけた考えることが、強力なイスラエルへの批判につながるのではないかと考えている。
「人間動物」という言葉にこそ、破綻してしまった人間性の尊厳の回復のための祈りが宿っているのではないか、そう思ったのは、つづくリンクで邦訳が紹介されている、ニーハ・ヴァーラの「ガザの猫たち」(https://vegan-translator.themedia.jp/posts/54194829/)の記事を読んだときだった。
パレスチナ人たちは、彼女ら彼ら自身が死に瀕し、危険にさらされているときにも、人間に寄り添い、そこにいるものたちを大切にしてきた。ありがたくも邦訳されたヴァーラの言葉を引けば、以下のとおりとなる。
「ガザの猫たちは、パレスチナの外傷が多種混淆の外傷であることを教えてくれる。パレスチナ民も人間だという教えではない。それは人間を人間ならぬ存在の対立項として定義する試みの反復だからである。この時、後者は常に排除され棄却され、ゆえに切除してよい存在とみなされている。パレスチナの人々とその猫たちが多くの人々を引きつけるのは、おそらく、かれらがリベラルな人間性理解に一石を投じ、それが植民地主義的な世界・人格・自由観の捉え方であることを暴くからに違いない。「人間性」は決して私たちを普遍的な正義や平和へと導かない。1948年以来続くナクバは全生命を攻撃する暴力の構造である――そして、それゆえにパレスチナ民の多種混淆的世界形成はこの占領に対する抵抗の中核をなす。してみれば、パレスチナ民の生活支援において、私たちは人間性に訴えること、誰が生きるに値するだけの人間性を持つかという議論に頼ることをやめなければならない――共有された人間性の概念を捨て、代わりにラディカルな多種混淆の親類関係を中心に据えた時、占領に対する私たちの抵抗と闘争はどのような形をとるだろうか。」
「人間動物」という表現に宿されたものを、人間と動物のハイブリッドを意味するものとしてわたしたちが解釈し直すのであれば、そこには小さな小さな希望の光が見えてくるだろう。「人間」と「動物」をむすびつけて、エクリチュールのうえでも直接的にむすびつけてひとつのわかちがたい音として世界に響かせるとき、わたしたちはそこに「人間性」への強い批判と、だからこそ予期されるものとしての「人間性」の回復とを感じることができるのである。
あらゆるいのちが尊厳をもって生きる世界——それを机上でもよいから考える、そのために、おそらくイスラエルの政治家が、蔑みの意味しか与えなかったこの言葉に、生存と共生への強い意志を与え返したい。