今年も明けてそうそうに話をしたある人が「やっぱり俺はゼロベースでコンテンツを作らないといけない」と言った
僕は本当に真面目な人間なのでクライアントから発注される誰かが作ったIPに奉仕する仕事に感じていた物足りなさ、ギアの上がらなさ、むずがゆさみたいなものはすべて僕の仕事に対する意識の低さとか、単純な下手さとかそういう枷を引きずりながら絵を描くことでたまりゆくフラストレーションだと考えていたし、今もそう。彼もそうなのかもしれなかったがそこまでは聞かなかった
でもそう言われて、”そう思うこと”に躊躇してはいけないのかもしれないと思った。彼や僕の中にあり彼や僕が本当に表現したくてあわよくばもっと多くの人の目に止まり承認してもらいたい世界やキャラクターは、きっと僕や彼に限らない誰かにとっても少なからず良いものであると信じて、あるいは信じ込んでしまっているのがもはや明らかなのだから、いくら創作が真の意味では永遠に孤独な活動であったとしても、多少いびつな形で誰かに受け取られたとしても、少しでも多くの人に大きな場所でそれを表現したいと思うことをいまさらになって恐れる必要はないのかもしれない。(彼がそう思っているかどうかはやはり知らない。今度聞いてみようと思う)
創作は孤独だよ。同人誌はそこそこ売れている。Twitterで絵を投げると何故か伸びる。誰かが僕の絵を通して何かを受け取っているのはわかる。でもそれだけ、手応えがない。それは9割9分……と言いたいところだけれど、上記の話を踏まえてここは「半分」だけ自分のせい、自分の伝え方が悪いから、とする。もう半分は「創作は孤独だ」という愚痴だ。それは言い換えると「誰かのせい」だ。 映画を観終わったあとその作品のレビューを眺めていると、どうやら正解らしい、監督が意図したのはこういうことだろうと思う文章がたいていひとつかふたつある。あとの8割はそれぞれ自分なりの解釈ではあるがその作品から確かに何かを受け取りましたよというメッセージ。残りはバカによる自分はバカですという宣言。彼ら映画監督は人に何かを伝えるプロ中のプロであるはずが、それでさえこのざまなんだ。 彼らが自分の映画のレビューを読み漁るのかという疑問はさておき僕が僕の絵の感想に対して感じる小さくない感情はやはり孤独なのである。さみしい、とはちょっと違う。匂いや味がしないがっかり感といったほうが近い。
そしてこんな愚痴でさえも、子どもみたいにいつまでもグズグズとみんな同じだよと大人振って言うことこそ、もしかしてひょっとすれば、今の僕が忌避するべき行動なのかもしれないと思う。












