なんで死んで欲しくない人が死んで
死んでほしい人が死なないわけ?
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@m1um1um1u
なんで死んで欲しくない人が死んで
死んでほしい人が死なないわけ?
“個人的な考え方なんだけど、僕は仕事もプライベートも態度を変えずに生きるのが正しいと考えている。正確に言うと、「そのように生きられることが望ましい」。日常生活の中で演じなくてはいけない役割や、期待される応対はそりゃ様々あるけど、なるべくその幅を小さくするのが人間的な心を保つ秘訣なのではないか。ちょっとアメリカ人みたいで申し訳ないけど。”
— 「ラブホテル村に行きたくはないのか」 http://monthly-shota.jp/ (via 8ttan) 「公私統合」の話 (via i11matic)
“お前は楽だよな なにも考えなくてもいい だってお前が働いてるのは理想の会社なんだろ お前は幸せなのはわかったが その自分で何とかしろとか言う自己責任論はやめてほしいんだわ 殺意がわくんだわ その言葉に乗せられて何人の人間が絶望して死んでいったと思ってんだ その何とかなるやつは1パーセントにも満たないんだよ 俺の兄貴も自分で何とかしようとして何とかならなくて自分の無力さを嘆き苦しんで死んだんだよ おまえのそのきれいごとは何とかしようとしたひとへの侮辱なんだよ”
— まとめたニュース:若者を無職にしておいてどうやって老人を支えろっていうんだよ この国アホだろ (via wawawa8888)
今年の冬で初めてフィルムカメラを買ってから10年が経つ。写真と向き合うようになって、いろんな人の話を聞いたり、展示を見に行った。ZINEも作って、コンテストに応募もした。展示もやって写真集も作ったりした。でも私の芽はまだまだ花を咲かすどころか蕾にもならない。やらない後悔はしたくないと思って、昔の自分では考えられないほど、積極的に動いていたがもう次は何をすればいいのかがわからない。努力とは具体的に何をしたら努力なのか、才能は芽生えるものなんてのはやっぱり嘘なのか、私は何の為に写真を撮ってるのか。 諦めが肝心というけれど、私はいつも諦めが悪いし、たったひとりでも私の写真がすきと言ってくれる人がいたらやめることはできなくなってしまう。ただ写真をやめてしまったら私の中には何も残らないことは確かだった。私が写真をやめる時というのは死ぬときなんだと思う。そのくらい人生を賭けて撮っても私の写真は人の心には響かない、届かないし、届けることもできない。才能がないの一言で終わらせたいくらいに、自分が空っぽの人間で泣きたくなる。だから誰も私のこと好きにならないのだ。私は私が、好きになれない。
hamm
hamm, stadt der zugteilung, 2019
sensory
Paolo Sebastian | Fall/Winter 2018 Couture
ふたろぐばこ-二次元裏may@ふたばログ保管庫
“僕は見返りを求めてやさしくしないし、自分のさみしさのために他人を利用しません”
— 鹿さんのツイート
ばかみたいに本を読むのはどうしてかといえば、もうひとつの世界に行かなくては健康が害されるからである。私は物心つくかつかないかのころから、現実でないものを見るためだけに日ごと夜ごと本を読むくせを持った。まとまった時間などなくてもよい。あればもっとよいけれども、十分でも三分でもよい。向学心も向上心もない。読んだあとに役に立てようという気がない。本の中は現実でなければそれだけで価値があった。空想された物語がもっともよかったが、他者の人生であろうが、数字の並びであろうが、論述であろうが、現実でさえなければそれでよかった。 今は現実をそんなに嫌いではない。だいたい幸福だし、いい人生だと思う。いやなことはそんなにないし、あってもだいたい戦える。最悪でも逃げることはできる。それでも身についた癖は抜けない。現実がどれほど好ましいものであろうと、目の前の現実から遊離する行為を止めることができない。そういうふうにできあがって、たぶんもう直らない。 そんなだから、犯罪者についての本など読むと、まったく他人事ではないと思う。だいそれた犯罪者の幼少時代にはしばしば、「空想にふけっていた」「(異常なまでの)フィクション好きだった」といった記述がある。そんなの私じゃないかと思う。私が彼らでなかったのは単なる偶然にすぎないと思う。私に何らかの不幸な出会いがあったなら、私が暴力を比較的肯定される男児に生まれていたら、私がもう少し怒りというものを抑圧されていなければ、私は彼らになっていただろう。私がそうした何らかの要素によってフィクションに没入しきれず、そのためにダメージを癒やし足りなかったとしたら。 そう、私は彼我を隔てるものを、本質的には「じゅうぶん本を読むことができたか」の一点しかないと思う。じゅうぶんに現実の外に出て、その中で精神の体力をやしなうことができれば、人を殺さなくても済んだのではないかと思う。夜ごと現実の外に出て、本の中の、自分に熱心に語りかけてくれる何か、いつでも自分を待っていてくれる誰かと、古今東西の実に多様な他者と、話すことができたなら、人を殺さなくても生きていられたのではないかと思う。
“いろいろなことをちゃんとできる人がいろいろなことをちゃんとやってしっかり何かを手にしたという話はもう聞きたくないんだよ”
— Twitter / p_hirono (via ajinotatakinamennna)