ネカフェってのは通うと拠点になるので、思い出が一つ消える感ある
都内にたくさんあったチェーンも、どんどん減っていく
睡眠時間をコントロールする為に常に寝心地は悪くしている
回復速度が下がった所為で累積ダメージの方が多くなってしまっている
30代前半の方がしんどかった。しんどかったけどやれた
私は私を1ミリも尊敬していない。だから私は私をナメている
あんたの命令に従って私が幸せになれる保証なんてないし、あんたも責任取らないだろ? って思ってる
そしてそう思われる私も「責任? 取るはずねーだろ」思ってる
まず第一話序盤でめちゃくちゃな「掴み」がある。ドタバタだ
悪者にも社会があって、大事な家族があって、恋人がいる
「力」があったら「まあ力のない存在に対する強者の思いはそんなもんだよな」的な納得がある
強者の傲慢な振る舞いの中に、視聴者である我々自身の中に潜む「普遍的傲慢さ」を垣間見る
ただただ突然強者の気まぐれで不幸を味わった弱者と、それに対し何も頓着しない強者と、それはそれで普通に困っているし寂しいだろうな、と感じさせる強者サイドの生活事情の活写
「立場の違う者それぞれの中にある人としての普遍性」
だから一瞬で感情移入してしまう。どの立場の人間に対しても同情が出来てしまう
大人ってのは嘘をつくのが仕事だからさ。好奇心や快楽原則だけで生きてるわけじゃない
子供が囚われがちな好奇心と快楽を嗜(たしな)めるのが大人の役割だ
洋ドラの悪者ってのはそれを窘(たしな)めない。押し並べて好奇と快楽を追うことを肯定する
だが、それはあくまで「強者」と「勝者」の特権であって弱者と敗者が味わっていいものではない、ってのが普遍的な「悪者」のスタンスだ
常人と偽善者は庶民スケール内での「安寧の維持」にこだわる
ただ、これも入れ子構造というかフラクタルな繰り返しというか、人間達にとっては上記のような構図であろうとも「人間ではないもの」にとって人間とは基本的に「どうしようもなく傲慢でイヤなやつら」だ
人間はそのような絶対的な立場から「これは善い動物」「これは害ある動物」と身勝手にレッテルを貼って区別している
動物は腕力と体力と俊敏性はあるが知性がないので、ある意味「機械めいたもの」という共通認識がある。だからこそ「動物」なんて定義なわけだしな。アニマルどころじゃない「動く物」だぞ、さすがに定義広すぎだろ、日本語における動物は
英語圏だったら「自律移動型オブジェクト」と訳されるわけだぞ、凄くないか?
そこで出てくるのが一部の「知性が人間レベルの動物」に対する愛護問題
タコむっちゃ頭いいから、飼ったり養殖するなら配慮が必要ってことにならないか的な話にフォーカスした本、として認識している
人間が「同情できるもの / できないもの」は結局対象の「知力」が鍵になっている
知的に壊れてしまった存在に対し思うことは「この人を護っている人達の苦労がしのばれる」って思いであり、対象そのものへの同情ではない
この話にフォーカスするとむっちゃ母親の事思い出してちょっとだけ腹が立ってくるんだが、今は「ただ普通の人間になってほしい」という母サイドの気持ちもまあ分かるので、叶えられるなら母が得たかった子育て体験というものをタイムリープしてさせてあげたいって気持ちの方が強い
だけどやっぱ寂しいんだ。寂しさを忘れられるだけのクスクスとした笑いと「なんか優しい気持ちになってきたから抱きついていい?」という甘えが通るしあわせ
それがほしかっただけ。それが全部あったんだよな、妻と一緒の時は
なんでもいい。絵のことでも、世の中のことでも、自分自身の過去話でも
そういう会話交わしながらだんだんとお互いの中でクスクスと笑いたくなるような温かい気持ちが広がって「抱きしめたく」なる
本質はそこ。それだけ。他のものはそこへ至るためのステップでしかない
洋ドラの話に戻すと、洋ドラはかなり早い段階でその手の描写(温みこそすべて)を入れてくる
そして視聴者達に「このキャラクター達の行動原理はリアルだ」と認識させたあとは、またぶっとんだレベルのドタバタ残酷ショーが始まる
「ああ!! やめて! むっちゃ感情移入してた存在を破壊しないで!!!」
大人は「悪人が悪人として生きざるを得なくなった理由」に興味を抱く
子供は「自分に益のある存在をいかに独占できるか」に興味を抱く
エンタメカルチャーの中で職人仕事をしていく上ではどうしても後者に軸足置かざるを得ず、もうとっくに興味失った「労働の効率化」を楽しいフリして追求しなきゃならないのがむちゃくちゃキツい