エンピレアムの石畳を叩く雨粒は、夜が深まるにつれて音を変えていく。
最初は乾いた石を穿つ硬い打撃音だったものが、やがて水を含んだ石畳の上で鈍く、低く、重なり合うようになる。
風が路地の角を曲がるたびに唸りを上げ、アリシアの外套の裾を容赦なく叩いた。
彼女は濡れた布の冷たさを感じながら、細い路地の奥へと足を向けた。
躰の傷はとっくに癒えている。
しかし、指の腹には剣を握り続けた日々の痺れが残っていて、眠るたびに泥にまみれたブーツの感触が夢の縁に戻ってくる。
何かを成し遂げたはずなのに、達成感よりも先に訪れるこの空虚さを、アリシアはうまく名前で呼べないでいた。
薬草茶も、仲間との酒も、今夜は何かが足りなかった。
看板らしきものはない。
ただ、木の扉の隙間からこぼれる琥珀色の光と、路地の雨音を縫うようにして届く、微かな蒸気の囁きだけが、ここに何かがあると告げていた。
外の空気が石と雨と風で出来ていたとすれば、内側のそれは木と温度と、緩やかに流れる時間で出来ていた。
頰に触れる温もりは柔らかく、耳に届く音もまるで別の言語のようだった――石畳を穿っていた硬い打撃音の代わりに、蒸気が細い管を抜ける低い囁き。
歯車がゆっくりと嚙み合う、規則的で眠たげな唸り。
それらは騒音ではなく、この空間の呼吸だった。
天井を走る銅管のパイプが、炉の熱を店の隅々まで運んでいる。
壁に埋め込まれた歯車の装飾は、蒸気の圧力を受けてゆっくりと、まるで時間そのものを刻むように回り続けていた。
速くも遅くもない。ただ、確かに動いている。
カウンターの奥では重厚な炉が静かに燃え、その炎がアンバー色の光を床に長く伸ばしていた。
左手の棚には色とりどりの瓶が整然と並んでいた。
ピンク、翠、白、青、それぞれが炉の光を受けて内側から滲むように輝いている。
標本瓶に収められた夜の欠片のようだ、とアリシアは思った。
誰かが丁寧に集めて、丁寧に並べたもの。
乱れのない秩序の中に、確かな意志があった。
雨が降り注ぐ夜景が、青みがかった光とともにガラスの向こうに広がっていた。
水が流れているのか、窓の外の光景はどこか水底のように揺らめいて、店内の温もりと奇妙な調和を成していた。
外ではあの雨がまだ降り続けているはずなのに、ガラス一枚を隔てるだけで、それは暴威ではなく景色になる。
静かな水族館の前に立ったときのような、あの不思議な安堵感。
アリシアはそれが何なのか、すぐには言葉にできなかった。
カウンターの向こうに立っていたのは、小柄なララフェルだった。
黒地に赤いリボンタイ、白手袋。
髪には赤い花が、揺れることなく静かに添えられている。
その目は落ち着いていて、けれどどこか確かな温度を持っていた。
彼はグローブをはめた手で陶製のカップを静かに置き、こちらへ軽く目を向けた——急かすでも、愛想を振りまくでもなく、ただそこにいることが自然であるように。
彼は頷き、カウンターの内側で静かに動き始めた。
茶葉の香りが立った。
金属と木と、それからどこか甘い何かが混ざり合った、この場所だけの匂い。
蒸気が細く上がる音が、雨音の隙間に溶けていく。
やがて、カップがカウンターに置かれた――微塵も音を立てずに。
まるでもともとそこにあったもののように。
両手でカップを包むと、熱がじんわりと指の先まで染み込んできた。
剣を握り続けた掌の痺れが、湯気とともにほどけていく気がした。
泥にまみれたブーツの感触も、暗い空の下で何かを叫んだ記憶も、琥珀色の温もりの中に静かに沈んでいく。
言葉にならない疲れというのは、名前を持たないぶんだけ手放しにくい。
けれど今この瞬間、それはようやく輪郭を失いつつあった。
隣には先客が二人、静かに言葉を交わしながら杯を傾けていた。
少し離れた革張りのソファには、本を開いたまま微睡んでいる女性の姿。
書棚には色褪せた背表紙が並び、ときおり歯車の動く低い振動が、まるで建物自体が呼吸しているかのように床から伝わってくる。
店主はこちらを見ていなかった。
グラスを拭きながら、何も聞かない。何も語らない。
ただ、この場所を保っているかのようだった。
雨の音と、歯車の音と、誰かのくぐもった笑い声と、蒸気の白い吐息。
それらがゆっくりと混ざり合い、ひとつの静けさになっていく。
いつの間にか、窓の外の雨脚が少しだけ弱まっていた。
明日もまた、剣を取らなければならない。
それは変わらない。
しかし、今この瞬間に満ちてきたものが、明日の足を支えてくれる気がした。
温かさは指先から腕へ、腕から胸の奥へと静かに広がっていく。
外套の重さが、少しだけ軽くなった気がした。
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基本情報
Bar_squall
GaiaDC Ridill エンピレアム 23-19
営業日:月曜日+不定期
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