Euphoric Create—或いは実践VS想像—幸福という概念の反革命性を暴くゲーム
想像を解放せよ—と要求したのは、68年のフランスの某派閥であった。しかし 国際状況主義連盟によって、その手のスローガンの反革命性が明晰に指示されたのである。乃ち、「壁に【自分の欲望を現実と見なせ】を書いた人々は、既に【想像に力を】といった、革命的な運動を吸収するためのイデオロギー的なスローガンを破壊しつつあった。何故なら、この人々には欲望があったのに、これには想像こそなかったからだ」と。
だが、そこまで言っても、なんで想像がイデオロギー的な概念だろうか?確かに、現代社会を革命的に変えたいなら、その前に新しい社会を想像せねばならない.....?と考えてしまうのは無理ない。しかしそれこそは、イデオロギーの罠である。その理由を明らかにするには、先ず革命的な底力を吸収するイデオロギーの一つを、底まで分析しましょう。
まず一つ引用する。「特性のない男」には、次の如き文章がある。
「人は、正確を旨とする精神状態の方が、審美を旨とするそれよりも、根本的には神を信ずるものだということを忘れてはならない」
そのいい例としてはウィトゲンシュタインがあるのだが、彼は現代思想においては最も優れた詭弁家でもありながら、その最も物悲しい常識屋でもあった。今や黴の生えた彼の哲学だが、避難する事や、低く評価する事は、いわゆる現代思想を守る学者たちに顰蹙されがちだ。とにかくもウィトゲンシュタインは、「一切をそのままにしておくもの」と哲学を定義した。それで、言えぬものに寡黙を.....というような キエティスムを促進したが人生の後半では、言葉を【言語ゲーム】と定義し、意義の無常であることに重点を置いた。ウィトゲンシュタインは、生涯にわたって正確を促した—哲学自体を、一種のノンセンスと定義したほどには。
だがこのノンセンス宣言したって、ウィトゲンシュタイン自身は、やるせない人生を送っていた。そして政治には興味が無かったと、彼の友達も言った。この人を食った、該博な哲学者はそれでも自分の周りに起こっていた曠古の戦争などにさえ一切、興味が無かったのである。だが神を本能的に信ずるものは明らかだ。よく神に触れていた、読者をイエスキリストの崇拝者と捉えたとか、神は彼の哲学に大きなものである。
ここで分析するウィトゲンシュタインの哲学は、幸福についての部分だ。彼にとって幸福は想像によって得られるものであって、決して実践によって奪い取るものではなかった。また言うが、彼は「そのままにして」置きたかったので。すなわちウィトゲンシュタインの言う幸福は、現代での生活を甘んじた先にあった。マルクーゼによれば、ウィトゲンシュタインのやりたかったのは、思想があるべき限界を越えないように、哲学の可能性を、非常に限られた少ない箱に 締め込んだ.....みたいものであった。想像を頼りにして、まず置かれた境遇にどうやって適応するべきか、そして自分の立場を、幸福のように解釈するべきだってのは、ウィトゲンシュタインのの幸福論だ。幸福の為に藻掻くことを禁じるわけではないが、幸福を、限られた可能性の中に、見つけ出せ、というのだった。
可能性感覚というのはある。しかしイデオロギーは、それを吸収するべく、創造へと可能性を投げるのだ。より良き社会の可能性を考える事が大丈夫だ!しかし決してその社会を拵えるな。可能性感覚の正しい使い方は、むしろ実践というのにあるのである。乃ち、創造を解放しても、創造するのは社会によって限られた概念だけだ。新しい社会を作りたければ、それに伴う新しい概念を実践によって作り出す必要がある。
長い文章になりましたが、これで【実践VS想像】というのが分かるんだと思う。次は、このゲームがどうやってこの革命的な概念戦争を表現するのか、というのを扱うのです。











