ラベンダーベッドの石畳を叩く細い雨音が、夜の住宅街に低く滲んでいた。
アミカリアは外套の重さを肩で感じながら、アパルトメント「リリーヒルズ」の廊下を歩いていた。
靴底が水を吸っているのか、足の裏がいつもより遠かった。
今日の依頼は終わった。
それだけは確かだったが、それ以上のことを考える気力が、雨と一緒にどこかへ流れてしまっていた。
音、というより気配に近かった。
低く通る何かが、濡れた空気の中を這うように足元に届く。
彼女の足は、気づけば止まっていた。
《Pluvia》という小さなプレートが、窓から差し込む雨粒を受けていた。
外の湿った冷たさとは異なる、落ち着いた温もりが鼻腔をくすぐる。
木の香り、微かにアルコール、それから――どこかから漂う、甘くない夜の匂い。
赤煉瓦の壁が、間接照明の青に染まっていた。
青と橙、二色の光が静かに拮抗する店内は、昼でも夜でもない、時間が宙吊りになったような場所だった。
チェック柄の床に落ちた光の縁が、グラスの底のように揺れている。
カウンター奥の棚に並ぶボトルたちが、それぞれ異なる色の沈黙を抱えていた。
天井近くに、歯車を組み込んだ時計が据えられていた。
針は確かに動いているのに、音がしない。
この店では時間が進まないのかもしれない、とアミカリアは思った。
カウンターの向こうに立っていたのは、白い長い耳を持つ男だった。
白銀の髪が顎のあたりで揺れ、赤みがかった瞳が静かにこちらを見ていた。
黒いベストの上から革のストラップが肩に渡り、片手には網目状の手袋。
整った顔立ちは無表情に近いが、敵意もなく、深い森に立つ古木のように揺るぎなかった。
店の奥には、もう一人いた。
こちらも耳の長いヴィエラの男で、白い髪を緩くおろし、目を伏せてグラスを磨いていた。
切り揃えられた前髪の下、静謐な横顔は灯りを浴びて淡く光っている。
布がガラスの上を滑る、微かな擦れ音。
それだけが彼の存在を証明していた。
アミカリアとは一度も目を合わせなかった。それが、妙に心地よかった。
促されて、彼女はカウンターの椅子に腰を下ろした。
革の座面が、くぐもった音を立てた。
外套を脱ごうとして、肩が思ったより重いことに気づいた。
鎧はとうに預けてきたはずなのに。
何を頼んだか、よく覚えていない。
ただ目の前に琥珀色の液体があって、その縁に細かな泡が浮いていた。
一口含むと、舌の上に苦みだけが広がって、それからすぐに消えた。
香りは、まだ閉じていた。
店内に流れる音楽は、控えめだった。
弦と鍵盤が絡み合って、会話の邪魔をしない程度の音量で漂っている。
隣の席には見知らぬ客が一人いたが、互いに目も合わせなかった。
それでいい場所だった。
しばらくして、カウンターの内側で小さな音がした。
氷が溶けて、グラスの中で一度だけ鳴いた音だった。
アミカリアは自分のグラスを見た。
自分のではない。それでもその音が、どこかに詰まっていた何かを少しだけ緩めた。
バーテンダーは何も聞かずに、一杯目と似た色の酒を注いだ。
今度は口に含んだ瞬間、奥から花のような香りが開いた。
同じ酒かどうかもわからない。
ただ、違う味がした。
グラスを持つ指先が、いつの間にか震えていないことにアミカリアは気づいた。
来たときはそうではなかった、という記憶だけがあった。
壁の青い光が、煉瓦の凹凸を撫でていた。
奥のヴィエラはいつの間にかグラス磨きを終え、今は細い帳簿のようなものを静かに繰っていた。
こちらへの関心は、欠片もないようだった。
その無関心が、不思議なほど温かかった。
扉が開く気配を、彼は客より先に察知していた。
新しい客が入ってくる。
それでも彼の視線はアミカリアのグラスに向いたまま、次の一手を静かに測っていた。
外が止んだのか、自分の耳が慣れたのか、もうわからない。
アミカリアは今日のことを少しだけ思い出した。
思い出して、それでも大したことではなかったと感じた。
そう感じられるようになっていた、というほうが正しいかもしれなかった。
扉を押して外に出ると、石畳は濡れたまま光を反射していた。
雲の切れ間から星が一つ、覗いていた。
アミカリアは外套の前を閉じた。さっきより軽かった。
肩が、ではなく――どこか、もっと内側が。
彼女は夜の道を歩き出した。
足が、ちゃんと地面に届いていた。
基本情報
Bar《Pluvia》
GaiaDC Iflit ラベンダーベッド 10区 リリーヒルズ 27号室
不定期営業
#FF14_Pluvia