(マクロ)経済学で広く知られている結果(理論といっていいのかな)というのは、大体が、ある仮定の元においてのみ成り立つものである。バーロ・リカードの等価定理、効率市場仮説、最適なフリードマンルール、最適な資産非課税、といった結果は、それぞれ(ものによっては窮屈な)仮定の下でのみ成り立つ結果である。では、これらの結果がよって立つ仮定が成立していないからといってこれらの結果は役に立たないかというとそんなことはない。これらの結果は、ベンチマークとしての役割が重要である。つまり、これらの結果が成り立たないのはなぜかを教えてくれもするのである。 摩擦がない状態で物がどのように動くかを知っても、現実に物がどのように動くかについて直接的に教えてくれるわけではないけれども、ある仮定の下での物の動き方がわかることで、では、その仮定が成り立たないときにはどのように動くかについて考えるための出発点を提供してくれるのである。 話しを経済学に戻すと、例えば、経済学者があるモデルにおいて、フリードマンルールが最適だという論文を書いたからといって、その経済学者は、「(ある国において)フリードマンルールを実施すべきだ」と主張しているわけではない。こういう論文を書いた学者が、別の論文では、フリードマンルールが最適ではないという結果を導いているような例はいくらでもあると思う。こういう学者は別に、「あっちとこっちで別のことを言っている」わけではなく、それぞれ異なる環境の下における最適な金融政策を述べているだけである。 (略) 難しいのは、たぶん多くの学者はこのように、ある結果を主張するために論文を書いているわけではないと思うが、ある結果を信じてそれを主張する論文ばかり書いている人もいるので、この2つのタイプの見極めが難しいこと、特に素人さんは、たぶん無意識的に(意識的だとたちが悪い)両者を混同して、ある有名な結果を導いた論文がある学者はその結果を信じていると考えがちなこと、だと思う。 (略) このことは、経済学の訓練をつんでいない人が経済学の結果を解釈するときの危険性とつながっている。ある結果が成り立つ過程をちゃんと理解できないと、仮定を無視して結果だけを一人歩きさせることになりうる。
Theory as a Benchmark - unrepresentative agent: blogging about economics










