[マティアス・ゲルネ 歌曲の夕べ]
猛暑が続いたザルツブルクも少しずつ天候が変わってきた。昼間は晴れて暑かったのに、夕方から土砂降りの雨に。その驟雨が止んだころ、20時、マティアス・ゲルネの「歌曲の夕べ」が開演した。今年の伴奏は、音楽祭の総監督を務めるマルクス・ヒンターホイザーである。 プログラムはシューマンの歌曲だけで固めた。ニコラウス・レーナウの詩による6つの歌とレクイエム、「隠者」、アイヒェンドルフの詩によるリーダークライス、ヴィルヘルム・マイスターによる歌曲集、「ライオンの花嫁」、そしてメアリー・スチュアートの詩による五つの歌。シューマンの「歌曲の年」と言われる1840年と、晩年の49年から52年くらいに書かれた作品である。 先週、オペラ『魔笛』でゲルネのザラストロを聴いて、正直がっかりした。声が出ていない上に、歩き方も少しおかしくて、とっても調子が悪そうだったからだ。それゆえ、昨年があまりに素晴らしかったので即決でチケットを頼んでいた「歌曲の夕べ」はどんな感じなんだろう、と気にしていたわけだが、どうやら杞憂だったようだ。相も変わらず、聴き手の心の最も敏感な部分にそっと触れるような、ベルベットのごとき美声である。これは…、と思った。ゲルネは一流のバリトン歌手で、ウィーンからメトロポリタンまで、世界中あちこちの歌劇場でワーグナーやリヒャルト・シュトラウス、その他様々な作品の役柄を広く歌っている。だが、彼はやはりどちらかといえばリート向きの歌手なのではないのだろうか。揺れ動くプロットの中で固定されたひとつの役を歌うよりも、むしろリートという詩と音楽の小宇宙を自分で作り上げていく方が得意なタイプなのだと思う。そして、いまさら気付くのも愚かだが、声域の問題もある。バリトンとはいえ高音を美しく歌い上げるゲルネには、ザラストロは音域的に少し厳しいかもしれない。少し調べたら、パパゲーノ役で出演することも多かったようだ。
何はともあれ、ドイツ歌曲を歌うバリトンの中で、マティアス・ゲルネは現在、まちがいなく最も優れた歌手のひとりに入るだろう。詩の言葉をひと言ひと言大切に音楽にのせて、独特の世界を描き出すさまは本当にみごと。ドイツロマン主義の詩人たちの独自の世界観、森や山や川の流れや、静謐な月の光や薔薇色の頬の娘たちが、ピアノしかない舞台の上に、幻灯のように浮かび上がるかと思えるようだった。人間の生と死と自然と。死の影が顔をのぞかせる場面では、ゲルネはあたかもタナトスの深淵を覗き込んだ預言者のように、恐怖に目を見開き、身を震わせる。その表現力がもうすごい。休憩なしでほとんど曲間も取らずに1時間40分をぶっ通しで歌い続けた。 ゲルネのリートはオーソドックスな歌唱ではなく、一曲一曲が彼自身が創り出すドラマに仕上がっているのだが、伴奏のヒンターホイザーも、その迫力ある演劇性とまったくちぐはぐなところがないほどに、ピタリと寄り添う好演だった。
開演時間が遅かったせいか、夕立と荒天のせいなのか、客席がややざわついていたのが残念だった。その原因の一つは、もしかしたら、ゲルネが曲順を若干変えて歌っていたことにもあるのかもしれない。私も含めて、リートの演奏会の場合、お客さんの多くはプログラムのテキストを見る。ずーっと見ながら聴くか、チラ見しながら聴くかは好き好きだが、少なくとも、詩の意味が理解できた方がリートの世界には入りやすいし、かといって、リート歌唱では単語を独特のやり方で分節するので、歌だけ聴いていても、たとえネイティヴでも歌詞全部は聞き取れない。私はチラ見派だが、それでも、手元のテキストとまったく違う歌詞の歌が始まると、やはりザワッとしてしまうし、それが声に出てしまう人もあるだろう。しかし、最後のディミヌエンドまで考え抜かれたゲルネの演奏、その余韻にひっそりと聴き入ることができない場面があったのは、ちょっと残念である。








