彼女を巡る短い話
(何度来ても立派なマンションだ…) オンドルマールの住む瀟洒なマンションの玄関ロビーへのドアを潜りながらそう思う。無骨なコンクリート風の壁際には水の流れる空間があり、革張りの待合ソファの横では観葉植物が大振りな葉を広げている。
(イレーナの奴はうちとはちょっと違うとか言ってたが、ま、間違ってはいないな…) ふう、と小さなため息をついてオートロックドアの前のインターホンに手を伸ばし彼の部屋の番号を押す。 (5、0、5…と…) 今日はオンドルマールの部屋に呼ばれての土曜の夕飯だ。彼と一緒に暮らすアナとうちのイレーナが仲が良いということもあり、ここには度々邪魔させてもらっている。私のマンションもそう遠くないことから私と彼もここらのスーパーやどこそこのあれがうまいとか、そういう話もよくするような仲だ。 今日は彼とアナが夕飯を振舞ってくれるということだが手土産に白ワイン一本と家で作ってタッパーに入れたサーモンのマリネ、それにアスパラの豚肉巻きを持ってきた。一人で持つとなるとそこそこの荷物になる。 で、一緒に呼ばれているイレーナはどこにいるのかというと。
「わすれものした!あたしとってくるからせらーんさきいってて!」 ということで私がその忘れ物が何かを聞く前に踵を返してうちに走っていった。 全くうっかりした奴だ、と思いながらインターホンを押す。 呼び鈴がなり、しばらくして返事が返ってきた。 「はい?」 ん? …彼、オンドルマールの声に少し違和感を感じたが、 「あ、どうもセラーンです」 「ああ」 目の前の自動ドアがスッと開く。 「どーぞ」 …やはり、いつものオンドルマールと比べて少しいやかなり素っ気ない。家に招いておいて彼らしくない物言いだ。 もやもやとしたものを感じながらエレベーターに乗り5階のボタンを押す。過ぎていくドア向こうの景色を眺めながら先程のオンドルマールの態度に覚えがあることを思い出した。が、あれは彼ではなく… 部屋の前に立ちドア横のインターホンを押す。ややあって、中の廊下を歩いてくる足音がしてがちゃりと玄関が開いた。 「こんちは」 「…君のほうか」 見た瞬間にわかった。シンプルな白Tシャツと締まった長い足に程よくフィットした黒のレザーパンツ。彼はオンドルマールではなく双子の弟のベルナールのほうだ。二人は顔と声こそまるきり同じだが服装や態度は全く別人だ。ベルナールには前に一度だけ会ったことがある。その時はオンドルマールも一緒にいて…イレーナについて色々言われた。正直な話、嫌いというわけではないが少しだけ苦手な印象がないと言えば嘘になる。 「兄貴とアナは買い忘れた物があるとかで買い出しに行ってます」 すたすたと部屋の奥に戻りながらベルナールが言う。 「なるほど」 「すぐ戻るから、あんたが来たら悪いけどしばらく待っててくれだそうです」 そう言ってダイニングルームのソファにごろりと寝転び何やらハードカバーの小説をぱらぱらとめくっている。オンドルマールの本だろうか、私も知っている作家の短編集だ。 そう言われては仕方なく、とりあえず荷物を降ろし中の物を出す。テーブルには既にいくつかの料理と皿やコップ、フォーク類が並べられていた。温かそうな大皿のパスタやパリっとしたレタスのサラダを見る限りどうやら本当に用意してすぐ忘れ物に気付き買い出しに出たというところらしい。 持ってきた土産の料理も一緒に出しておくか、と空いた場所に並べていく。ベルナールはというと相変わらず長い足を悠々と組みながらページをめくっていた。そうして欲しいわけではないが、こういう時に言われなければ手を貸さないのが実に彼らしいと思う。兄のほうだったらこうはいかないだろう。 その違いに一人頷きながらタッパーの中の様子を確認していると、 「でイレーナとはヤったんすか?」 ぷらぷらと組んだ足を揺らすベルナールにおもむろにそう言われ、思わず脇に置いたワインの瓶を倒しそうになる。 「な…」 「どうなんです?」 ぱらり、とまた一枚ページを繰りながら重ねて尋ねられる。 「いや…」 「まだなんすか?」 そこで初めて目線をこちらにやり追って問いを重ねるベルナールに、兄のほうはいつ帰ってくるんだ、と思わずにはいられない。 「まあ…その…そうだな…」 「全く信じられませんね」 そう言って彼はぱたん、と本を閉じて脇のサイドテーブルに置き、寝転がったまま体ごとこちらに向き頬杖をつく。こうして見ると男の私でも見惚れるくらい色男だ。…それに関係ないが今彼が寝ているソファー、おそらく本革張りだろう。高そう。これから始まるであろう問答が憂鬱なばかりについそんなところに目が行ってしまう。 「あんなのに懐かれて手もつけてないとはね」 そんな私の心持ちをよそに、にんまりと口の端を上げて彼は話を続ける。 「前も言いましたが俺なら一回は寝てますよ。試しにってことで」 そう言ってサイドテーブルに置いてあった煙草を一本取り出し火を付けた。他人事ながらあのソファに灰が落ちたらどうする、とはらはらする。 「なんで放っておいてんですか?」 「…君には、関係ないだろう」 この話を早く終わらせたくて思わず突き放すような物言いになってしまった。が、 「ふうん」 ベルナールは、面白い、という風に体を起こしこちらに向かって身を乗り出すように座り直す。 「じゃやっぱあれなんすか?」 「あれ?」 「だから、勃たねえのかなって」 「…」 オンドルマール君はどこまで買い物に行ったんだ。何か足りないものがあったら言ってくれれば買ってきたのに。 「それならま、確かに個人の問題ですし黙っときますけど…」 「…そういうあれ、ではない…そういうわけでは」 「ないんすか?」 話を切り上げたかったのに沽券に関わるレッテルを貼られそうになってしまい思わず否定してしまった。 「なんだてっきりそうなのかと。こないだもなんとなく話濁すし」 「…」 「ならなおさらさっさとヤっちまえばいいじゃないですか」 くい、と形のいい片眉を上げて言う。オンドルマールと同じ顔と声でこの物言いなのだから見ていると段々混乱してくる。 「…イレーナはまだ子供だ。そういう対象では…」 「アナだって子供ですよ」 「…」 思わずふー…、と長いため息をつきながら手近なダイニングテーブルの椅子に腰掛ける。 「アナの奴だってイレーナとそう変わらない歳なのに兄貴はあれとやりまくってますよ」 「彼らのことは彼らだけの問題だろう。私が口を出すことじゃない」 紫煙を燻らせながらベルナールは、ふん、と鼻で笑うような声を出す。 「そりゃそうですがね」 楽しそうな表情がより一層濃くなった。 「俺はまたてっきりあんたに度胸がないのかと」 「度胸?」 「ええそうです。いわゆる度量ってやつですか」 ちり、と胸の奥が焦げるような感覚を覚えながら聞き返す。ああ、わかるぞ。これは良くないほうに話が進もうとしている。よせよせセラーン。彼の口車に乗るんじゃない。そう思っているはずなのに、心とは裏腹に自然と口が動く。 「あんな小娘を手篭めにするような度胸はいらんよ」 「へえ?そうですか」 ベルナールが二本目の煙草に火を付ける。 「そんなこと言って、あの子の気持ちに答える自信がない〜みたいなやつじゃないんすか?」 「…」 「あの子程の気持ちを持てる自信がないとか幸せにする自信がないとか」 「…違う…」 「あんたは真面目そうだからそんなとこじゃないかと思ったんですが違う?へえ?そうですか」 くそ、どうしてこんな話になったんだ。やっぱりこの彼のことは少し、いやかなりとても苦手だ。 「もういいだろう。それよりお兄さんとアナちゃんはまだ帰らないのか?電話して…」 「じゃあ俺が食っちまおうかな」 「な」 胸ポケットから取り出したスマホを思わず滑り落としそうになる。 「なんすかその顔は。イレーナは女として見らんないんでしょ?」 余程間の抜けた顔をしていたらしい。ベルナールはとんとんと灰を落としながらくっくっと笑う。 「そうは言ってない」 「そうですか?そう聞こえましたがね」 自然に立ち上がりソファの方へ足が向かう。よせばいいのに。私は何故こんなにムキになっているんだ。 「…撤回したまえ」 「何を?」 憎らしいほど端正な横顔でふー、と煙を吐く彼に苛立ちが募る。自分がどう見られているか完全にわかっている顔だ。これだからこういう色男は苦手だ。 「さっきの、俺がどうたらとかいうやつだ」 「何で?あんたはイレーナのことは何とも思ってないって話じゃないですか。なら俺がどうしようが勝手でしょう」 「君だって彼女のことは好みじゃないと言ったろう」 「言ったでしょ。俺なら一回は寝てるって」 気がつけば彼の目前まで来て踏ん反り返る姿を見下ろしていた。ベルナールはと言えば見下ろす私の視線にも全く動じず相変わらずにやにやとした目線を向けている。 「君のような奴にイレーナが落ちるとは思わん」 「俺みたいな?」 「…君のようなだらしのない男にはね」 「ふん」 私の顔に思い切り煙が吐きかけられる。盛大に顔をしかめてぱたぱたと手で払うとベルナールはまた楽しそうに喉の奥で笑った。オンドルマールとはまるでコインの表と裏だ。 「どうですかね?試してみます?」 「やめろと言っている」 「終わったらどうだったか報告しますよ。体は抱き甲斐がありそうなんでね」 次の瞬間、ベルナールの長身の体がぐい、とソファから引き上げられた。他人事のように言っているが私が彼の胸元を掴んで引き上げたのだ。自分がこんなことをするとは思ってもみなかった。冷静なもう一人の私が馬鹿馬鹿、やめろと言っているのだが体は全く言うことを聞かず全力で彼を睨みつけている。 「…放してくださいよ。シャツが伸びるでしょ」 「撤回しろ」 「嫌だね」 「…この…」 「クズ、とでも言いたげですね。どうします?殴ります?」 「…」 「…は、それすらも出来ねえか」 ぷつ、と頭の中で何かが切れたような音がしたようなして無意識に右の拳を振り上げる。それはもうきつく握り締めて、だ。 ベルナールのその憎たらしい顔にそれが振り下ろされる直前、 「ただいまー!」 玄関のドアががちゃりと開く音と無邪気な声が響いた。続いて、 「あ!もうせらーんさんきてるよ!」 「ああ」 聞き覚えのある、そして先程今か今かと待ち望んだ声だ。 「せらーんさ…!」 とことこと現れたアナがベルナールの胸ぐらを掴んで拳を握ったままの私を見て呆然とする。当然だろう。さっさと手を離せばいいのに私も思わず固まっている。 「ああ、セラーンさんすいません、思いの外遅くなって…!?」 続けて入ってきたオンドルマールが私とベルナールを見てアナと同じ顔をする。 「な…」 「あ、ああ、オンドルマール君、アナちゃん、いやこれは…」 「ベルナール!お前セラーンさんに何をした!?」 え?そっち? 「何言ってんだよ。どう見ても被害者は俺だろ」 「お前が彼にちょっかいを出したに決まってる。どうなんです?セラーンさん」 「え?あ、いや」 「ちっ」 舌打ちをしてベルナールは私の手をぺしぺしと叩く。 「放せよ」 「…」 ようやく手を解くとベルナールは盛大にため息をついてわざとらしく襟元を直した。うう、くそ、元はと言えばそっちのせいなのに。 「ベルナール!なんだその態度は!すみませんセラーンさんこいつが何かしたんですね」 「弟が胸ぐら掴まれてたのにそれか?」 「お前は黙ってろ」 「そうだよ。べるがなんかしたにきまってるもん」 「うるせーぞ」 あ、いや、あの、とへどもどしている私の耳に聞き慣れた声が飛び込んでくる。 「なになに!?せらーんがどしたの!?」 げ、イレーナ。ああ面倒くさいところに。思わず、がば、とベルナールを見る。視線に(面倒くさいことを言ってくれるなよ)という意味を込めたありったけの目線で。 「ああイレーナ、さっきセラーンさんがお前のこと…」 その瞬間、がっ、と自分でも驚くような速さで彼の襟首を掴み、びゅんと隣のベッドルームまで引きずっていった。 「ちょっと何すか。だから伸びるでしょ」 「何すかじゃない!こっちの台詞だ!」 「せっかく場を盛り上げようとしたのに」 「やめろ!」 「何で。イレーナも喜びますよ」 「やめろ!絶っっっ対にやめろ」 彼の肩をきつく掴み顔を見上げながら揺さぶっていると、 「あたしがなに!?」 イレーナがひょい、と顔を出す。 「あー!何でもない!何でもない!さ、オンドルマールさんもう始めましょう少ないですがつまみも作ってきましたので」 「だからさっきセラーンさんが…」 キッッッ、とベルナールを睨むとあの口の端を上げた表情でふいと目を逸らす。全く憎たらしい。 「せらーんがあたしのことを!?なになに!?」 「何でもない!何もない!!さ、お前も準備を手伝いなさい!」 「でもお」 「いいから!!!」 ううくそ、しばらくこの弟を見張っておかなくては。はあ。 ぶつくさ言うイレーナをダイニングに押しやりながら、目に焼きつくようなベルナールのしたり顔に私は深い深いため息をついたのだった。









