六月十三日、日記
どうかわたしを送り出すときは、悔やむのではなく、お疲れさま、と言って欲しい。頑張って戦ってきたので、もう十分だったので、お疲れさまでした、と。
電気を消して、横になって、眠気に耐えながら日記の続きを書こうとしたらそのまま寝落ちてしまった。次の日の朝、わたしは日記を書こうとしていたことも忘れていて、思い出したころには、メモ帳はまっさらになっていた。いつのまにか昨晩のわたしが全て消してしまっていたらしい。画面を黒く汚す膿のような感情の吐露が自分の意志とは関係のないところでいつの間にか消えてしまったことは、わたしを不思議な気持ちにさせた。悲しくも惜しくもない。ただ、そこにそれがあったことは頭で理解できてもなんとなく信じられないような、妙な気持ちだった。
雨の日の夜、煙草を吸いに外に出た。ふらふらと歩いていたら足が止まらなくなって、しばらく歩き回ることにした。住宅街を抜けて大きな通りに出ると、横を走ってゆく車のスピードが圧倒的に速くなる。スピードが速くなると大きくなる摩擦のせいで、車が通り過ぎる時の音が大きくなる。雨の中を走る車の音がちょうどよくわたしを目立たなく、どうでもよい存在にしていた。泣いたって大丈夫だった。傘の下、すれ違う人々も俯きがちで表情がわかりにくい。
わたしには死ぬときに聴きたい音楽がある。外国の歌で、歌詞はなんとなくわかるけれどちゃんと調べたことはない。たぶん、失った恋人を想う歌。わたしは誰のことも恋しくなくて、ただひとりで死にたいだけだけど。二十三歳、いつ死んでもいいと思い続けている。積極的に死にたいと思うことはあっても、積極的に生きたいと思うことができないのは、わたしの心に問題があるのか、わたしの人生のデフォルトなのか。(両方なのかもしれない。)死ぬことを考えるほうがずっと心が安らぐ。いつか終わる、いつか死ねる、それまでを凌ぐようにわたしは生きている。生きていたいと思わないのに、いつの間にか時間が過ぎてゆく。突然死ぬ人の気持ちがわかる。わたしは外で自分が死にたいと思う人間であることをつゆほども仄めかさないでいることができる人間だからだ。死にたいと思いながらいつも通りにひとに笑いかけたり冗談を言ったりできる。でも、どんなに幸せそうに見えても、どんなに素敵な未来が用意されていたとしても、踏み出すしかなかった一歩がそのひとの全てだ。わたしたちは、あっという間に死ぬ。
ここ数週間ほど、体調が万全でない。精神も、健康とは言えない。寝つきが悪くなったし明らかに食欲が落ちた。料理もできない。かろうじて洗濯はやっているけど掃除はあまりできない。PMSや気候によって心身が影響を受けているのを感じる一方、それ以上に、自分が思うよりずっと精神的に参っているのに不安を煽られる。新しい生活、新しい環境、ある同期との関係、母のこと、大したことはないと思っていたことが思っていたより自分の負荷になっているのかもしれなかった。不安がちらつく。綺麗なダムのことを考える。わたしは果たしてそこまで辿り着けるのだろうか。もう病院に通いたくない、と思っている。ここ最近、本心からそう思う。一方で、このまま頑張り続けるのは難しいかもしれない、と思うこともある。ちゃんとしていたいと思うわたしともろく不安定なわたしが同時に存在していて、わたしを混乱させる。とてもとても混乱させる。わたしはまた、茫漠とした海のような混乱の中に落とされたようだった。
元気?と聞かれて、嘘をつけるようになった。はやくひとりになりたい。はやくたったひとりで、気兼ねなく、この人生を決められるようになりたい。













