イギリスに行ってきた。
親友の実家に泊めてもらった。
最初の晩は、ラムのローストだった。いきなり大好物を与えられて、良い予感しかしなかった。

❣ Chile in a Photography ❣
Keni

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イギリスに行ってきた。
親友の実家に泊めてもらった。
最初の晩は、ラムのローストだった。いきなり大好物を与えられて、良い予感しかしなかった。
国際運転免許証を取りに行ってきた。
この間ガイジンの付き添いで行った運転試験場で自分の手続きなど考えもしなかったわたしの要領の悪さはさて置き、運転免許センターの手際の良さといったらなかった。
窓口では手の空いてそうな人が誰でも「カマン、カマーン」と招いてくれ、何か分からないことがあるならここに来ればワシが教えたるから心配しなさんな、的な吸引力で、オドオドする間も無く10分後には欲しかったものを手渡されていた。最高だった。
この間ガイジンの付き添いで行った運転試験場では時間はかかったものの、窓口の誰もが「大丈夫だよー」という雰囲気を出していた。アレをオーラというのだろうか。
オーラを流し出すターゲットは、日本で運転したい外国人だけではなかった。
会計の時、「研修生」というバッジをつけたおじいさんがおぼつかない手つきで対応してくれた。その後ろで立ち姿で何かを書き込む人、隣の窓口の人、脇を通り抜ける人、みんなが目や耳で新人おじさんの対応を気にかけているのが分かった。何人もが手を差し出し、誰かが手を差し出している間も、他の人まで覗き込んで「そうそう、大丈夫だよー」というオーラを伝えていた。
多分オーラの使い方は間違っているが、わたしはここはとても大丈夫な会社だなと思った(会社か)。未来のエースはこうして育て上げるのだなと。
世の中には、結構いい人達がいて、結構素敵なことが起こっているものだ。
今日という日。
スーツケースの重さを図るものが必要だからと、体重計を買った。多分人生初の体重計ショッピング。
せっかくだからテクノロジー付きのやつにしたら、アプリに記録してくれるという。
せっかくだから記録を始めたら、なんだか記録をすることが面白くなってきた。
せっかくだから色んなものを記録したいと思って、スマートフォンについてくるやつで歩数なんかを。
記録を公表する人の気持ちはとんなだろうと考えることがあるが、こんな感じか。
料理で日本語
この前、全然イタリア人じゃない外国人が威勢良く迎えてくれるイタリアンレストランに入った。
チーズ大好きなうちのガイジンは、「チーズの盛り合わせ」を頼んで、世界一悲しいチーズボードがきた、とショゲていた。
-チーズの重ね合わせとイカの先っぽ
わたしはカラマリを要求し、ロンドンで出てくるようなものと比べるとなかなか立派なイカ(の先っぽ)が届いて満足した。
東京だのロンドンだのにいたらどこの料理でもそれっぽいのが食べられるという素敵な時代になったけれど、その土地でイケてる食べ物って、やっぱりあるわよね。今いる場所では貧相なモノにしか出会えないのは分かっていても、好物をメニューに見つけたらついつい頼んじゃうけども。学習しないのは、もしかしたら立派なのが出てくるかもしれない、などとうっすら期待さえしてしまうところ。
食べ物が好きだもの。
多分わたしより食べ物が大好きなうちのガイジンは、近所のスーパーで売っているグリークヨーグルトがお高いことを指摘して、自分でヨーグルトを育て始めた。それを濾してギリシャ風ヨーグルトに仕上げ、先日はクリームチーズ入りのフローズンヨーグルトを作ってくれた。
-ヨーグルトという言葉を連発し過ぎた。
どこかで食べて美味しかったものは、何とかして再現しようとする。一年のタイ生活以来、ソムタムはうちの定番メニューになった。中国から帰ったら大根餅を作ってくれた。食材や調理器具が増えて、台所が賑やかである。
わたしはどこかで食べた美味しいものは、ありもので適当に真似してみるタチだ。うちのガイジンはレシピを調べる。手に入らない食材の代用になるものまでリサーチして挑む。
ただ、文献は英語なので、材料も調理器具も火や温度の加減も何かと違う。わたしは、日本にいるのなら日本の人が日本でやり繰りしている方法を探った方が、効率的でプラクティカルではないかとたまに思う。
だから、レシピを日本語で読む練習を始めることを提案した。ひらがなは読めるから、読めない漢字はいちいち調べつつ、何十かの料理用語、言い回しを覚えたら良い。そうすれば、「煮る」とか「お浸しにする」とか、「焼く」とか「揚げる」とか「炒める」とかが楽に伝わるようになるし、スーパーマーケットで商品紹介札を見て買い物ができるようになるし(10円引きを10%引きと間違えて買い込む日々もついでにさらば)。わたしも楽になるけども、お魚や貝の種類は日本語で覚えないと、歓びの限界がくるわよね。鯛の目出度さとか、分かち合えたら最高だわ
ここ数ヶ月また外国に行ったので、帰ってきたらまた新たな気持ちで日本語を学んでいただきたいところである。
日本の運転免許証に書き換えたいというガイジンに、運転試験場に連れて行かれた。降りたのは、可愛い駅だった。
可愛い町と、見たことがない緑が広がっていた。
途中で公園を通るとは聞いていたけれど、目に入ってきたのは森だった。
通り抜けたのも、森だった。
春にしては暑い日だったので、ロンドンのハイドパークを全然思い出さなかった。
町でパピコを買っておいたので、しゃぶりながら歩いた。最高だった。
ちっとも着く気がしなかった。
森の中で、ドイツ語を喋る親子とすれ違った。「ニッコリしてみたんだけど、豚を見るような目で睨まれたわ」としょげるガイジン。
森を抜けたら、試験場の中の人たちは皆驚くほど親切だった。名前を覚えて良い評判を広めようと思ったけれど、もはや一人も思い出せない。
ガイジンは、若葉色の運転免許証を手に入れた。
日本の視力検査もなんとかこなした。みぎ、ひだり、うえ、した、を覚えていて良かったね。
そういえばこの間、靴下がどうしてもクチュシタになってしまうことが発覚した。何でそんないきなりロシア人みたいな名前をつけたんだ、と憤っていた。マトリョーシカ!と言うような勢いでクチューシタ!と言ってしまう。子供の頃、言葉を上手く発音できない憤りを感じたりしていたのか、思い出せない。
思えばたくさんのことを覚えて、色々なことをできるようになったものだ。
2019年4月29日の日記
ストレッチをしていると、床に置いた鏡に映る自分がたまに目に入ってしまう。いつでも楳図かずおのキャラクターみたいな顔でこっちを見ている。
子供の頃からそうだったので、人前での逆立ちは避けてきた。ヨガのインストラクターとかにはなれないなと思う。
今日は小学校の同級生のたかはしけんじくんの誕生日だ。
外皮を剥いてからのみかんの内皮の乾燥の速さを、風呂場も少しは見習いたまえ
「ハーブの香り」とはなんて大雑把で無責任な
英語の歌詞を書くときのコツ2
もう既に「一番大切なこと」だなどと大げさに書いてしまったので、これ以上書き足すことがないと美しいとは思うのだけれど。すっかり忘れていた。計画性もなく、推敲に時間も掛けずに仕上げた気になるとこの有様である。
恥ずかしげもなく、いくつか補足していこう。
英語の歌詞を書くときのコツ
珍しく、ウェブサイト(http://www.eco-mufas.com/)経由でメッセージをもらった。
この4月から「メールを受け取ったらすぐに返信する」という目標を設定しているわたしはすぐに返事を書きたい。けれど、サイトのドメインで取得してあるメールアドレスのうち、仕事用ではない方をまだどこにも設定していなくて、このままでは通知が届いたオタンコナス@ウェブメールみたいな普段使いのアカウントから返信することになってしまう。さっさと設定すればいいのだけれど、今週は早寝早起きをすると決めているのに、もう0時になってしまう。ああどうしよう。
こんなことを書いている間にメールアカウントの設定をしていれば終わっていただろうけれど、一晩越したので落ち着いて返信ができた。とは言え、ちょっと面白いのでもらった質問へのわたしなりの返答を、もっと熱くなってここにも書いてみたい。
わたしが書いた歌詞をよく読んでくれていた人が、自分のバンドで英詞を書いているそうで、英語で歌詞を書くときのコツを聞いてくれた。
今振り返ると、間違いはもちろん稚拙な言葉遣いや言い回しがいっぱいある。そんなわたしが偉そうに言うのもなんだけれど、近頃わたしは英語の歌詞の手伝いの機会が多く、「何となくでいいや」ではなくより良くしようと思う人がいるととても嬉しくなるので、盛りあがっている。
いつにも増して長くなるけれど、興味がある人は読んでみて欲しい。
英会話スクールはどこ
根付きのコリアンダーを買って食べ尽くしたので、もう一度収穫しようとしている。
日本で英語の先生になりたいガイジンがいるので、そういう仕事の概要を掴むためにリサーチしていた。いつも同じリサーチをしている気がするが、忘れっぽい人を相手にしていることと、わたしが求人広告を見るのが好きなせいだろう。
日本語が読めない外国人は Gaijinpot みたいなところで仕事探しをすると思うのだけれど、それを知らない日本の企業が出している求人が見つかるかもしれないと思って、indeed.com の日本版を見た。延々と見ていた。面白い。応募者の日本語能力の有無は問わないという英語の広告もあるけれど、日本人の英会話講師を求めている会社も結構ある。
外国人でも日本人でも、時給1200円とか月給20万円などというのがよく見つかる。お国の最低時給にも届かないので、この情報は件のイギリス人には内緒にしようと思うが、なかなか悲しい気持ちになる。求められるスキルや経験の割に、安く買われるようだ。
特に日本人先生。日本語ペラペラで、残業ありということは教える以外の業務もふんだんにこなすことが期待されているということだろう、そのうえで、あたかも幸運なことのように「英語が活かせる仕事ですよ」などと書いてあったりする。英語が活かせちゃうのに、お給料まで貰えちゃうんですよこのラッキー娘め、と言われているような気にさえなる。被害妄想と言われても構わない。もうちょっとさ、人に対する態度ってもんがさ、と言いたいところなのだ。
もちろんそうでないところもいっぱいある。外国人の場合、英語が母国語でない人に教える訓練を受けてもらえる資格 (TEFL – Teaching English as a Foreign Language) などを持っていなくても、何かしらの学士を持っていればビザを取って英語教師として日本で働くことができたりする。だからとりあえず日本に来たくて、一からスキルを叩き込んで欲しい、という人を、ビザ取得のサポートも込みで、安い給料で雇うという仕組みも分からなくもない。
だから多分わたしが悲しいのは、日本人(日本語と日本社会の「マナー」を完璧に備えていることを前提に)に向けて、〇〇の資格△△以上、といった、英語を教えるスキルを現すとは思えない条件を設定してくるくせにそれを給料に反映させない、きっと何も分かっていない上司(誰のや)や人事の存在だ。
わたしが無駄に悲しい思いをしているのは、それがだいたい、外国語が出来る人を求める多くの会社の態度と似ているからだ。スキルを買い叩かれることの悲しさと、逆に、どうしてこれにお金を払っちゃったの?という訳を掴まされた人たちを思っての悲しさだ。仕方がないことだけれど。わからない人を責める意味はないから、語学に限らず、何か技術やスキルがあると自負する人は、自分でその価値を守っていくしかないのだろう。
だってきっと、外国語をマスターするのに、このプログラミングをできるようになるまでに、このソフトウェアをあなたが期待するほど使えるようになるのに、どれくらいの金銭や時間をかけて修行や苦労をしてきたと思ってるの?と言っても、わからない人にはわからないし、どうでも良いのだと思う。今ここでサラっとこなしているのだから大したことないんだろう、としか思えないに違いない。
若い頃、「英会話できる人歓迎」系のアルバイトをしたことがあるが、通常業務に加えて他の人の英語業務を背負うことになり大変なだけだったので、英語がわかることなど内緒にしておけばよかったと思った。歓迎される程度では割に合わない。とても評価してくれた別の仕事場では、19歳の小娘なのに、英語が苦手な社員の代わりに大事なやり取りまで任されて高給をもらった。全力を尽くしたねわたしゃ。
今わたしは、フリーランスだというせいで買い叩かれそうになったら、こちらが必要な金額を多めに提示することにしている。その案件を逃すことになるとしても、そもそも話が通じない人と仕事をしたところで苦労するだけだ。とりあえず提示して、(多分期待よりもだいぶ高いから)二度と連絡をよこさない人もいるし(おい見積もりを出すのに費やした時間を返せ)、申し訳ないことに今回は予算が足りないけれどあなたの仕事が気に入ったのでまたの機会に頼みたい、と言ってくれたり、予算の許す限りの量だけでもやってくれないかと依頼してくれる人もいる。たまに。そんな人には出血大サービスだ。人としてちゃんとした人には喜んで欲しい。
話を戻そう。
以前、どこの英会話スクールに通ったらいいかとカジュアルに聞かれたことがあって、知らんがなと言うしかなかったのだけれど、今なら「求人サイトやその学校の採用情報を見て、その会社が講師に払う給料を調べたらある程度絞れるんじゃないかな」とでも言うかもしれない。
自分が支払う授業料と講師が受け取る額の差を見るのもいい。こんなに安く雇われる先生は信頼が置けないわ、という人がいるかもしれないし、逆に一回の授業が安く済んで、気兼ねなく数多く通えることろが良いと思う人もいるだろう。続くかどうかわからないからとか初めてだから講師の質はあまり求めない、という場合もあるだろう。
わたしは、働く人の精神衛生を保つのが難しい額の金銭でやり繰りしようとしているスクールは嫌だなと思う。講師の問題というよりも、その経営姿勢が気に食わん、という感じだ。
語学学生ビザでロンドンにいた時に、通っていた語学学校が潰れて大変な目にあった。講師が「最近給料もらってない」と愚痴を言うのを耳にしていたが、まさか先に支払ってあった残りの学費が戻ってこないまま、ビザの失効を避けるために次の学校に入学しなくてはならない羽目になるとは思わなかった。
それ以来、何か継続するサービスのためにお金を払う時には、経営母体の状態を調べることにしている。雇用主の姿勢も大事だ。
わたしは、そこで働いていて幸せだと思っている人と接したい。そしてその経験が良かったら「とても良い」と伝えることで、その人たちの気持ちなり評価なり会社がもっと盛り上がったらいいなと思う。
タグとかタイトルとかに書き込もうとすると、一文字目の子音だけで勝手に変換済まされされちゃうんだけどなにこれ。
残念な日もそりゃあるけれど、最近だいたいノっている。
いつもなら夜にこそこそとスーパーマーケットに行くところ、今日は明るいうちに商店街を歩いてみた。桜はフルオンで広がっているし、冬のあいだ高くて控えめに消費していた野菜が安い。活気がない方のアーケード街に入ると、スーパーで売っているものの倍量くらいのコリアンダーの束を、半額ほどの値段で買うことができた。道端にはキウイフルーツが落ちていた。車に轢かれないように、多分誰かが脇に寄せたのだと思う。
昔住んでいた町に戻ったものの、よく通った魚屋さんや八百屋さんに行かなかったのは、そういった商店が閉まってから出かけるばかりだったことの他に、現金をあまり持ち歩かない生活だったという理由もある。こんにちはと言って、ダンボールの札に書いてある通りの金額(読めない)を手渡して、聞いていない客に向かって「ありがとうございましたまたどうぞおこしください」と早口で投げつける必要のないお店の人に、さようならと言って買い物を終えるのは良かった。手渡された商品の鮮度が上がったようにさえ感じられる。気のせいだ。気のせいだよ、わたし。
昨日は、嬉しい発見をした。ゴボウを切った後ににんにくを刻んだのに、指にはゴボウの匂いしか残らなかったのだ。ゴボウ凄い。お風呂に入って、お湯の匂いを嗅ぐのが好きなのだけれど、お湯を掬う手からにんにくの匂いがするのは残念なのである。
アサリが安いので、3日に一度は砂抜きをしているような気がする。見たことがないだろうと思って、塩水に浸かってぷくぷくと泡を出し始める様子をビデオに撮って親友に送ると「生きてるの?」と質問された。考えたことがなかった。
わたしのソーシャルメディアの輪にはビーガンだと宣言している友だちが何人かいるので、肉や魚の写真を投稿するのも少し気が引ける。でもそれよりも、生きた貝をこれから殺して食べるというアイデアの方が、もっとたちが悪い気がしてきた。
イギリスのポリティカルコレクトネスの追求具合は時に度が過ぎていると感じるけれど、わたしの生活から動物性蛋白質を除いたら植物とコンピュータの画面しか残らないので、あまり気にしないように心がける。だってわたしは日本にいるのだ。山菜と海藻とアニメだけで日本を語れると思うなよ。
畑を耕す手伝いをして以来、土の中の楽園を荒らされたり体をぶった切られる虫のことを思うと心が痛む。というのが、動物や魚を殺すことを良しとする野蛮人扱いされた時のために用意している返答だが、たぶんわたしの友人たちは、オレはオレ、お前はお前、だ。だといいな。
英語で日本を紹介するビデオ(網走監獄の博物館をレポートしていたよ)を見ていたら、ホッケのことを「何とか Mackerel 」と呼んでいた。Mackerel と言えば、少なくともイギリスではサバのことだと思うけれども(タイのサムイ島では "Saba" という名で売られていたよ)、アジも「何とか Mackerel 」だしサワラも「何とか Mackerel 」らしいから、「ホッケよお前もか」という気持ちになった。海苔も昆布ももずくもメカブもひじきもあおさも青のりも、どれもこれも「海藻の一種」と説明するしかないもどかしさと似ている。「もずく嫌いは克服して大好きになったけれどメカブはまだ」というような話もドラマ性に欠ける。
もしかしたらこれは、バゲットもバタールもパリジャンも「フランスパン」と呼ばれてしまうことに憤るフランス人の気持ちと似ているかもしれない。レスタシャーチーズもランカシャーチーズもグロスターチーズもプロセスされたチェダーチーズも「チーズ」と呼ばれる世界のジレンマと言えばいいだろうか、イギリス人。わかるか。
そう言えば、オーストラリアのミートパイって見た目で判別できるなあ、あの形以外では存在しないのかな、などと思って調べていると、ウィキペディアに「オーストラリア人ひとり当たりの年間平均消費量は12個」と書いてあった。「ビクトリア州のパイブランド Four’n Twenty は一時間に5万個製造しており」の後に。作りすぎではなかろうか。
そうだ最近ノっているという話だ。わたしはノっている。
Was practicing for my girl Miki’s bday celebration - or at least attempted to. It wasn’t that good and I just baked muffins on that day.
ミキちゃんの誕生を祝う日に備えて練習してみたら、別に美味しくないのが出来てびっくりした。結局地味にマフィンにした。 ケーキの写真を撮るのが難しいこともわかった。
#baking #cake #japanesestyle #strawberryshortcake
マイギャル、ミキちゃんの誕生祝いをした。一緒に旅行に行くことができる数少ない女友だちのひとりで、外国までわざわざ会いに来てくれる心の友(伝わるだろかこのありがたさ)。日本に帰ってきても、出不精なわたしの家まで毎回足を伸ばしてくれる。
わたしは、日本を発つ前に長年住んでいた町に戻って暮らしている。家が決まりそうなときに「えー交通の便が悪い」と、自宅からのトランスポートを憂慮したコメントを投げつけたのは彼女だけである。スーツケースを抱えた彼女の姿も見慣れているわたしは、毎回何日かずつ泊まっていけばいいじゃん、と説得しようとした(何を)。結局わたしは自分の直感を信じて家を決め(直感:ミキちゃんはやって来る)、今ではなかなか簡単なルートがあることがわかった。それでも、楽しすぎて終電を逃す時間まで引き止めてしまった時には、犬が待つハウスに戻らなくてはいけない彼女はタクシーに乗って帰るのだ。わたしは、やっぱり最初から数日家を空ける予定にしておいて泊まっていけばいいじゃんと思う。
両親共に誕生日が並んでいたうえ、子供時代の延長の大人時代を過ごしたバンドのメンバーの半数とも近い日にちで生まれたわたしは、その時期を「祝ってもらう」というよりは「祝う計画を立てるシーズン」として捉えてきた。だから自分の誕生日、特にわたしだけの日として祝ってもらうことはどうにも苦手である。
そのせいだと思うのだけれど、人の誕生日を祝うチャンスをもらうことをとても嬉しく感じる。特に、当日をわたしに与えてくれる時。年に一度しかないその人にとって特別なその日にわたしと過ごすことにしてくれたというのは、とても光栄なことだと思うのだ。ある年は、ちょうどふたりでコペンハーゲンとロンドン旅行中だったので「当日を一緒に過ごしたぜ」というウキウキな思い出があるマイギャルの誕生日。今年は少し遅れて、それでも一緒にわーいという時間を作ってくれたことがとても嬉しい。
素敵なものに対するアンテナを張っている彼女がまだ見ていない素敵なものを提示しようなどという大それた野望は持っていない。だから「ちょっとこれ便利だから使ってみて」みたいな、わたしが最近楽しいと思っているものについて話す計画でプレゼントを贈る。祝いとは、自分の楽しみだ。
わたしの頭のなかには、自分が好きな人たちの素敵さを誰かに伝えたい時に開く、彼らのエピソードが詰まった人物帳みたいなスペースがある(時々、自分ひとりで覗いてうわあ大好きだと思ったりもする)。可視化すれば、彼女の章はかなり分厚いと思う。
思い返せば、彼女と初めて話したのは確か2000年の香川県でのイベントだったので、もう18年近く見つめていることになる(ちょっと恐ろしいことに気がついてしまった)。それでも未だに一日中正面に座って肩肘をついて眺めていたいと思うくらいの可愛さとか、仕草や反応(特におっちょこちょいをしたときの)の愛しさとかは、別にわたしの「泊まっていけばいいじゃん」に作用していないと言い張りたい。別に。
彼女は人の悪口を言わない。悪い気持ちを交えて受け取ったりしない。それでも悪意が見える時には、柔らかい心でそれを何とか処理しようとする。わたしみたいに、誰かの話にはオチがないなどとジャッジしたりしないし、誰かの極悪に立ち向かうためのもっと極悪なストーリーを考えたりしない。ちゃんと建設的に対応しようとする。わたしはそんな彼女が誰かに困らされている話を聞く度に「その人、それは酷い。あなたはそんな苦労をする必要はない」と声を荒げる。彼女が無垢で馬鹿な子で、気を抜いているから悪い人が掘った穴に落ちてしまうというわけではないのだ。物ごとを気持ちよく、スムーズに、そして目的に沿った一番美しい形で進めようと(多分誰も気に留めないところでも)頭と心を使うからこそ、わたしは特に、彼女のポジションで被るシワ寄せに敏感になってしまう。来世はそのシワを伸ばす役目を引き受けたいとさえ思う。
それから、彼女は素敵なことを逃さず受け止める姿勢ができている。だからこそ、それがなければ見過ごすかもしれないことをとても丁寧に拾い上げて嬉しがったり面白がったりする。
どこかで書いたかもしれないけれど、適当に探した限りでは見つからないので、構わず書こうと思う。既に長いけれど。
初めてふたりで旅行に行った時のこと。一度ロンドンに到着してから、その日のうちに街の反対側の空港からコペンハーゲンに飛ぶ予定だった。わたしが船頭の旅だった。
出発の飛行機が1時間半くらい遅れた。特に気心知れた仲間や家族などと一緒であれば、こういったどうにもならない情報に残念な、または不安な、そしてそのうちイライラした表情を見せることは簡単である。言っても仕方ないと分かっていても「えー大丈夫かな」などと口にするだけで、「大丈夫!」と言うこともできないアマチュア船頭が申し訳ない気持ちになることがあり得る。けれど彼女は時間を潰したラウンジで、いつものように穏やかに、お味噌汁を啜っていた(「いつものように」は「お味噌汁を啜る」ではなく「穏やかに」に係ります)。「お味噌汁美味しいー」とわざわざ言葉にすることの効果はもっと知れ渡って良いと思ったその時、その旅最初の、それ以降絶やすことがなかった彼女の幸せそうな顔を見た。まだ出発前。
12時間のフライトのあと、数時間後には不便な電車を乗り継いでロンドンの別の空港にいた。気づくと搭乗時刻間際で、こんな時に限って一番遠くに設定してあるゲートまで走ることになった。走りながら誘導する係の人に怒られた心の傷と舐めようと、ガクガクの膝でようやく座席に着いて隣を見ると彼女は、出された小さなチョコレートバーを頬張って「美味しいー、来てよかったー」と言った。そこ?もう辿り着いちゃった?と言いながらも、本来なら「ごめんねごめんね」と言い続けたいアマチュア船頭は、あれほどまでに焦りと疲労感をかき消してくれるオーラがあるだろうかと思った。オーラとかよく分からないけれど。癒やし?なに、ミキちゃん癒し系?
コペンハーゲンに着くともう夜だった。空港内のお店もほとんど閉まっていて、予約していたホテルに向かうシャトルバスの出発場所を尋ねる人もいなかった。散々歩いて探したところ、最終便も出た後のようだった。何とか電車に乗って、雪の降る真っ暗な道にスーツケースの車輪の跡をヨロヨロと重ねながらホテルに着いた。二人して、デンマークの変換プラグのことをすっかり忘れていたので、情報マシンを充電する術がひとつもないことに気づいた。備え付けのタオルがスメルを放っていた。そして冷蔵庫が壊れていた。受付に電話したら、別の部屋に移動させてくれると言われたのだけれど、彼女は冷蔵庫なしでも問題ないと言った。「外寒いし」。せめて臭いタオルだけは変えてもらうことにした。
そんな、ちょっと残念な部屋で覚悟を決めて荷解きをする間、もしも彼女と部屋の細部にいちいち「北欧っぽい!」とコメントする遊びが始まらなければ、わたしは「大丈夫かな、この旅」と不安に感じていたに違いない。
(例えばこんな感じだ。「ミキちゃーん、タオル臭いー!嗅いでー」「何で部屋に入ってまずタオルのニオイ嗅いだのー?あっでもこのタオル掛けすごく北欧っぽいよー」「ミキちゃーん冷蔵庫の電源が入らないよー、部屋変えてもらうー?」「えーでもこのテーブルと椅子がすごく北欧っぽくてかわいいよー。別の部屋が北欧っぽくなかったら残念だからこのままでいいよー」「ミキちゃーん多分ここ全部北欧だよー」自由な人々の会話のように見えるかもしれないが、通常わたしたちは互いの一言ももらさず拾うスタイルなので、実際にはちょっと違ったと思うが、まあだいたいこんな感じでわたしの動揺をいちいち救ってくれた)
もう何がなんだかわかんないけど四角いクッションも北欧っぽいー、電源のコンセントも北欧っぽいー、みたいな可笑しな夜
わたしはとてもドラマチックな一日がようやく終わるところだと思った。何もかも、笑える程に予想外だった。わたしだったら、どちらかが船頭であってもなくても「ピンチの連続だったわ」「それを乗り切ったわ」と記憶するような24時間だった。日本人の旅行者を相手にするプロのガイドとしての一日なら、自分の落ち度とは関係無いにしろ不手際が重なって申し訳ない、とうなだれる夜になっていたに違いない。
やっと腰を掛けて、今では馴染みとなった「寛ぐわたしたち」になった時、彼女は「何ごともなく無事にコペンハーゲンに着いたねえ」と言った。「何ごともなく」。
わたしはこんなに素敵な人と出会ったのが初めてのような気がした。とても嬉しかった。そして世界が、この子がこのままでいられる場所であって欲しい、と思った。
何度か思い出してこの話を彼女にしたことがあるけれど、記憶にないという。そろそろ覚えて、あなたがどれだけ人を幸せにするか気づいてよと思う。というよりもきっと、わたしが彼女からそれを受け取ることができるのをとても幸せなことだと思っていて、「わたしはこんなに幸せなの」とミキちゃんに伝えたいだけなのだろう。自分の満足のために。
空港に放置されたカートさえ北欧っぽかったわよね
彼女の人柄は、一度話をすればすぐにわかると思うのだけれど、もっと多くの人が知って、同じように素敵な気持ちになればいいのにと思う。もしわたしが彼女の人物像を伝えたい敏腕プロデューサーだったら、徹子の部屋みたいなのを企画するわね。来世はシワ伸ばしとプロデューサー、どちらにしよう。
それからもしも自分に万が一のことがあったなら、わたしがどんなに素敵な人たちとの縁に恵まれていたかということだけは残しておきたいなと考えている。これも自分の楽しみのために、である。
今さら数年前の旅日記みたいになっちゃった。てへ。
Let me introduce my new toy.
Although it’s like 30 years old, it’s got midi in/out. And good enough amount of keys. Goodbye my single handed (literally) recording days!
My life’s getting even better.
大和田くんのお母さんのお下がりで、エレピをもらった。シンセならまだしも、ピだと楽譜がないと何もできないと言ったら、とりあえずこれを弾いておけと示唆されたジェフミルズを耳コピして初日を過ごした。
#clavinova #jeffmills👽
指のエクササイズ的なのをやって、覚えている曲を弾けるところまで片っ端から弾いて、ああ疲れた、または飽きたなと思うまでに一時間かかることが分かった。朝と晩にやったら、わたしの一日が二時間も短くなってしまう。困ったなと思いながらとても楽しんでいるクチである。
子供の頃に使っていた楽譜を父の家に取りに行く前に、とりあえず初めてサティの全集的なものを一冊注文してみた。親友がよくジムノペディを弾いていた。わたしは犬のためのぶよぶよした曲なんかを練習してみようと思う。
ピアノがあると、何か弾けと言われるのが、ピアノを弾くと言ってしまった人の宿命ではないだろうか。わたしはそんな時にはいつも、リチャーズのノクターンを1分くらいでちゃっちゃと弾いていた。左右の手をクロスさせたり、展開もわかりやすくドラマチックになって聞いた人がへえ、と思えるようなエンターテインメント性がある気がするし、ポップスで言うところのワンコーラスを終えたくらいでエンディングに持っていけるからだ。
本当はだいぶゆっくり弾くのは知っていたし、かなり端折っている自覚はあった。短くまとめる必要がない今、じっくり練習してみようとオンラインで見ることができる楽譜をチェックしたところ、わたしはポップスで言うところのAメロもBメロもそれぞれかなり削ってまとめていたことが分かった。わたしがレパートリーにしていたのは、わたし編集のラジオエディットのようなものだった。
早く楽譜を手元に取り戻したくてうずうずしているが、エレピを運んだ日から腰痛が酷いので、玄関に腰掛けて靴を履くのも恐ろしい。
東京に自分の居場所ができてから、大和田くんの家でここ数年預かってもらっていたバンド時代の機材が返ってきた。こんな大量の重い物を仕舞っておいてくれてただでさえ頭が上がらないのに、今度はエレピまで授けてくれたのだ。わーい。
ミディキーボードが4台もある(どれもこれも溺愛していたローランドのPC-200か180)が、わたしにはピアノに近い何かが必要だったのだ。
管楽器はまだしも、音源モジュールなんかはどう考えてももう使わないのだけれど、手探りで一生懸命作った音なんかが記憶にあってちょっとセンチメンタルなものなので、家の中の機材エリアに全部入ったのを幸いに、まだとってある。隙間を埋めるために、音色を決めてからフレーズを考えることが多かったわたしは、コレがなければどうなっていたかわからない。たぶん違うやり方をしていただけだろうけど。何しろ黒くて四角くて重い。もっと、うちわとかハリセンボンみたいなライトな道具だったら良かったのに。
そう言いながら、新たに我が家に加わったエレピは何倍もデカくて重い。これでリハビリをして、数年後にはアコースティックピアノをそれなりに弾けるくらいまで戻っているといいなと思う。
数年後の予定を立てられるとか良いよね、なんて言っていないで、とりあえず立ててしまうことにした。
Today’s midnight snack.
今夜のインターネットのお供。長芋に紫蘇と湿気った海苔。
#yam #siso #perilla #yukari #seaweed (at Tokyo, Japan)
テレホーダイを満喫した世代なので、「インターネットのお供」と言えば夜の深い時間を示唆するとどこかで信じている。そして、昼間にインターネットサーフィンをやる、などと耳にしようものなら、意識はしなくても幾つかある内臓のどれかが「えっ昼間から?」と少したじろぐ様子が目に浮かぶ。遺憾である。
久しぶりに長芋を買った。だいたいあんた長いのよ、と躊躇していたけれど、切り口を拭ってペーパータオルで抱きしめておくと長持ちすることを知ったので勇気が出た。
その昔は一束98円で買っていた記憶があるほうれん草が高くてなかなか手を出せずにいたところ、この間少し安くなっていたのでウキウキを隠さず買った。ヨーロッパではカットしてある葉っぱの部分だけが詰まったサラダ用ほうれん草が手に入ったけれど、茹でた茎おいしい。茹でる時の匂いとか、絞る時の力加減とか、とても愛しい。安いうちにと、もう一束買いに戻った。
塩麹とか納豆といった新しいものにチャレンジしながらも、昔知っていたことをいろいろと忘れていると思い知る日々である。この間はレンコンのアク抜きってどうやるんだっけと調べる羽目になった。でも世の中は、一所懸命研究している誰かのお陰で常に新しい情報で刷新されるのだから、頭にある知識が永遠に正しいと疑わずにダメージを蓄積する可能性を考えると、知らないと思って調べて「知っていたはずのこととは違う新事実」を得ることができればラッキーだなあと思う。
最近キノコの本を買った親友が、わたしが好んで生で食べていたマッシュルームは加熱なしでは害があるらしいと教えてくれた。大丈夫、あの種類のマッシュルームは1ポンドちょっと払って5粒くらいしか買えないから、日本にいる間はシイタケ食べるわ、と答えた。本当は安い舞茸をもりもり食べている。
つまりだ。知らないほうが良いこともあるということだ。いや違う。
「教えてもらったエクササイズで腰痛が治ったポーズがいくつかあってですね」と友人に話していたら、結局ひとつしか覚えていなかったことに気づいた事変ならあった。そんなものだ。わたしは忘れる。また身につけよう。
湿気った海苔をハサミで切ったら束になってかかってきやがった。何故もう湿気った。
Here’s me talking to British Airways about my work
ロンドン時代のわたしの大家さん。ブリティッシュエアウェイズのファーストクラス用のコンテンツのインタビューらしい。この人にはとても影響を受けた。
創作のジャンルは違うのだけれど、彼女の何でも楽しむ姿勢とか、とりあえずやってみるという態度への感心が、多分わたしの大学の卒業制作に表れたし、今になって生活の部分でじわりじわりと感じていたところだ。
彼女は何でも作ってしまう。台所にあるあらゆるマシンを使って手の込んだ美味しいものを作る(あらゆるマシンが揃っているのは、彼女の仕事ぶりを見ると納得してしまう)。ボディクリームは、まだ彼女が作ってくれていたのより心地いいものに出会っていない。
可愛い布を繋ぎ合わせて、使わなくなったデュベを押し込んでクッションを作ってしまったのは、わたしも新居で真似している。デュベを押し込む部分だけだけど。
作品のアイデアというのは、目に見えることに大部分の反応がある一方で、それがどこからどうやってその形になったかに感嘆するのは受け手次第なところがあると思う。自分の目や頭で捉えたものを超えることは難しいために、受け手の見えていないことというのが多いのではないか。音楽も同じで、だから物事を知っていないと惜しい評価しかできないだろうな、などと思うことがある。
わたしは彼女のジャンルを知らないので、多分逃したものが多いのは残念だ。
そんな残念なわたしが一番わぁと思うのは、彼女の、素材を使いこなすスキルだ。知らない素材や見たことがある素材を並べて、どれがいいと思う?なんて聞かれたこともある。どうしてこれを使おうと思ったのかしらとか、それにして一体どうやって形にするのよ、などと阿呆な質問をすると、阿呆にわかるように説明してくれる。なんだか楽しそうだ、と阿呆は思う。
多分音楽も一緒だろうな。知られているシンセサイザーの音を上手いこと使う人や、何から出たか分からないような音をとういう経緯か自慢気に披露することもなく、そっと添えてくる人もいる。だいたい両者は同じ人で、わたしがああすごいと思うのはそういう人だ。
一緒に住んでいて、彼女の手によって家がどんどん変わっていくのを見るのは楽しかった。いつでも、どうすれば可愛くなるかを考えているようだった。
一度、アマンダはわたしができないことをなんでもやってしまうのね、と言ったことがある。わたしにできるのは何だ、という話は置いておいて。彼女は、エコはわたしのできないことをできるでしょ、わたしは音楽は作れない、と言った(それから、トイレを詰まらせたり、と加えた。いや、それはわたしではなくてよくうちに入り浸っていた親友なのだとまた熱く説明した)。ちょうど卒業制作のアルバムを作り終えた頃だった。わたしは、彼女なら多分何とか合金とかなんとか物質で、アルバム一枚さらっと作ってしまう気がした。
仕事漬けの年末年始だったけれど、ここのところ苦手な分野を振られることが多くて思うように捗らない日が続いている。憎たらしい。そんな時には、少し進む度に気分転換をするのだけれど、先日気分転換で買ったマフィン型が届いたので、椅子にフックをねじ込んだり洗濯機のホースをきれいにしたり、一通りの気分転換を終えた後でやってみた。
わたしはお菓子を作ることができなかった。マドレーヌを焼いたつもりがかちんこちんのクッキーになって出てきたり、何かを焼いたらオーブントースターの中で火を吹いたりしたので、レシピに従うという厳しい掟がある甘いもの業界からは、突っ込んでもいない足を洗った。従ったところで燃えるのだし。それに特に甘いものが好きなわけでもないし。
けれどもどういうわけか、やってやろうと思った。苦手だということを棚に上げた。マフィンが食べたかった。わたしはマフィンを食べたかったのだよ。(助詞の使い方)
結局、デジタルスケールの電池がないことに気づいて目分量でやってやった(だから失敗するのだとあれほど…)。インターネットでは頻繁にHMと略されていることが腑に落ちないホットケーキミックスを使ったので何とかなると思った。10年前に友人から譲り受けたオーブンレンジの説明書を引っ張り出してきて、初めて予熱設定などをして、まるでスコーンに見えるマフィンができた。ホットケーキミックスを使ったなんて邪道、と笑われたとしても構わない。HMと見ればヘビーメタルと読むわたしが、甘いものを作ったのだ。嬉しい。大変に嬉しい。やはりHMぽい味がするので、そのうち秤に電池を入れて、小麦粉から作り始めるかもしれない。サンプル音源で曲を作ったら上手くいったので、次は打ち込みを始めてみようという企みに近いのではないか。全く要らぬ例えだが。
人間は変わるものだ。ほらみんなもきっと変われるよ、代わり映えのしない毎日からレッツゲラウト、みたいなメッセージや元気や勇気を送るつもりはないので、わたしは変わるもんだなあ、と思っているという話だ。とは言え、ここ数年のわたしの進化はめざましい、くらいには思っている。
今まででは考えられなかったようなことをできるようになって(納豆を食べられるようになったよ)、考えられなかったようなものを好きになって(植物を可愛いと思うようになったよ)、これナシでは生きていけない、くらい好きだったものがなくても案外平気で生きてきていることにも気づいた(漂白剤を常備していないよ)。
自分の好きなことがよくわかっていて、苦手なものを思い知っていたはずの数年前のわたしとは、わたしの枠で見るとだいぶはみ出た新しいわたしが生きている。お酒と側転は今のところ克服する予定はないけれど、人にはそれぞれ自分で設定した枠があって、それを外すことさえできれば「ダメ」なことなどもしかしたらほとんどないのかもしれない、とさえ思う。
ほらみんなもきっと変われるよ、代わり映えのしない毎日からレッツゲラウト。