それは大学生の頃の話。友達に勧められた小説が思っていた以上に面白くて、その作家の本をいくつか読んでみようと思ったのがきっかけだった。いつも自転車で通学していた私にとって、本を読むタイミングは眠る前の約30分。もともと、文字を読むのが得意なわけではなかったから集中力が続くのはそれぐらいで。柔らかい布団に潜り込んだら、放っていた本の隙間に挟んだ栞を手にとって、少しずつ読み進めていく。様々なジャンルがある中で、とりわけ恋愛小説に惹かれたのは、その作家が書いている主なテーマだったからというのもあるけれど、なによりページをめくる度に強い感情に突き動かされる彼らにどうしようもなく憧れたからだった。常識やしがらみに囚われない、お互いが好きという気持ちだけを原動力にした熱量。まだ付き合う、といった経験がなかった私にとって、それは得たくても得られないものでーーとても素敵なもののように思えた。
そんな私に、ひょんなことから、恋人ができる。
あれは2年生の春先の事。いつも使っていた駐輪場は、大学最寄りの地下鉄入口を出て、大通りとは反対側に面している。町中にしては大きい川沿いに連なるそのスペースは、こじんまりとしていて柵もない。駅近なのにいつでも電光掲示板に「空」の文字が光っているのは、ここよりも大きい屋根付きの駐輪場が反対側にあって、そっちを使う人が多いからなんだろう。
たまたまバイト先が方面的に近かった私は、よく、この反対側の駐輪場を利用していて、人気が少ない事をいいことに、時には軽い腹ごしらえをそこで済ませてから向かうなんてこともしていた。
その日は確か金曜の夜で、締めの作業が随分と夜遅くなってしまった日だった。やっと仕事を終えて外に出ると、そろそろ終電も近い時間だというのに、町中には賑やかに肩を組むサラリーマンや別れを惜しむように寄り添ったカップルの姿があって、どことない週末感が通りに漂っている。それらを横目に、一本道を外れたらそこはすっかり寝静まった住宅街だ。昼間は気にならなかった川の波立つ音も、この時間には大きな魚でも泳いでいるのかと思うほどはっきりと聞こえる。
見上げれば、いつか見た映画のような青色の夜に、川沿いに並ぶ桜がまだ少し蕾を残して生温い風に揺れていた。つい先週見たときには知らぬ間に葉桜になってしまったのかと思っていたけど、まだ咲いていないだけだったんだ。
そんな風に思った最中、携帯のバイブレーションが鳴った。そういえば、日付が変わる前に自転車を出さないと追加料金が掛かってしまうんだった。バイト終わりはきっと忘れているだろうと思って、朝にアラームをかけたことを思い出す。駐輪場の傍にある小さな精算機の前で、背負っていたリュックの中をまさぐった。いくつか入っているノートや、ポーチと一緒に財布が入っているはず。でも指先にそれらしきものがあたらない。もしかして、何処かで落とした?ぽつんと立つ街灯の下では、鞄の中もよく見えない。
焦りだす私をよそに、精算機の無機質なアナウンスが追い打ちをかける。しかもその音がやたら周りに響くから、更に。そうこうしているうちに、精算機の時間を見ると、日付が変わるまであと1分。パニック気味に鞄から物を取り出す私の右隣から、突然手が伸びて、精算機からちゃりん、といい音がした。
ご利用、ありがとうございましたとアナウンス。時刻はちょうど0時。
ぎりぎり、間に合った。けどーーそう驚いて振り向くと同い年くらいの男の子が私の後ろに立っている。焦りすぎて全く気づかなかったけど、待たせていたんだろうか?目を丸くする私に向かって、彼は「なんか、困ってたっぽいから」と一言、告げた。全く見ず知らずの、赤の他人に何故か助けられる……たかが、100円ぽっちで。突然にこの状況が恥ずかしくなった私は、感謝の言葉も早々に、さっき自販機で買った紅茶の缶を押し付けてその場を立ち去った。
冷静に考えても、あまりにひどい仕打ち。
次の日の朝、鞄の中に素知らぬ顔をして入っている財布を見つけて落ち込む。
そもそも、名前も聞かなかったし、どこの人かも知らないから、お礼を改めてするにも八方塞がりだ。深いため息をつきながら、自転車に鍵をかける。今日は、屋根付きの駐輪場の方に停めた。なんせ、あの立ち去り方だ。昨日の今日で、もしあの駐輪場でばったり出くわして、面と向かってしまったらあまりに気まずくてまた何かやらかしてしまいそうで。お礼はもちろんすぐにすべきだけど、もし会うなら、自分の中でこの出来事を少し消化してから…そんな事を頭に巡らせながら講義室に入る。いつも座る定位置に一直線に向かったあと、大きなため息をつきながら鞄を肩から下ろした。昨日のことを気に病んで、朝からもう十分に疲れてしまった。ふと目をやると、椅子の下にシャーペンが転がっているのを見つけた。屈んでそれを拾い、一つ席を開けて座っている隣の人に声をかけた。ぱちっと目が合う。その顔は昨日見たあの顔で、呆気にとられている私をよそに、可笑しそうに肩を震わせながらお礼をいう彼の顔を、私は一生忘れられない。
ロマンチックさの欠片もない出来事、それが私と彼が知り合ったきっかけだった。でもよく考えてみれば、現実の恋の始まりなんてそんなものなのかもしれない。いつしか彼は助けてくれた見ず知らずの人から、よく話す友人になりーーそして恋人になっていた。
私達がした、たくさんの恋人らしい事。
例えばお互い自転車通学をしていたから、少し遠くの土手まで足を伸ばしてピクニックをしたり。それこそあの駐輪場で、木枯らしが吹く中、出会いのきっかけを振り返って暖かい紅茶を手に話し込んだり。なんでもないような事を、友達でもなく、家族でもなく、好きな人と積み重ねること。それが私にとっては一番恋人としたかったことだし、まるで初めての事みたいに、全てがとてもきらきらして眩しかった。
そう、三十年に一度見れるという、流星群を見にいったことなんかもあったっけ。プラネタリウムがちっぽけに思えるほどの、満点の星に埋め尽くされた広い空の下で、たくさん流れるなら願い放題だね、なんて無邪気に笑った彼の息が白く舞い上がっていく景色をまだ思い出せる。まだ先のことなんてわからない、目の前にあることだけが全てだった私たちにとって、この関係は永遠に続くものだと信じて疑わなかった。
季節が巡って、3年の夏になった。
そろそろ進路について考え始めたとき、私は院進を、彼は就職を選んだ。きっとこれからそれぞれの事で忙しくなるだろう、だから負担にならないように不用意な連絡は避けようと約束をした。デートも前よりはペースを落として。たぶん、このままだと苛立ちをぶつけたり、些細なことで喧嘩をしたり、そういったことが積もっていく様な予感がしていた。二人とも、心のどこかでお互いが、お互いを好きでいる気持ちよりも、未来への不安の方が強く心を占めているのに気づいていたから、私もそれを受けいれた。
ある日、以前だったら二人で帰っていた道を自転車で走り抜けた時、これからのことを考えた。それぞれの道を進む私達が、今までの様に共に過ごすことは難しい。それこそ、学生と社会人というだけで見えない壁が生まれてしまうなんて当然の事だろう。ここで留まり続ける私が、新しい環境に進む彼の前でどんな風に振る舞えばいいのか、正直言ってわからなかった。どうしたら、私達うまくやっていけるんだろう。好きという気持ちは変わらないのにーーそんなことをぼんやりと考えながら、青になった信号に合わせてペダルに足をかける。大通りの交差点の人をよけながら、横断歩道でふとよそ見をした時、向こう側にスーツ姿の彼を見つけた。ちょうど、今日は面接の日だと言っていた事を思い出す。声をかけようか、ためらいがちにその姿を目で追う。すると、すぐ後ろから同じ様にスーツを着た女の子が彼に駆け寄るのが見えた。手を振る彼。その顔は、最近の私の前で見せる気難しい顔とは違って、もっと柔らかく自然体な表情を浮かべている。それは、私が好きなあの笑顔だった。
突然クラクションが鳴って、ぱっと意識が引き戻される。彼を見ていたら、信号がいつの間にか赤に変わっていたらしい。よろついた姿勢を戻して、中央分離帯に戻る。いつの間にか、車のライトで溢れる町に紛れて彼の姿は見えなくなっていた。今でも携帯をとりだせば、すぐに彼と連絡はとれる。声を聞くことも、話すこともできる。
けれど、その瞬間、これから先の未来で、あなたの隣にいるのは私ではないような気がしてしまった。
*
月日が流れて、もう4年の冬が終わろうとしている。
あれから、忙しないまま日々を過ごして、彼の就職活動が終わった後も、会う頻度が元に戻ることはなかった。同時にあの時、私の中に芽生えてしまったしこりは、その後もずっと残ったままで、こうして季節を迎えている。細い糸の様に続いていたこの関係も、卒業と共に終わりが迫っていることも薄々気づいていた。でも、本当は、好きな気持ちはまだちゃんと残っている。でも、だからこそ、あなたから別れを切り出されるのが怖くて、それは逃げなのかもしれないけど、私から言おうと決めた。
言いたいことがあると告げた、約束の今日。少しだけ思い出に浸りたくて、いつもより早くこの席に座った。かつての思い出が、入れられたばかりの紅茶の湯気と共に現れては消える。道端で飲んだもの、なんて些細な事がどうしてか一番心に残って、どこか温かい。この一杯の時間だけは私の独白も許されるような気がしている。きっと、今日が終わったらもうこれまでのように恋愛小説は読めないかもしれない。だって、自分で選んだはずなのにーー、どんな物語を読んでも、その姿が二人に重なって、もしかしたらこんな未来がありえたかもなんて希望を抱いて泣きたくなってしまう。
もう少しで待ち合わせの時間。曇った窓に滴る雫、とめどない雪解けのように振り続ける雨の中、どこへ行けばいいんだろう、なんて事を思う。こんなに雨が降るのは暖かい証拠。すぐそこまできている春に、きっとあの桜の木は今年も咲くのだろうね。今日、それぞれ違う場所へ踏み出す私達の今までを全てさらってくれるかのように、想像の中で舞い散る花弁にかつての日々が消えていく。なんでもないきっかけから、少しの時を共に過ごして、ありきたりなすれ違いで別れる私達は物語にもなりえない程、よくある二人なのかもしれない。でも、言うでしょう。初恋は実らない、だからこそいつまでも香り高く記憶に残る。それと同じで、私にとってあの日々はかけがえのない特別な時間だった。そして、これからもずっと変わらない事ーー、君は私の最初の恋人だった。