松岡史氏特別講演文字起こし
大興善寺住職・神原玄應です。
ご開帳の折は、様々な方面から、ご本尊にまつわる貴重なご挨拶・ご意見を賜りました。
5月3日に行われました「松岡史氏特別講演」も、その中のひとつです。
松岡先生は、定年まで、九州歴史資料館に在職されておられた方であり、石塔など古い時代の石造文化に関しては、第一人者です。
大興善寺付近にあります慈覚大師石祠周辺には、古い石塔の一部と思われる多くの石(石造物)が、無造作に積まれてありました。
今年の3月初旬に、これらの石造物につきまして、専門家の判断を仰ぐため、先生にお出ましを願ったことから、長い間、ご無沙汰致しておりましたご縁が繋がりました。
これがきっかけとなり、ご開帳に際し、ぜひお話をとお願いして、5月3日のご講演が実現しました。
学術的にも大変貴重なお話と思われましたので、御開帳期間を過ぎましたが、今回「文字起こし」させていただきました。
以下、講演内容(文字起こし)となります。
松岡史氏特別講演
はじめに
今、ご紹介にあずかりました松岡です。
大興善寺さんを含めて、この辺りのお寺さん。それから仏教関係のいろんな石造物など、いろいろ研究することがございましたので、今日その一端と、この地域の歴史的な背景ということをちょっとお話申し上げたいと思うんです。
今日初めて、私もご本尊・十一面観音菩薩様にお参りすることができました。初めてお姿を拝見して、非常に強い印象を受けたわけでございます。
というのは、こちらさんが天台寺院ですので、だいたい天台宗というのは、平安時代の初頭に開かれるわけです。比叡山ですから。
その時代の仏さんというのが、天台寺院では、一番最初の仏様。それ以前の仏様とまた違って密教関係の仏様といいますか。
今日、ご尊顔を拝ませていただいて、印象を受けたのは、平安初頭の仏さんのお顔よりも、お顔のつくりが、もう一時代、もうちょっと遡るんじゃなかろうかという印象を受けたわけでございます。
〜中略〜
大宰府政庁と基肄城、基山四王院と大興善寺の関係
奈良時代に「基山四王院(城山四王院)」という、いわゆる仏教世界の周囲・四方を守る仏様を祀り上げる(寺院がございました)。
太宰府の「大野城」つまり「四王寺山」にも同様、全く同じ時期に作られるんですよ。それが、ある時期結局、消えてしまうわけでございますね。
その後、どうなったんだろうという疑問を持っておったわけですけれども、こちらのご本尊を拝ませていただいて、ひょっとしたら基山四王院あたりと続くお寺さんではなかったろうかと感じたわけです。
先刻、ご住職からお話がございました。
つい先だって、(大興善寺)参道横の慈覚大師のお堂の周囲にありました石造物を整理するということで、私も呼ばれてまいりまして、その時に、ちょうどここの参道の正面から、お寺の後ろの山とお寺の関係を、つぶさに拝見したんです。
そうすると、私も以前にその関係の書物を書いたこともございますけれども、お寺の立地条件が間違いなく平安初頭まで遡る風水地理にピタリあった地形条件で、このお寺のご本堂・境内が位置していること、はっきり確かめることが出来ました。
北から南の方を向いている。お寺さんの後ろに、山の頂が見えて、山の頂越しに、さらに奥の方にまた山がある。
それからすぐ後ろの山、これは主山(しゅざん)、主の山と書きますけども、そこから左右に尾根が出ている。
それが境内の東と西に流れている。そして下った前面のところに、川がちょうどお寺の前を横切るような形で見えて、その川の上流はどこから流れてくるか、流れていく先も見えないという、これが風水の条件なんです。
そして川を越した、お寺さんからいうと、川の向こう側に、前面に山があって、そういう条件を揃えているわけです。
日本で、この風水地理によって、はっきり場所を決めているというのは、実は「大宰府政庁」でございます。
西暦の663年の「白村江の戦い」。百済救援に行きましたときに、日本水軍が惨敗いたしまして、百済の人「憶礼福留(おくらいふくる)」とか「四比福夫(しひふくふ)」とか、そういう百済の貴族そして将軍でもありますけれども、そういう人と百済の人が、大勢日本に亡命してまいります。
大宰府なんかの設置された記録を調べてみますと、はじめ大宰府は、今の博多湾沿岸の方にあったわけなんですね。
ところが、白村江の戦いで敗れて、唐と新羅の連合軍が日本に攻めてくるんではないかと。
で、急遽、当時の「天智天皇(中大兄皇子)」、正確にはまだ天皇の位についておりませんけれども、天智天皇がまず最初に、対馬から九州・大和に至るまでの間に、連絡網として「狼煙台(のろし台)」を作ります。
今、確認できます狼煙台では、対馬から壱岐を経て、壱岐はわかります。
それから九州本土がどこかというと、なかなかわかりにくいんですけれども、例えばこの近くで、(鳥栖市に)朝日山という山がございます。あれは明らかに狼煙台のあった地名です。
現実に狼煙台そのものの遺構が残っておりますのが、現在は唐津市になっておりますけれども、玄界灘に浮かんでいる馬渡島の「番所ノ辻」というところに、はっきり石組みが残っておりまして、どうも天智天皇のときからずっと使われて、蒙古襲来、そして太閤秀吉が朝鮮出兵の時、それくらいまで同じ場所が使われている可能性があります。
というのは見晴らしのいいところ。その煙を上げた時に、遠くから見える場所でないといけませんから、そういう遺構が残っておる。
その次に何をしたかというと、まず城を作ったわけです。それが対馬の金田城であり、それから九州本土では、太宰府の真裏の大野城、つまり四王寺山。
それと太宰府の真南にあたります基山に城をおくわけです。
大宰府政庁と四王寺山、それからさらに南に一直線に行きますと、真南に基山がある。
その基山のずっと山並みが続いた南側に、この現在私が皆様方にお話している大興善寺がある。
この辺りは、単に方位とか何とかだけではなくて、いろんな意味で関わりが深いであろうと思うわけです。
四王寺山とかいわゆる大野城・基肄(椽)城ができて、しばらくは兵士を置いて守るわけです。
私も基山の発掘調査を、昭和34年でございまして、その後も調査があったと思いますけども、最初の発掘調査だったのが、昭和34年11月でした。
非常に私も印象に残っているんですけれども、その時に、作業が終わったあと、掘り出した瓦とか何かを、全部"さんけん"の方に運んだんですけど、取り残しがひとつあって、たまたま一片だけですけども。
私の自宅にあって、つい最近ですけども、蔵においておった資料を、全部、私もこの歳になりましたんで、冥土に行く方が近いから、大事な資料は、それぞれの関係方面、博物館とか、そういうあたりに寄付をしようということで、全部地域ごとに分類して、納めたわけですけれども。
その中に、基山の瓦が一片ありまして、それが間違いなく基山四王院を作られた時のお寺の瓦ということがわかりました。
さらに、その瓦が太宰府の、今は大門というところがございます。そこに「唐の原」という地名がありまして、礎石が残ってたりしておりまして、唐の原のお寺の発掘調査もちょっとやったんですけど、現在、まともな調査ができない。開発されて消えてしまいましたけど、そこの瓦と全く同じ瓦ということが、ごく最近になって私の資料から確認されたと。
それでいろいろわかりましたことは、大宰府を守るために、水城を最初に作り、そして大宰府政庁を置き、そして太宰府の市街地。
日本における最初の計画された都市です。
いわゆる碁盤の目に、道路を南北線・東西線、こういう道路を作ります。これが後の奈良の都、それから藤原京になり、奈良の平城京になり、最後に平安京になるわけですけれども、それの最も古い計画された都市が太宰府であり、その大宰府を守るために設置されたのが、城壁としては、水城であり、南北線に、山の上に城を置く。
それから大野城・基肄城は、おもしろいことにですね、朝鮮半島の山城と関わりがあると言いますけど、私も朝鮮半島、こまめにまわりまして、戦後になって北朝鮮にも4回ほど参りましたけれども、新羅の山城と百済の山城はちょっと違うんです。
新羅の山城は、遠くから見ますと、山の頂上が尖っている。そこの頂上のまわりに鉢巻を巻いたように城壁を築いている。百済の城は、山の上が平らに見えるんです。平らに見えるところに城壁を築き、その真ん中にある谷に、城壁、そして水門を設けるという。山の形が新羅のものと少し違うわけですね。
基肄城・大野城は、山の上が平らであって、明らかに百済が滅亡した時に、憶礼福留とか四比福夫が来て、大野城・太宰府の設計をし、建設したという日本書紀の記録通りに。
まさにこの基肄城も、百済様式の山城であったということがわかるわけです。
ところが、しばらくたちますと、新羅それから日本との関係が少し平和になりまして、白村江の戦いを挟んで、60年ほど遣唐使の派遣がないんですけれども、いちおう唐との平和が回復して、お城があってもお城に兵隊を置く必要がなくなってくる。
そうすると、当時は日本は仏教を中心とする国家体制でありましたし、一番古い法隆寺から始まって、さらに奈良の東大寺等、国を上げてのお寺を作る。
そういう仏教に頼るという時代です。
そうすると、基山に今度は、四王院が置かれるわけです。これが文武天皇の時です。687年でしたか、そういう風に記憶してますけれども。
お寺を、四王院を置くという記録は出てまいりますけど、いつやめたという記録が出てこない。だんだん尻切れトンボになっていった形で、基山四王院が消える。
しかし、その頃になりますと、新しい仏教が入ってくる。つまり天台・真言という新しい宗旨が入ってまいります。
平安時代に入るわけですね。そうすると、記録から消えてしまった基山四王院。建物は当然しばらく経つと、倒れてしまったりなんかするでしょうけど、中の仏様はどうなったんだろうか。
野ざらしになったんだろうか、その辺りが全く謎のままです。
ただ私が、今日初めてこちら(大興善寺)のご本尊を、拝ませていただいて感じたことは、ひょっとしたら、ここのご本尊あたりは、基山四王院の仏様と非常に関係あるんではなかろうか、という風に感じたわけです。
これは、感じたわけであって、これを証明することはできませんけども、いずれにしましても、先ほど申し上げました境内が、風水地理に則った非常にピシっとした設計思想によって、正確に言うと宗教思想と言ったほうがいいんですが、これによって作られているということが、ああやはりここも古いお寺さんなんだなということを、下の方の道路から川を隔てて、このお寺さんの森を見ますと、それが非常によく分かったわけです。
この地にまつわる石造物の紹介
それからもう一つ、ここの境内にもですね、非常に素晴らしい石像技術がございます。
ひとつは彫像板ですぐ奥、ご本堂の横にあって、これは「制多迦童子」を刻んである。制多迦童子というのは、お不動さまの眷属(けんぞく)でございます。
もうひとつ横、これは時代はちょうど、安土桃山時代、戦国時代が終わって、徳川時代になろうというところに、当時ザビエルが日本にキリスト教を伝えます。
その関係があって戦国大名の古田織部。これが大変キリシタンのデザインを取り入れたお茶の道具を作ります。
そういう中に、茶室のところに庭がございます。路地といいますけども、これに灯籠を立てるわけです。
その時に、我々俗にキリシタン灯籠(織部灯籠)といっておりますけど、その装石がすぐそこの横、皆さん首を向けていただければすぐ見えるところにあります。
大変珍しいんです。九州でも今、私が調べた関係で、十数例ありましょうか。
当時の戦国時代から江戸初期にかけてのお茶の流行と関わってくる。
同様に、お寺さんに「織部灯籠」を持っているのは、佐賀の鍋島家の菩提寺にひとつございまして、それは佐賀藩の藩主である鍋島直茂が、晩年お茶室を、隠居してお茶室を営んだ。そのお茶室の庭にあった織部灯籠。
それから非常に可愛がっておった梅の木が、佐賀の方の鍋島家の菩提寺にあります。
その他あるわけですけれども、いずれにしましても、今すぐ拝むことができる石造物がここにございます。
それから先だって、松隈先生とご一緒に、私も多少のお手伝いしまして、戦国時代から江戸初期にかけての石塔群の散らばってバラバラになっておるのを、分類をし、安置したわけでございます。
その頃の石塔群というのは、どういうものがありますかというと、ここに現物が目の前にございませんけれども、種類別に申し上げますと、まず「無縫塔」というのがございます。
無縫塔というのは、頭の先がまあるいひとつの石で作られた、それにまた石がつくわけです。
それから「宝篋印塔」というもの。それから「五輪の塔」。その他には戒名を刻んだり、仏様を刻んだりする「板碑」。
これは銘文があるのと、それからお像を刻んだのが彫像板碑と申しますけど、ここにもひとつ制多迦童子のものがある。
お帰りの時に、参道を下って行くと、ちょうど向こうの道路に出る手前の方に、最近整備された石造物がありますので、またそういう意味で、見ていただければ大変よろしいんではないかと思います。
〜中略〜
最後に
佐賀県と博多・福岡というのは非常に密接な関係が深いところですけれども、大興善寺もそういう中で、ずっと今日まで法脈を続けてきた大変由緒の深いお寺さんだと、今日は改めて感じたわけでございます。
おおまかな話で申し訳ございませんが、これくらいでお話を終わらしていただきたいと思います。どうも大変失礼いたしました。
※ カッコ内は補足説明となります。余談的な部分につきましては、「〜中略〜」扱いにさせていただきました。
















