課の会議中に、会社に受診を義務づけられている健康診断の結果がメールで届いた。今年は健康診断前にうっかり食事を摂るようなミスも回避できたのできっとよい結果になっているだろなと喜び勇んで開いたところ、画面にあらわれた判定はEだった。思わず「いー」と口走る。突然の奇声に、課のメンバーから怪訝な顔を向けられて「すみません何でもないです」と取り繕う。連日連夜の野蛮な飲酒にとうとう肝臓が悲鳴を上げたかと診断をスクロールすると、警告よがしに表中の列が真っ赤に塗られている項目は心臓だった。
心電図を採るためには、ベッドに横たわって上衣をめくりあげ、身体のあらゆるところに冷たい機械をあてられる。手早く特定箇所に機器を当てるこの担当女医に、私の乳と腹はどう見られているのだろうかと不安に思いながらも、被験者の矜持があるので微動だにしない。
女医は医師として無数の乳房を見てきたのだろう。品評するだろうか。乳首の形と色とがさまざまであることを誰よりも知っているだろう女医は、乳房というものをどう捉えているのだろうか。そんなことを考えているうちに検査が終わり、次の部屋への移動を促されてそれに従う。結果、私の脈は不正で、疾患を疑われるほどの異常値を叩き出していたのだった。乳房の優劣のことを考えていたせいだろうかと一瞬よぎったが、専門機関で精密検査を受けるまではその真偽はわからない。検査で異常を確認するのがなんとなく億劫で、病院にはまだ行っていない。
父も、心臓をやって死んだ。あの人の場合は、糖尿病を患って、酒も煙草も大いにやったあげく脳もだめにしていたから、死因は心臓とは断言できない。私も父と同じく酒と煙草をやるが、酒については父のおそらく倍量以上を煽りつつも、煙草の量は吸わない人間と大差ない程度だ。それでも、身体的遺伝とは怖いものである。
顔のつくりはまったく似なかった。美男の色男であった父の美醜の感覚で「ブス」と面と向かって蔑まれる程度には可愛くない容姿に生まれついたにもかかわらず、疾病だけは執念深く遺伝するのだから面白くない。
父から引き継いだ心臓の弱さによって死ぬことで、父をもう一度殺したい。父が容姿の醜さを笑って娘の自尊心をずたぼろにした結果が私の孤独死であると、見せつけてその心のなさを責めてやりたい。
病気を糧に親を責めたい気持ちがむくむくと湧く。とはいえ、父はそのだらしなさがゆえに数年前にとっくに死んでいて、たとえ私が父の遺伝のせいで若くして死んだところで彼にはもはや何のダメージもないのだった。一人相撲の、この徒労感。私と父は、生きていても死んでいても、どのみち交わらないのだった。
おのれの死を父に見せつけて父の未熟さを思い知らせたい、などと馬鹿げたことを妄想して鼻で笑う。くだらない未練だと思いつつ、これがあの男の心臓なのだと思うと、死んで地獄でやりあおうかという気にもなるのだった。お前の心臓を受け継いで死んで、お前と殴り合ってやろうかと。
そんなことを考えるということは、おそらく、私は今になってようやく父を愛しているのだった。彼が死ぬまで愛せなかった父を、死後になってから悪あがきのように愛しているのだから愚かなことこの上ない。
心臓の疾患を疑われた以外は、私の身体はほとんどがAの判定を受けていた。当然だ。一般的でない飲酒量とそれを切実に必要とする不眠以外、私に不摂生はなかった(まあ、それこそが致命的なのだが)。毎日、おびただしい量の野菜を摂取する異常な食生活。過剰な飲酒による酩酊と気絶がもたらす十分な暴力的睡眠。適度な運動。ノイローゼを呼ばない程度の仕事量。すべてを肯定してくれる友人たち。この世の誰よりも健康的な日々を送っている。心だけが異常に繊細で、激しい怒りや激しい悲しみのあまりストレスで生理が止まったりはするが、そういうことがあっても、女だなあと思うだけだった。
毎晩ワインを一本あけるほどの過分な飲酒にもかかわらず、肝臓の数値は良好だった。煙草を吸うわりには血圧もヘモグロビン量も正しい。理想的な痩身を保っているわけではないが、BMIも適正値だった。
ただ、父親から受け継いだ心臓だけがだめになっていた。ばかな男。私をまともに愛さなかったくせに、形骸的に執着して、まさか引き連れていきたいのか? 否、そんな情は奴にはあるまい。母に対する恋情はずっとあった。倒れて理性を失ってからも、うわごとで母に「愛してます、結婚してください」と語り続けていた男だ。私の母と結婚する以前に二度結婚して子供を作って、その子供たちは父の死後に弔問に来て「父には可愛がってもらった」と思い出を口にしていた。私だけが、父の愛を知らない。
けれど私は、父親の愛を知らないからこそ未だに父に執着していて、父の本来の愛情深さを想像してはそれが自分に振り向けられなかったことを恨みながらも、愛情深い人間であった父を無碍にできないのだった。なぜか。心臓の疾患のみならず、その愛情深さも、私に遺伝しているのだろうか。わからない。なぜなのだろう。父の死後、その死をきっかけに私の知らなかった父の生を聞かされるたび、私は父に自分を投影してしまう。父の人生が私の人生であるように思えてしまう。私だけが一方的に父を愛しているのだった。
私の死因がもしあなたからの遺伝によるなら、いいよ。受け入れる。ほかのどの死因よりいいよ。あなたと同じ死に方をして、ようやく私は父親とのつながりを思い知ることができるんだ。ようやく愛されたと思えるんだ。
ずっと、「私を殺してくれる男」を待ち侘び続けてきた。
私をはるか凌駕している男。私の命がその手にかけられることに悦びを感じられるほどの男。圧倒的存在をずっと待っていて、十何年かけてずっと探して、ようやく見つかったと思ったらその男は私を深く愛してしまったので、私を殺すことなどとうていできなくなった。そりゃそうだよな。ふつう、愛する人には生きていてほしいものだ。
心臓のことが判明して、死因のことを考えて、ここに書いて、私が探していたのは「父」だったのだと、ようやく思い至った。「父」の不在が、私に「私を殺してくれる男」を探させた。
それがゆえに私の人生はこうなった。安定も安心も遠ざけて、苛烈な情念だけを頼りに猛獣のように世界に牙を向ける人生。けれど心の奥底には「父」を持てなかった少女がうずくまって泣いていて、父親にあたたかく抱きしめてほしいという感情をこらえている。あなたにあたたかく抱きしめてほしいという感情がずっとくすぶっている。父に抱きしめられたい。父に愛されたい。父を愛したい。大好きだと叫んで抱きしめたい。
どうしてそれが叶わなかったんだろう。男を使い捨てても使い捨てても満たされない理由をようやく自覚して、ぽかんとしている。埋める努力をしたところでどうしたって埋まることのない穴を、私はこれから先、どう扱えばいいんだろう。これまでについた不毛な傷を、どう見捨てればいいんだろう。
いつ、父親への執着が消えるのだろう。もうこれ以上苦しみたくないのに。
できるだけ早く心臓が破裂して、私が死んでしまえたらいいなと思う。父親のせいで狂ってしまった人生を、父親のせいで終わりにしたい。あなたの娘はあなたに愛されなかったせいで、彼女が決死の思いで築きあげた素晴らしく美しい人生をあっけなく台無しにして死にましたよ。死後の父にそう伝えて、後悔に苦しんでほしい。
そんな日は永遠に来ないことはわかっている。私は心臓の疾病を放置して、不整脈が起こるたびに父を呪う。父を愛する。父を憎む。酒を飲む。煙草を吸う。男を抱く。絶対に許さない。私を愛さなかったことを許さない。せめて私を早く殺してほしい。受け継いだ心臓の疾患で、私を殺してほしい。すでに不在となった者へのこの憎しみから、この愛情から、愛おしさから、執着から、苦しみから、もう逃れたい。逃してほしい。あなたを思うことから、逃してほしい。