【東浩紀×福尾匠】10年、20年先も批評家であり続けるために――批評の「これから」を語り尽くす
【対談後編】批評家とは何者か
東 浩紀
批評家・作家
福尾 匠
フランス現代思想、批評
批評家として旺盛な活動を展開しているお二人、東浩紀さんと福尾匠さんの対談を、「群像」2026年7月号より転載しお届けします。お二人は、それぞれの最新著作『平和と愚かさ』『置き配的』をお互いにどのように読んだのか。そして、それぞれが考える、批評家としての生き方とは。お楽しみください。(構成:長瀬海さん) (※転載にあたり一部表記を改めています)
⇒「【対談前編:東浩紀×福尾匠】いま、批評を新しい読者に届けるためには、なにが必要なのか? 批評の定義を問い直す」もあわせてぜひお読みください。
「置き配的」な世界をめぐって 東 福尾さんの『置き配的』の話に移ります。あの本で考えようとしているのは、簡単に言えば、発信者も受信者もみな共通の1つのプラットフォーム上にピン留めされている世界のことですよね。モノを「届ける」という行為が見えなくなり、ただそのモノが発送した事実や到着した事実だけが表示されて、それですべてが終わりとなる。そういうコミュニケーションが蔓延してしまった世界を福尾さんは問題にされているのだと思います。それは、ぼくの言い方に置き換えれば、時間が一つに収斂してしまった世界です。一つの大きな時計しかなく、みんながそこで「俺は今、発信したよ」「私は今、受信しました」ということだけを言っているわけです。
福尾匠『置き配的』
他方、ぼくが考えてきた「誤配」の条件は、郵便物が発送されたらそれを受け取るまでの経路が一時的に見えなくなることにありました。昔、推理小説では、盗んだモノを隠すときに一度、自分宛に発送するというトリックがあったんですよね。郵便的なコミュニケーションには、そうやってモノが世界から一回消える時間があった。表象文化論的な言葉でいえば、郵便は「現前的な世界」からモノを消すことができて、だからデリダが哲学批判のために郵便のイメージを使ったのだと思うんですよ。いずれにせよ、そういうふうに時間が複数的な世界で、プラットフォームがすべてを統一していないからこそ「誤配」は起こる。その意味で言うと、「置き配的」な世界は誤配が起こりえない世界だと理解しました。
福尾 そう言えると思います。ただ、『置き配的』な世界では「誤配」が起きにくくなるから問題だと考えると、どうしても人と会って直接話すことが大事なんだという素朴なコミュニケーションの話にしかならない気もしていて。プラットフォーム的な世界が非人間的でダメだから、人間的なコミュニケーションを回復しようという話はぼくにはどうもしっくりきません。その論理自体が罠ではないかという気もします。
だからこそ、ぼくは『置き配的』の後半で「疎」と「密」の話を書きました。SNSも「密」だし、人と人が向かい合って話すのも「密」だから、モノを見たり作ったりすることを介した疎なコミュニケーションが大事なのではないかと。そのモデルになりうるものとして、批評の二次性、つまり、何かを見て何かを書くという批評のあり方を提示しましたが、それはそういう批評が書かれて読まれることで、モノを媒介にした「疎」の公共性について考え直せるのではないかと思ったからです。
東 それはすごくいい指摘ですね。そもそも、昔はテレビを見ていてもみんなばらばらに見ていたわけで、お互いに感想を共有していたわけではなかった。つまり「疎」だったわけですよね。テレビといえば、いまではいわゆるプッシュ型メディアの典型で中央集権的な装置と考えられるわけですが、それでもSNSが普及する前は、少なくとも「テレビを見る」という行為自体は孤独な体験でありえていた。テレビは必ずしもお茶の間で家族で見るものではなく、一人でドラマやアニメを見て満足していたケースもあったわけで、それはだれとも感想を共有するものではなかったわけです。でもSNSの出現によってリアルタイムで感想を言い合う習慣が生まれ、テレビを見ることが非常に「密」なコミュニケーションになってしまいました。
そういう点で言えば、ぼくは最近始まったXの自動翻訳サービスは意外といいと感じています。言葉が翻訳されて外国の人に読まれることを意識すると、ハイコンテクストな話はできなくなる。つまり密なコミュニケーションは難しくなる。結果として「この写真どう思う?」みたいな内容の薄いことしか言えなくなるし、そっちのほうがバズることになる。それはXにもう一度「疎」なコミュニケーションが生まれることを意味していると思います。
福尾 みんなバーベキューの話しかしなくなりますからね。
東 むろん、それがいつまで続くかわかりません。というよりもすぐ終わるのでしょうが、とにかく自動翻訳というクッションが入ったことで、一時的にであれ、Twitter初期の頃のようなくだらない会話が優勢になったのはとてもよかった。SNSに限らず、仕組みを少し変えるだけで現在の社会でも「疎」なコミュニケーションを取り戻すことはできるはずです。
他方、大手出版社やメディアが抱える問題は、「密」な状態でいかに売るかしか考えていないところにあると思います。SNSで瞬間的に盛り上げ、Amazonで売り上げランキング上位を取り、その流れで一気にベストセラーになる。そのために初期にがーんと広告投資をして、インフルエンサーに宣伝してもらう。そんなことばかりやっていますが、そうやってしか本を売れないのはあまりに不健康です。ぼくはもう、とにかくそういう「密」な場からは距離を置きたい。感想はぽつんぽつんとしか出ないけど、ずるずると読まれ続ける。本はほんとうはそういうものであるべきです。
観客を育てること 東 いずれにせよ、『置き配的』の問題意識は共有できます。今のSNSではメッセージのやり取りではなく、メタデータの共有しかされなくなった。まったくその通りだし、これはきわめて具体的な話でもある。
たとえば、最近話題の辺野古沖で起きた抗議船転覆事故。高校生が亡くなった重大事故であるにもかかわらず関連団体や左派メディアが沈黙していることが批判されていますが、あそこで彼らが沈黙しているのは、まさに彼らがメタメッセージしか送受信できていないからでしょう。本当はまず事故に向き合い、謝罪して再発防止策を打ち出さなければならないのに、下手に謝罪すると自分たちの運動が批判されるというメタメッセージのほうに振り回され、動きが取れなくなっている。左派は置き配的な罠から逃れられなくなっているわけです。
では、そういう罠にどう抵抗すればいいか。ぼくとしては、一方に「誤配」や「訂正可能性」の話が理論としてあって、他方でその実践としてゲンロンがあるという答えになります。
福尾 今、「訂正可能性」の話が出たので少しぼくが気になっていたことを聞かせてください。東さんの本を読む限り、訂正は観客がするものだという話になっている。たとえば哲学史においては、読み手が過去に書かれた哲学を訂正することの連続で成り立ってきました。しかしそのときそこで起こっているのは、訂正する側の人間が訂正という行為を通して固有名を獲得するという事態だと思います。東さんがデリダを訂正することで哲学者としての「東浩紀」という固有名を獲得したように。だとしたら、訂正する側を哲学者として認めるのは誰なのでしょうか。観客なのか、さらに次の代に出てくる哲学者なのか。
東 それは観客が行うものだと思います。しかし、だからこそ、大事なのは観客を育てることだという話になる。
これもまたきわめて具体的な話です。たとえば、福尾さんの本ではぼくのデリダ関係の仕事が重視されていますが、じつは『存在論的、郵便的』(新潮社、1998)は消えてしまっていた可能性があったはずです。実際、千葉雅也さんなどを例外として学術界からほぼ言及されていなかったし、ゼロ年代の間はぼくはむしろサブカル論の人として有名だった。それをぼく自身がゲンロン起業前後あたりから積極的に言及し、新しい意味をつけ続けてきた。結果として、福尾さんたちの世代が話題にするようになり、その後は無視が難しくなってきた。無視できなくなるような環境を容赦なく作ってきたわけです。
それは言い換えれば、『存在論的、郵便的』の観客を育ててきたということですよね。今それがある程度芽吹いてきたのを感じています。だから観客を育てることと名前が残ることは、ぼくからするとたいへん近いことなんです。これは福尾さんへの実践的なアドバイスになりますが、福尾さんが今後もアカデミズムの外で生きていくとして、そういう生き方だと消える可能性がどうしても高くなる。アカデミズムの人間はじつに簡単に外側の人間を存在しないものとします。「昔いたよね、福尾」とか平気で言ってくる。ぼくなんか、何回「東は終わった」と言われたことか。
福尾 とてつもなくリアルな話ですね。でも、『非美学』に関しては出た瞬間からもうアカデミズムには無視されていた気もします。
東 そういう権力にどう抵抗するか。ぼくの場合であれば、いくら教授自身がぼくを無視したくても、指導学生がぼくを引用して博論を書いてきたら記述を削除するわけにはいかない。そういうかたちでアカデミズムを変えていくしかありませんね。
批評家の職業倫理 福尾 固有名が訂正されることの最終的なジャッジは観客に委ねざるをえないという議論はよくわかりましたし、実際にそうなのだと思います。ただ、それに甘えていいのかなという気持ちもあって。ぼく自身の関心はある意味とても限定的で、ものを書く人間の職業倫理のようなものにしか興味がないんです。『非美学』も『置き配的』も結局は他者論とプロフェッショナリズムの話ですし。
福尾匠『非美学』
たとえば『非美学』では「触発」と「自律」の両立という言葉で、哲学が自律しながらも他者から触発を受けることはいかにして可能なのかについて考えましたし、『置き配的』では「疎」という概念を使いながら、批評家にとって文章を書くことはどういう意味を持つのかをとらえ直しました。だから、最終的に全て観客に委ねられますよねとか、自分がコントロールできる範囲は限られていますよねということは、メタな認識としては正しいと思うのですが、ものを書く人間がそれを言ってはダメなのではとも思います。ただ、東さんがおっしゃったこともよくわかりますし、ずっと戸惑いのようなものが自分のなかにあるんですよね。
東 さきほどの話につながりますが、ぼくは要は、批評家や思想家であること、あるいは概念を作ることは、自分の文章が読まれるコンテクストを自分で作るということであると考えているんです。もしぼくが『存在論的、郵便的』を書いたあとにすぐ消えていたとしたら、あの本を将来誰かが発見したとしても、デリダについての変わった論文くらいにしか思わなかったかもしれない。でも、現状はそうなっていない。それは、ぼくのそこからさきの活動があるからです。ゲンロンでの実践などとつなげて読まれ、抽象的な議論が具体的に理解可能になっているわけです。
これはかなり不思議なことです。『存在論的、郵便的』には書かれていなかったことを、ぼくのその後の人生が付け加えているわけですから。あの文章の読まれ方を遡行的にあとから作り出していると言ってもいい。でも結局、批評家や思想家はそうやって生きていくしかないんだと思います。
また、ぼくは最近はこのあとは日本論を書くんだと言っているんですが、それはじつは『動物化するポストモダン』を復活させたいと考えているからです。ぼくの人生の中では、今あの本が少し浮いている。だから新しい意味を付与したいと思っている。日本論が出版されたらあの本の読み方も変わるはずです。ぼくはそういうことばかり考えているのですが、結局のところ、批評家の職業倫理とは何かという話はそれに尽きる気がします。だから、福尾さんであれば、『非美学』が単なるドゥルーズの本に見えないようにしなければならないというミッションがこれから待ち受けているのではないでしょうか。これからの活動によって、あの本の読解がもっと分厚くなり、アカデミズムよりも豊かな現実を作るものにしなければならない。
福尾 東さんにはすでにこれまでやってこられた実績があるので、とても具体的な実践のお話ですね。
東 批評家や思想家は、その後の活動によって、昔の本の読み方を遡行的に変えながら生きていくしかない。そういう点では、純文やエンタメを問わず、同じ物書きでも小説家とは全然違う種類の存在だと感じます。ぼくらの本が輝くのは、決して同時代ではなく、むしろ後年になってからかもしれない。というよりも、そういうものにしなければいけない。考えてみれば、同時代に100万部売れたような哲学書は後年あまり参照されないものです。当時はあまり理解されなかったけど、あとで考えてみればすごいと思わせるような本がほんとうの哲学書なんだと思います。むろん、これを素朴に取ると単なる負け犬肯定になるし、実際そう聞こえるかもしれないけど、事実として批評や思想の仕事の本質にはそういう決定的な「時代とのズレ」が宿っている。批評家や思想家にとって大事なことは、振り返ればすごいと思わせるように活動していくことではないでしょうか。
批評のアクチュアリティ 東 もう一つ批評とは何かに関する話をすると、今回『平和と愚かさ』でチェルノブイリやユーゴスラヴィアについて書いた理由のひとつに、東日本大震災のときに『福島第一原発観光地化計画』(ゲンロン、2013)で経験した失敗があります。あれはぼくのなかにとても深い傷を残しました。一言で要約すると、社会的に大きな事件が起きたときにストレートに反応するのは、やはり批評家がやることではないと思いました。批評にはどうしてもある種の暴力が伴いますが、それはあまりに近い距離だとひとを傷つけることがある。それはこちらの意図ではないと言っても、ハラスメントの言い訳にしかならない。
ぼくはそこから、チェルノブイリを通して福島の事故について語るようになった。でもそういう迂遠なかたちで文章を書くと、先ほども言ったように長い説明が必要になる。ただ、それもけっして悪いことばかりではなくて、そういう説明を書いていくと福島を考えていたときには気づかなかったことが浮かび上がるんですよね。遠くのものを一度通ることで、近くにあるがゆえに気にしなかったことが見えるようになる。『平和と愚かさ』もよその国の話をずっとしているように見えて、じつはずっと日本のことを書いているんです。批評とはそういう表現ができる文章です。
福尾 つまり、韓国や中国などの近い国と日本の関係をダイレクトに書いてしまうと政治的なポジショントークに巻き込まれざるをえない。だから、ある種のバッファを作るために一度ヨーロッパを経由しているというわけですか?
東 そうです。特にあの本の第1章ではユーゴスラヴィアやセルビアの話を書いていますが、当然そこには日本の戦後や歴史修正主義の問題を重ね合わせている。直接は書かないものの、読む人が読んだらわかる。最近ぼくはそういう書き方をしています。あまり指摘してくれる人はいませんが。
福尾 改めて驚かされるのが、そういう書き方を可能とするために東さんが「ゲンロン」という組織を作っていることです。ふつう左翼的な文脈で考えれば、組織を作る=政治的な運動体を形成するということになるはずですが、東さんの場合はその逆で、政治的になりすぎないために組織を作っています。その逆転がとても興味深いです。
東 ありがとうございます。ただ、それはゲンロンを作るときには全く考えていなかったことなんですよ。むしろ周りの環境の変化の結果、その逆転が起きてしまった。ゲンロンを作ってからの16年間で、大学もメディアも、ほかの言論空間がとにかく極端に政治的になってしまいました。周りを見渡せば、ポリコレとか戦争の話ばかりでしょう。
『平和と愚かさ』を出したあとにいろいろなメディアに呼ばれました。けれど、取材の初っ端から「アメリカがベネズエラを攻撃しましたが、それについてどう思われますか?」みたいな話を振られるんです。みんな、哲学的な議論を今の時代に結びつけないといけないと思い込んでいる。だからこそ、それとは逆のことをやっているゲンロンが光って見えるんだと思います。
福尾 確かにゲンロンは選挙特番のようなアクチュアルなこともやっていますが、世の中の流れと関係なく自分たちの関心事を追求した「遅い」コンテンツもある。複数のレイヤーを意識的に用意しているわけですね。
東 ぼくがずっと言い続けていることですが、アクチュアリティのなかにも複数の時間がなければいけません。ドゥルーズとかデリダとかやっている人は当然わかっているはずですが、あらゆる人間が一つの時間しか生きていないのは健全ではありません。社会で起きている一つの事件についてみんなで喋っていることはアクチュアルでもなんでもないんです。
ゲンロンではここ最近、様々な政党の支持者が乱入してくる選挙特番をやっていますが、なぜあれがアクチュアルかというと政治的決定をしろとか態度表明をしろとかそういう押し付けの場になっていないからなんです。みんなが自然と集まり、それぞれのリズムで話してくれる。無理に喋らせているわけではない。政治的であるとは本来、そういうことだと思います。
考えるための考えない時間 福尾 今の話も『平和と愚かさ』に書かれていたような平和ボケのポジティヴな効用をいかに意識的に摑むかということにつながりますね。ぼくは書評で「戦争のなかで人々は『今』の連打のなかに閉じ込められ、明日より先のことは考えられなくなる。それに対して平和においては、街に古い建物と新しい建物が共存しているように、時間の多層性が保存されている」と書きましたが、まさしく後者を実践されているんだと聞いていて思いました。
東 でも先ほども言いましたが、これはフランス現代思想ではむしろ理論的に言われていた話なんです。にもかかわらず、そういう思想を学んでいた人たちが一斉にハッシュタグで運動したりしている。ぼくからすると、あなたたちは何のために思想を勉強したのかと思ってしまいます。ハッシュタグなんて時間の貧しい均質化そのものじゃないですか。
福尾 それはそのとおりですね。ただ、ぼくとしては一つ気になることがあって。考えすぎると頭でっかちになり、時間が均質化してしまうという話はわかります。平和ボケによって、それぞれのペースや時間の多層性が守られるのもよく理解できます。しかし東さんがほんとうに大事にしているのは、たんに考えないことではなく、そのなかで新しく発生する思考なのではないかと思うんです。テーマパークに行き、自分の知らなかった現実と出会い、今まで考えていなかったことを考える。ぼくがお聞きしたいのは、この場合の、「考えすぎてダメ」な状態と、いい意味での「考える」をどう区別するのかということです。
東 簡単に言えば、よく考えるためには考えない時間が必要だということになるでしょうか。『平和と愚かさ』では最後に「客的 - 裏方的二重体」という話をしています。客の立場でぼーっとしている時間があるからこそ、裏方として力を発揮できる。休む時間、考えない時間がないと、人はどんどん神経症的になってしまう。そうなると新しい視点を受け入れる余裕も出てこない。だから、ぼくが言いたいのは、考えないことがいいんだというわけではもちろんなくて、むしろきちんと考えるためには考えない時間が必要なんだということなんですね。
東浩紀『平和と愚かさ』
子育てとしての労働 福尾 ぼくは『置き配的』で村上春樹の短編「眠り」を扱いました。東さんも『平和と愚かさ』で『ねじまき鳥クロニクル』を論じていますが、今の話はそこにつながると思うので少し説明させてください。ぼくは二つの作品はどちらも家庭という親密圏を題材にしたものだと思っています。夫婦は最も「密」な人間関係だと思われるけど、じつはそうじゃない。近くにいるからこそ「疎」の余地を残しておかないと、簡単にモラハラやDVなどが起きてしまう。専業主婦である主人公が眠れなくなる、というか、眠らなくてもよくなる「眠り」という短編も、妻に出て行かれた男がハルビンに時間旅行をし、過去に行われた暴力を目撃する『ねじまき鳥クロニクル』も、それが失敗した事例を書いた作品だと読むことができます。
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』〈第1部〉
『ねじまき鳥クロニクル』は最初に知らない女性から性的に誘惑する電話がかかってきますよね。最後にその女性がじつは妻だったことがわかるわけですが、つまり、主人公が放り込まれるメタフォリカルな探偵業務は、たんにセックスレスの問題だったという、ものすごくあっけない結末になっている。しかし、このあっけなさの重大さは顧みられてこなかった。主人公が井戸に潜るのも、たんに考えすぎな男の話なわけです。
東 なるほど。ちゃんとセックスできていればそもそも男は井戸に潜らなくてよかったのかもしれないと。
福尾 そうですね。一方で「眠り」では主人公の主婦が眠れなくなり、一晩中好き勝手できるわけだから、ある意味では『ねじまき鳥クロニクル』の主人公と同じように長い余暇を与えられたことになる。しかし、同じ状況でも、『ねじまき鳥クロニクル』の男性主人公は探偵的な業務が与えられて冒険に出られるのに、「眠り」の女性の場合はそうはならない。ぼくは村上春樹の作品をそのようなジェンダーギャップを描いたものとして読み直すことができるのではないかと思うんです。よく言われるようにたんに女性を理想化した男性中心的な物語を書いている作家ではないでしょう。
東 夫婦関係における「疎」のコントロールに失敗すると男は探偵になり、女は不眠症になる。
福尾 そう言えますね。ただ、ぼくはこれをたんに新しい村上春樹論として展開したいわけではなくて。『置き配的』でも最後に國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』と三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』に批判的に言及していますが、それは両者ともぼくには労働と余暇がはっきりと分かれている世界観を前提にしているように見えたからです。ぼくは村上春樹はその二元論自体が破綻している状況を書いていると思う。つまり、「眠り」の主人公は専業主婦だから一般的な意味での「労働」はしていない。そして彼女が余暇として夜から朝までの時間を与えられ、一晩中読書をしたら自己実現できるかというと、そういうわけではない。村上はそうした出口のなさを描いています。それに対して『ねじまき鳥クロニクル』の主人公は、出て行った妻についての観念的な思弁がそのまま労働として機能する。
ここでようやく「客的 - 裏方的二重体」の話に戻ってきますが、『平和と愚かさ』の、働いている間は考えて、働かずに観光している間は考えなくてもオーケーという二元論もはたしてどこまで有効なのかなとぼくは思ってしまうんです。現実問題として派遣労働やフリーランス、最近ではギグワーカーの人たちが増え、労働形態がどんどん変わっていくなかで、労働と余暇の対立がもはや維持できなくなったときに「客的 - 裏方的二重体」はどういう意味を持つのでしょうか。
東 村上春樹氏の読解、面白かったです。ぼくはいまそれに答える準備はできていないのですが、最後の福尾さんの疑問はよくわかりました。
ちょっとはぐらかしに聞こえてしまうかもしれないけど、ぼくの答えはシンプルです。あの本で「裏方」と表現しているとき念頭に置いていたのは、単なる労働の話ではなくて、じつは子育ての話なんですね。雇われて他人のために働くということではなく、他者の生存に責任をもってしまうような状況。ぼくは以前、ある番組で三宅さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』に言及して「働いていても本なんか読める、真に読めなくなるのは子どもができたときだ」と冗談めかして言ったことがあるんですが、けっこう真実だと思うんですね。働いても本を読めるひとは少なくないと思いますが、子どもを作ると明らかに活動が止まる。労働と余暇の関係が変化とか以前に、時間の主導権がまるっと奪われる。
本の最後で「客的 - 裏方的二重体」の議論を展開しながらリゾートの話をしていますが、子どもがいると博物館のような場所をめぐるのは大変なんですよ。特に子どもが小さいときはプール付きのリゾートのような場所がいいんです。子どもが文句を言わないし、子どもにご飯を作らなくてもいいし、とても楽なんです。
ぼくがショッピングモール論やリゾート論に取り組むようになったのは子どもができてからです。それまではなぜ世界にショッピングモールのような過剰に快適である意味「幼稚」な場所があるのかわからなかったけど、たいへんよく理解できるようになった。これがなければ人は生きていけないと気づいた。その瞬間に社会学者や政治学者が言ってきた政治的な公共圏の話が色褪せて見えるようになりました。
具体的に言えば、市民集会に出て政治参加をする? そのとき子どもはどうするんだ、と疑問が出てくるようになったわけです。彼らが市民的公共圏こそ大事だとか言えるのは、誰かが子どもの面倒を見てくれるからです。でもぼくたちはそうじゃない。誰かに子どもを預けて政治参加するようなことはもはやできない。ぼくが子育てしていたのは10年以上前の話ですから、今はもっと難しくなっていると思います。
福尾 なるほど。
東 ぼくの思考のベースには、幼い子どもを育てているときに感じたことを大切にしたいという思いがある。たとえば、意識の高い人は狭小住宅をかっこいいと思うし、ぼくもむかしはそう思ったのですが、子どもができるとそれはただ単に狭いだけの家になる。幼い子どもは動物と同じで、デザインや記号操作による空間感覚の変容なんて意味を持たない。狭ければぶつかる。暗ければ怖い。薄暗くておしゃれなお店も子どもは嫌がるのでファミレスが最高なんです。そういう感覚をぼくは忘れたくない。
だから『平和と愚かさ』の最後のエッセイも「娘はこの夏に成人した。ぼくの子育て期は名実ともに終わった。だからプールもひとりで入っているのだが、しかしその時期に得た洞察を失ってはいけないと思ってこの原稿を書いた」という文章で終えました。
ただ、今こんなふうに偉そうなことを言っていますが、実際はぼくなんかよりも妻のほうがよっぽど大変だったんです。しょせんはぼくも昭和生まれの男性で、妻に押し付けてしまった。今の世代では許されないことで、そうだからこそぼくのキャリアは子どもが幼かったときも切れないで続いている。そのことを隠さずに反省しつつ、それでも、子どもが幼かったときに考えたことを忘れてはならないと思っています。
責任と無責任 東 同じ「労働」でも雇われ労働と子育てでは責任の所在が大きく違う。その意味では、ぼくのいう「裏方」を理解してもらうためには、いわゆる雇用よりも中小企業を経営することのほうが近いと思います。経営者は、たとえ子どもがいなかったとしても、ある意味で親の立場になっている。
福尾 今のお話で納得できました。ぼくが國分さんや三宅さんの議論に疑問を持ったのは、今後、いやすでに、「時間給」という労働形態はどんどんなくなっているからです。時間給という枠組みがなくなることはマルクス主義的な理論が丸ごと使えなくなることを意味しているはずです。そうなると労働=疎外、余暇=自己実現という二項対立も意味をなさない。
現在の世の中では働くことをポジティヴにとらえることはとても難しいんですよね。労働はほどほどにして余暇に自己実現しようと言われても、スマホとSNSのせいで余暇がどこにあるのかわからない。労働はAIが発達しても続くだろうし、家事労働や子育てから逃れることはできない。そういうなかで働くことを前向きに考えるうえで、『平和と愚かさ』は非常に参考になると思いました。
「客的 - 裏方的二重体」は言い換えれば、職業の多様性の話だとぼくは考えています。ぼくは『ひとごと』(河出書房新社、2024)のなかで、それこそ村上春樹の短編のタイトルをもじった「一〇〇パーセントの無知の男の子と出会う可能性について」というエッセイを書きました。戦時と平時の違いを考えたエッセイですが、そこではパン屋と車の整備士の話を出しています。パン屋は店にやってきた車の整備士が酵母菌の仕組みを知らなくても怒らないし、車の整備士もパン屋がエンジンの仕組みを知らなくてもバカにしない。しかし戦争が始まるとみんなが戦争について考えなければならない。戦争のことを知らないとみんなに怒られる。つまり、平和な世の中というのは職業の多様性が保たれている世界のことなんですよね。
福尾匠『ひとごと』
東 分業とはそういうことですね。
福尾 それぞれ職業が違うし、専門性も違うことを互いにリスペクトし合えている世界だと思うんです。それを可能にする条件を概念化したものとして、「客的 - 裏方的二重体」はとらえられると思いました。
東 そうですね。その意味でも、現代社会のキツさをどう突破するかを考えるためには、労働より責任という言葉を中心に考えたほうがいいと思います。余暇をリゾートで過ごしているときにも、その空間を維持している責任者が必ずどこかにいる。それを忘れないこと。結局、平和な社会というのはそれぞれが責任を融通し、リスペクトしあっている世界のことです。働くというのは、本当はそういう相互依存の状態を維持することで、決してネガティヴなものではありません。
そして、ここで重要なのは、責任を分業するというのは、裏返せば、それぞれにとって「見えない世界」の存在を認めることだということです。たとえばエシカル消費という言葉があります。消費活動にも政治的な責任を問うような考えかたです。たとえば、あるアパレル企業が、人権が問題になっている地域で作られた綿を使い服を作っているとする。そのような商品は買わないべきだという運動ですが、しかしこれはどこまで拡大されるべきでしょうか。この考え方を一貫させようとすると、消費社会の原則が壊れてしまうとぼくは思う。むろん、そのようなとき生産者には責任がある。それを追求するのはよい。しかし消費者はそこで購買行動に責任を持つ必要はないはずです。購買行動はあくまでも商品と貨幣のあいだの交換です。市場における交換とは、そこで責任の連鎖を切り離し、それぞれにとって「見えない世界」をつくるためにある。
『平和と愚かさ』では「客的 - 裏方的二重体」の言い換えとして「消費者的 - 生産者的二重体」という言葉を提示しましたが、あれは「責任 - 無責任二重体」のことでもあります。ひとは、あるところでは責任を取る。そのかわりあるところでは無責任でいられる。そういう責任の相互依存の状態をみんなで維持することで初めて平和な社会は成立する。世界の全てに対して責任を要求するのは荒唐無稽です。他方でゼロ年代系の若い人々は、子どもでいよう、責任から逃れようといったことをいまだに言っている。それもよくありません。大事なのは責任を分かち持つことだというのが、ぼくの考えですね。
福尾 そこで気になるのは「いい客」とは何かということです。責任を負っている裏方に付け込んで、些細なことで無限の責任を取るよう要求してくるのは「悪い客」、つまりクレーマーですよね。ならば「いい客」であるとは裏方の責任の有限性を知っている人間だと思うのですが、それはどのようにして可能になるのでしょうか。
東 具体的な返答になってしまいますが、別のところで責任を負う裏方であれば、客の立場になったときにもクレーマーになりにくいと思います。裏方の気持ちが想像できる。子育てにしても、子どもを持つと様々なことに寛容になる。多少迷惑をかけられても、いろいろ事情があるのだろうと同情的になる。そういう寛容さも、子どもが大きくなると忘れてしまいがちなので、忘れないでおきたいと思っています。
これからの批評のために 福尾 今日は東さんの批評的な理論と実践について聞かせていただきましたが、最後にまたぼくたちの世代の話をさせてください。ぼくを含め、同世代の批評家や哲学者は今、オンラインレクチャーや個別のサブスクリプションを始めるひとが増えています。しかしそれだと離れ小島みたいなのがポツポツとできていくだけのような気がして、これでは早晩、全体益が飽和するぞという危機感があるんです。とはいえ、自分で会社を作るのも億劫だし。ぼくの性分としては一人で自由にやれるのがいいので、いまの状況は気楽だし、このペースで10年、20年続けられたらいいのですが、これだけでいいのかなとも思うんです。
東 福尾さんは今いくつでしたっけ?
福尾 33歳です。
東 それなら大丈夫ですよ。40代になってから真剣に考えるのでいいんじゃないでしょうか。そこからでもいろいろとスタートできる。あと7年のあいだに何を考えつくかわからない。
ぼくなんて、福尾さんぐらいの年齢の頃は、アカデミズムと商業出版にうんざりしていて、俺はこのままオタク的に引きこもって生きていくんだ、みたいに意地を張っていました。会社をつくるどころか、まだ子どももいなくて、日々ゲームをやったりミステリーやSFを読んだりして学生のように生きていた。あとはブログとかやっていた。けれどもいまはその経験が糧になっている。ふしぎなもんですが、いずれにせよ、そんなぼくに比べたら今の福尾さんはずいぶんときちんとしていると思います。
福尾 ありがとうございます。今日お話を聞いていて改めて気づかされたのは、「誤配」という概念は偶然を待つしかないという考えのように見えますが、実際には東さんは偶然が来る場所をみずから作ってきたんだということでした。それがすごく面白いです。
東 偶然を待つしかないというのは、むしろ浅田彰さんの考え方ですね。浅田さんは「投瓶通信」という言葉を使いますが、自分が書きたいことを書き、誰か受け取り手が現れればいい、現れなかったらそれでいいじゃんという考えです。ある意味で受動的な考え方です。でもぼくはそれを批判するために「誤配」という言葉をもってきているので、最初から能動的です。この違いが明らかになったのが1999年に『批評空間』で開かれたシンポジウム「いま批評の場所はどこにあるのか」で、あそこでぼくはまさに浅田さんに批判されているのですが、彼は「投瓶通信」と「誤配」の違いを最後までわかってくれなかった。ぼくはあのとき、『批評空間』は昔からの読者しか読んでいないからダメだ、もっといろいろな人が読むようにしなければならないと言っていて、そこはいまのゲンロンまで一貫しています。
福尾 その「同じこと」も遡行的に今、見出されているわけですね。
東 そうですね。はじめのほうで言いましたが、『批評空間』的なポストモダニズム以降、批評は極めてテクニカルでマニアックなものになってしまった。批評はもう一度、生きるとは何か、幸せとは何かという根底的な問いに向かっていくべきだと思います。そもそも批評とは哲学ではない。海外の現代思想の最新動向なんて追いかけても仕方ない。批評は文芸評論から始まったわけで、文学とはなんだろう、生きるとはどういうことなんだろう、この主人公はぼくたちに何を与えてくれるんだろうということを考えて始まったはずです。今はみんなそういう根底的な問いにストレートに向き合っていない。批評は素直さをもう一度取り戻したほうがいい。
福尾 ぼくは批評とはラディカルな好奇心を愚直に体現できるものだと思うんです。東さんはデリダ研究から出発して今は会社を経営していますが、それは自分が考えたいことを突き詰めているうちにいつの間にかそちらに転がっていったわけですよね。そういうことが起きるのがぼくは批評のもっとも面白いところだと思っています。
ぼくなりにそういうことができるように、ものを作って観客も作っていかないといけないなと今日改めて思いました。それが自分の好奇心を刺激してくれたものに対する責任の取り方なんだと思います。そのためには外からものを「評する」ような文章だけ書いていてもしょうがなくて、自分が好奇心にどんどん転がされていくのをしっかり見せていかなくてはならない。そのなかで新しい概念を作ったりすることがこれからの批評に求められることなのかなと思います。
東 よく小説は何でも書けるといいますが、それでも小説は小説とみなされる形式の文章で書かれなければなりません。少なくとも文章でなくてはいけない。しかし批評は本当になんでもいい。文章である必要もない。会社経営が批評だとさえ言えてしまう。批評は未定義の言葉だからなんでもできるんです。そういう意味では批評は恐ろしく自由なので、福尾さんの今の言葉を借りれば、どんどん「転がっていく」べきです。
ただ、その反面、批評はジャンルとしての根拠に乏しいので、軸を失うとマイナーな世界に突入し、単なる「頭がいい」競争に堕してしまう可能性があります。だから、自分のなかの軸として、人間にとって生きるとは何か、なぜぼくたちは文章を書くのか、この世界で幸せに生きるにはどうしたらいいのかといった、根底的な問題意識を持っておいたほうがいいと思うのです。
(2026年4月15日、講談社にて収録。構成:長瀬海さん)
~ 書籍情報 ~
東浩紀『平和と愚かさ』
東浩紀『平和と愚かさ』 ぼくたちは政治について語りすぎている。そのせいで平和から遠ざかっている。 ウクライナ、中国、ユーゴスラヴィア、ベトナム、そしてアメリカ……。戦争の記憶をめぐり、平和について考えた哲学紀行文集。ひとは政治の時代をいかに抜け出せるか。『動物化するポストモダン』の著者による、「考えないこと」からの平和論。
福尾匠『置き配的』
福尾匠『置き配的』 コロナ禍以降、社会は置き配的なものとなった―― 「紀伊國屋じんぶん大賞2025 読者と選ぶ人文書ベスト30」の1位に輝いた気鋭の批評家が放つ最初にして最高の2020年代社会批評! 酷薄な現代を生き抜くための必読書!












