液晶に投影するとき液晶の向こうの人物はこちらを見ていない
最近読んだ小説『かわうそ堀怪談見習い』(著:柴崎友香)の感想のようなものです。
私は普段そんなに怪談話に触れないので(怖いものは避けがち)、怪談のことはよく分からないのですが、本作は恋愛小説家から怪談作家へ転身しようと思い立った小説家の主人公が、取材していく日常生活の中で不思議な出来事が起こり・・・というような感じで話が進んでいきます。
タイトルに怪談という単語がありますが、ギャーってなるような直接怖さを感じるような出来事というより、現実であったらちょっと不可解で怖いかもというようなのが少しずつ身の回りで起こっていく感じです。(さっき色々見てたら柴崎さんは夏目漱石の『草枕』が好きなのだそうで、そういえばなんか文章から感じるリアリティががちょっと『草枕』に近しいような気もしました。)
個人的に最も印象的だったのが、電車に乗っている主人公はある光が見え、その光は自分以外の乗客は誰にも気が付いておらず、自分にしか見えていないことに気が付き、
(p.108/ l.11) むしろ、わたしなんてここに存在しない、という証明なんじゃないか。そんな考えが頭をよぎる。こっちを見ているのは、中吊り広告のグラビアアイドルだけだった。
怪談話のネタ取材のために、幽霊が私を見ているんですという人の話を聴いた後に、私は誰からも見られていないという予感を抱いたのがもう精神的にグロすぎて私はここでちょっと病みました(描写としては全くそういう要素ないんですが、個人的に「自分が実在しないことにされる」ってめちゃくちゃグロくないですか?)(?)
その一方で、作品全体の中で「まだ、こっちに来ないの?」と見えない女の声がしたり、テレビの向こう側の人、鏡の向こう側、みたいな感じで主人公の現実ともう一つどこか別の場所があることを想起させていて、中づり広告のグラビアアイドルがこっちを見ているという部分、初めて読んだときは「現実は誰も私のことを見ないが2次元は俺を見ているつまり虚無…」と思っていたのですが、実は誰かが見ているという(直接的に見ている、ということではなく何かしら別の形で見ている)ことを示唆しているのかなぁと思いました。
私が最近ぼんやり思っていることなのですが、もしかして「見ること」というのはひとつの「救い」なのではないかと思っていて(それが誰にとっての救いなのかは分からないんですが)、まぁそれについてはまたいずれどこかで書こう・・・と思います。(そういって書いたためしがない)