物語の主人公と重なる自分が好きだ。「自分だけじゃない」という感覚は、安全圏にいるようでなんだかほっとする。音楽においても同様で、「これは自分の歌だ」そう解した瞬間、私たちは救われたような気分になる。だから救いとしての音楽は高い中毒性を持つのだろう。
青森県むつ市在住の秋田ひろむを中心としたバンド。たったこれだけのバイオグラフィーはほとんど何も物語ってはくれないが、首を吊ったてるてる坊主が不気味な微笑を浮かべるファーストアルバム『0.6』のジャケットから滲み出る異質感は並々ではない。センセーショナルと言ってしまえばそれまでではあるが、「光、再考」という希望の歌を1曲目に持ってくるところに、このバンドの本質を見るような気がするのだ。
絞り出すような声と切なげなアコースティックギターのサウンドは異常なまでの情報量を脳内に染み渡らせていく。辛辣かつ鮮やかに響く言葉数の多さは、情景をディティールまで描き出すのに十分すぎるし、日々の色々を許すかのように溶けていくピアノはどこまでも美しい。今まで思ったことはあっても、決して口にはしなかったような鋭利な感情が、シンプルなメロディに乗せて突き刺さる。呼吸が苦しくなってしまうほどだ。それでいて結論は〈今君は日陰の中にいるだけ〉(“光、再考”)〈生きていてもいいですか〉(“ムカデ”)といった「それでも」に集約されるのだから、どうしたって涙が零れてしまう。絶望に差し込む光は、どんなに細くても強烈なのである。
amazarashiのアルバムには常に圧倒的な存在感を放つトラックが収録されている。ポエトリーリーディングである。今作に収められている「よだかの星」は、宮沢賢治著である同名小説の部分引用が朗読される。〈僕はもう虫を食べないで飢えて死のう〉心なしか早い語り口が、鼓動を忙しなくさせる。秋田ひろむがよだかなのではないか、と考えるのに、そう時間はかからない。ひりひりするような歌詞世界に生きる「僕」という一人称はいつだって、秋田ひろむ自身なのだ。
そんなamazarashiはその後大きな変化を遂げる。2013年7月に発表された7枚目となる前作『あんたへ』。タイトルだけで明白なように、秋田ひろむは自分ではなく誰かのために歌を歌っている。今まで孤独で戦ってきた彼の中に、他者という存在が色濃く浮かび上がっているのだ。
きっと私たちは、秋田ひろむが歌う彼自身に自分を重ね合わせたからamazarashiを好んだのではない。これは自分のために歌われた歌だという過剰なまでの自意識があったのではないだろうか。どんなに劣等感に埋もれたって、私たちは自分を愛したいのだ。それはちょうど、秋田ひろむが何年も自分の歌を歌い続けたのと同じように。
きれいごとなんて白けるだけだ。お涙ちょうだいのTV番組や映画なんて観たくないし、男女の別れ話で「おまえの幸せを願って」だなんて聞きたくない。このアルバムにきれいごとは皆無だ。自分で認めたくなかった醜い心が、ぎゅうっと詰め込まれている。
amazarashiは青森県で結成された、秋田ひろむを中心としたオルタナティブロックバンド。今作は、初の全国流通盤である。歌は正直上手くはない。しかし心の全てを吐き出す歌詞と、ギターとピアノがメインとなった受け入れやすいメロディに似合っている。この粗さが、想いを伝えたいという彼らの熱となって感じられたのだ。
M-5“少年少女”では、不覚にも涙がこぼれそうになる。優しいドラムに朗読を乗せて始まるこの一曲。少年少女だったあの頃は、何も考えずにただ遊んで過ごしていただけだったのに、いつからこんなにいろんな思いを抱えて生きていくようになったのか。〈どうせ明日が続くなら/思い出なんていらないよ〉。あの頃に戻りたいと思ってもそれは当然できなくて、思い出にすがることなく生きていかなくちゃいけないんだと言い聞かせる。大丈夫、数年後には笑っているよ、大丈夫だよと、と登場する女の子に声をかけてあげたかった。こういった種類の悩みを抱える年代を、私はいつの間にか通り過ぎてしまったのかと、少し寂しい気持ちにもなったが、コーラスからの沸き立つようなメロディは、私の代わりに彼女に声をかけることになったのではないかと思う。
そして収録されているどの曲にも、最後一筋の光が差し込む。マイナーコードからの転調、美しいピアノやアコギの優しい音色。生きていていいですか?と、苦しいことは山ほどあるけど、やっぱり生きていたいという本音。このたった一筋の光でふっと心が軽くなり、私たちを暗闇から救い出してくれる。
今後ミュージックシーンに革命でも起きない限り、amazarashiの音楽がオリコン上位に食い込むことは難しそうである。現在オリコンに名を連ねるグループのようなポップさ微塵も感じられない。しかし今を生きている私たちの中に、きれいごとは一切無い、この嘘をつかない音楽に救われ、慰められている人がいることは間違いない。中二病だって嘲笑する?こんな音楽に心揺さぶられるなんてカッコわるいと強がっているだけなんじゃないかい。一度でいい聴いてみて、無理矢理自分の気持ちを押し込めている圧縮袋にちょっと針で穴でも開けて、もしかしたら泣いてみてもいいんじゃないかと思うのだ。
初期衝動なんて、とっくに首吊って死んでんだよ。『0.6』は2010年インディーズ期にリリースされた、amazarashiにとって初の全国流通版である。だが今作からは、数多のロック・バンドたちが己の初期の作品に無心で宿した、痛々しいほどの純真な青さや、知識も手段も持たぬからこそ鳴らすことのできた、所謂「初期衝動」と言われるような類の無敵感は微塵もない。“つじつま合わせに生まれた僕等”と歌うこのアルバムを、こびりつくように覆い尽くしているのは挫折や敗北である。かつてインタビューで、己の音楽の原動力を「世界への復讐のつもりだった」と明かしているように、今作は現実を生きていく上で否応なく突きつけられる、己の無力と無価値を前提とした音楽だ。だから今作は、復讐劇のプロローグ。再起衝動の結晶だ。
amazarashiは秋田ひろむ(vo)を中心に、2007年に青森県で結成された結成されたバンドである。彼らの特徴は、昨今の邦楽ギター・ロック・シーンの大流行とは真っ向から反抗する、魂込めて腹から張り上げるような秋田の歌唱。さらにそこで歌われる、言葉数の多いアイロニカルでニヒリスティックに、社会の不条理や理不尽を暴く歌詞である。そしてこれらを最大限有効に聴かせるための装置が、彼らのJ-POP調と言ってなんら差支えない、非常にシンプルな曲構成である。複雑さは皆無。聴き手が曲よりも、メロディを追いながら自然にその歌と歌詞を聴くように設計されている。
だがヴォーカルを全面的にフューチャーするのはJ-POPの元来的な姿勢と言えるが、シンプルな曲構成とは裏腹に、amazarashiの音楽は排他的だ。今作冒頭曲で、〈神様なんてとうの昔に阿佐ヶ谷のボロアパートで首吊った〉(“光、再考”)と、道徳なんてものが既に消失してしまっていることを告発する。彼らの音楽はどんなに絶望を歌おうと、聴き終わる頃にはその突き詰めた真実と虚無の中に、必ず確かな光芒を見出せる。だがそれでも、余りにも自閉的に完結された世界観のその楽曲は、容易に聴き手を選別する。しかしそのアンビヴァレンスさこそが、彼らの音楽を無二のものとしているのである。そしてメインストリームの人間が、見て見ぬふりをする真実を背くことなく表現する態度は、正しく本来あるべき姿のオルタナティブだ。
彼らは今作を最後に活躍の場をメジャーに移し、徐々にポピュラリティを獲得していった。そして歌われる内容も、徐々に明るく外に開けたものになっていく。その過程で、彼らの完膚無きまでに切実で誠実な歌たちは、少しも大袈裟じゃなく多くの人を救ってきた。そう、人知れず始めた秋田の独善的な復讐は、毎年多くの自殺者を生んでいるこの国で、決して上手には生きれない人たちの心の真芯を捉えてきたのである。これが、救済前夜。
“光、再考(0.6ver)”https://www.youtube.com/watch?v=nfKAEsvvZFo
“つじつま合わせに生まれた僕等”https://www.youtube.com/watch?v=B9i1x_m27Xg