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@nanashisystem
Laisse les rideaux de la fenêtre légèrement ouverts, Je veux regarder la lune, sur la mer découverte.
Tu m'as donné du muguet, du muguet tout blanc, Laisse les rideaux ouverts, je veux voir la lune toute blanche.
Les rideaux blancs sont éclairés par la nuit lunaire, Ils oscillent doucement, en bleu pâle, c'est clair.
Alors, emmène-moi doucement vers la lune, Je veux être enveloppée dans tes bras doux, comme une plume.
I like lying on this rooftop spot. It’s the only calm I’ve ever got. The city’s way too bright at night. That’s why I can’t see the stars. Tokyo at 2 a.m., behind the fence.
Buy the usual soda can. City drowns the fizzy scan. Metal click, a hiss too small. Even I don’t hear it fall. But I know it did.
I like lying on this rooftop spot. It’s the only calm I’ve ever got. The city’s way too bright at night. That’s why I can’t see the stars. Tokyo at 2 a.m., behind the fence.
Like soda fizz, my words rise and fade. No meaning’s held, no echo’s made.
I like lying on this rooftop spot. It’s the only calm I’ve ever got. The city’s way too bright at night. That’s why I can’t see the stars. Tokyo at 2 a.m., behind the fence.
Buy the usual soda can. City drowns the fizzy scan. Metal click, a hiss too small. Even I don’t hear it fall. But I know it did. It must be a sound no one can hear.
I won’t be worn down any further I’ve already said everything
Nothing reached anyone Nothing was mine to hold
If this is what I am— can this still be called anything?
Everything was wrong and nothing was wrong
Nothing reached anyone Nothing was mine to hold
If this is what I am— can this still be called anything?
All I saw was the landscape of loneliness
A distant, yet close landscape— that’s all I saw
If this is what I am— can this still be called anything?
アイデンティティ
identityとはそもそも何であろうか。それは経験的に集積された自己自身のデータ庫であるが、同時にそれは世界に対する認識行動のしかたを規定するものである(自己と世界は相関している!)。世界に対して正確な距離測定を行うためには、豊富、自覚的なidentityがあるとつごうがよい。ここに相互的な機能連関が生ずる。(つまりここではidentityという言葉をかなり広く、内容も形式構造もひっくるめたものとして用いる。前節で用いた自我図式ないし『自我仮設』というのと同視してよい。)
『ファントム空間論』 安永浩 金剛出版
相関しているのかぁ。
φ
他者→φ
このφが与えるのは、「それはあなたの考えである」という隠れたメッセージである。つまり考えが私に所属していることが認められ、ここではじめて意味が与え返されることになる。そしてさらに、「考えているのはあなたである」というメッセージが与えられる。それによって、私は思考している主体であると承認されることになる。
思考に限らず、あまねくわれわれの経験には、その経験が私に所属し、そして私がその経験の主体であることが、ひそかに含意されていなければならない。しかもそのことは自らが与えることはできない。それは外から、他者から到来する。
このようにして、われわれは先行しているはずの事象を自分の経験として取り戻すのである。しかしまだ、遅れは完全に取り戻せたわけではない。私から思考が発動し、それが私に与え返されるまでの間、ぞっとするような深淵が口を開けている。
『パンセ・スキゾフレニック 統合失調症の精神病理』 内海健 弘文堂
くぱぁ。
分裂病と人類
私は一方では、分裂病になる可能性は全人類が持っているであろうと仮定し、他方では、その重い失調状態ならば軽うつ状態をはじめ、心気症などいろいろありうると思う。
分裂病親和性を、木村敏が人間学的に「ante festum(祭りの前=先取り)的な構えの卓越」と包括的に捉えたことは私の立場からしてもプレグナントな捉え方である、別に私は「兆候空間優位性」と「統合指向性」を抽出し、「もっとも遠くもっともかすかな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその自体が現前するごとく恐怖し憧憬する」と述べた(兆候が局所にとどまらず、一つの全体的な自体を表象するのが「統合指向性」である)。
『分裂病と人類』 中井久夫 東京大学出版会
パラディグマティック・シンタグマティック
人間はいつまたどこにおいても、たえず決断し《選択》しつつ生きてゆかねばならない存在である。外的空間における決断は《行動》として現われ、内的空間における選択は《経験》となって結果する。これらの決断や選択はその主たる相においてパラディグマティックかシンタグマティックかのいずれかである。つまり、一般に選択はある観点からみて何らかの点において相似であるものから相互排除的に一つを選ぶ(一般には収斂的、あるいは〝分析的〟な指向性のもとに選択する)パラディグマティックな選択か、複数の相補的因子を相依相待的に選択し一つの全体とする(一般には拡大的あるいは〝総合的〟な指向性のもとに選択する)シンタグマティックな選択か、のいずれかとなる。 むろん一つの事態は必ずしも一つの型の選択形式を予想しない。身近な例をあげれば、職業や配偶者の選択において、可能性のリストの中から一つをえらぶならば、それはすぐれてパラディグマティックな選択である。極端なものは写真だけで配偶者をえらぶ場合であろう。これに反して、自分の性格、能力、資力、志向などを考え合わせて選ぶならば、その選択はすぐれてシンタグマティックというべきであろう。 人間の生活史を選択と決断(と猶予)の連鎖とするならば、『自己』と『非自己』、『内面』と『外面』、『いい自分』と『わるい自分』、『表』と『裏』(土居)などの分割を生活のはじまりにおいてみられるところの、おそらくすぐれてシンタグマティックな選択とみることもできよう。 選択に際していずれの方式が優位となるかはある程度気質に規定される。これはきわめて基本的な世界認識、すなわち行動と経験のもっとも包括的な枠組や、個々の行動と経験において世界を切りとる、世界の『截断』の方式に至るものである。おそらく、分裂気質圏の人がすぐれてシンタグマティックな相のもとに、すなわち共可能的なcompossibleものの総体として世界をみ、そのように截断するのに対して循環気質圏の人はすぐれてパラディグマティックな相のもとに、すなわち何からの意味で競合する位置をめぐる相互排除性を前提とする相似的なものの総体として、世界の截断を行なうものである。このことは、それぞれの気質圏の人が陥る《〝選択困難embarras de choix〟の状況的構造》を想起すれば、直ちにあきらかであろう。《分裂気質圏の人においては、シンタグマティック》な世界がすべてそうであるように、《ただ一つの新しいものの侵入も世界全体を震撼させ、彼は世界全体を一連のシンタグマティックな選択をとおして再統合する努力を時を移さずしてみずからに課さなければならない》。これに反して《循環気質圏の人の選択困難》は、ほとんどいつも《世界の一部分をめぐっての相互排除に関する葛藤、すなわち共存困難なものの競合》である。 より正しくは、選択の指向性が気質によって規定されるのではなく、逆に生活史における選択と決断の連鎖、あるいはその結果としての行動と経験の連鎖における、多少とも定常的に優位な指向性によって気質を定義すべきなのであろう。 おそらく健康者は『生の戦略』にもとづいて、この双対(つい)的な選択指向性を巧みに使いわけて時空の中を生きているのである。個々の心理的空間に現れる歪みや障害はそれ自身の中に起源をもつものでなく、それら個々の心理的空間を統合するもの──おそらくは過去と未来を現在の相において統合する『歴史的意識』といわれるものと深い関連があるであろうところの《あるもの》──の自由な活動がそこなわれている結果とみることが正鵠を得ているのかもしれない。 分裂気質圏の人にあっては、投影という、すぐれてパラディグマティックな過程も、すぐれてシンタグマティックな過程である構成とおなじく、この気質圏を規定する、〝統合指向性syntagmatotropism〟ともいうべき、より包括的な『生の戦略』の影響下にあり、それが分裂病圏の人の投影的心理空間に特有の陰翳を与えているのであろう
『精神医学重要文献シリーズ 統合失調症 2』 中井久夫 みすず書房 「統合失調症状態からの寛解過程」 22p
解離性障害
普段は離人的に何事もないかのように生活していても、しばしば突発的に劇場が噴出するパターンを繰り返す。このパターンは、どのような解離症状をもつ症例にでも、その経過において多かれ少なかれ認められる。
ヴァンデアハートらは、この二つの側面を「あたかも正常に見える人格部分」と「情動的な人格部分」と呼び直し、この二面性を心的外傷によって生じた解離性障害の基本形と考えたのである。
『解離する生命』 野間俊一 みすず書房
アンダースザイン
一、はじめに
アンダースザインの意識は周知の通り、ブランケンブルクの症例アンネに範例的に見られるものでもあり、この意識や内容の特有のニュアンスについてはもはや多くの説明を要しないであろう。しかし、日本の少なくとも筆者の経験した患者にみられるこの意識とアンネのそれとを比べてみると、ブランケンブルクの記載からみる限り若干のニュアンスの違いに気付く。例えばアンネでは「私には…がない」「足りない」「欠けている」という言い方が頻繁にみられる一方、われわれの患者では「他の人と違う」、「普通と違う」という言い方が目につく。アンネでは「欠如」の意識が、日本の患者では「差異」の意識が前傾にたっているように思われるのである。
二、患者の側でのアンダースザインの意識
「人と違う」とか「普通の人と違う」、「他の人と違う」などというごく短い言葉で訴えられるアンダースザインの意識は、もっぱら人との「差異」のみが強調され、いかなる点が違うのかという差異の内容についてはさしあたっては限定を与えられない。「どこか違うのか」と尋ねると患者は一様に口ごもる。このことからすると、この差異は単に一人一人の他者の属性と自己のそれとの比較から生じるような、ごく普通の、内容を備えた差異とは質的に異なるものであることが察せられる。患者のいう「人」「普通の人」「他の人」というのは、つまり特定の個人を指すわけでもなければ、個人の総和でもなく、さらにまた類型化された「平均人」の意味でもない。この「人」は、身体性と歴史性をもった「この人」(個別)ではなく、かといって種や類としての「人間」(普遍ないし特殊)でもなく、むしろハイデッカーのいう「誰でもないもの」(das Neutrum)としてのdas Manに近い。「人と違う」という患者の言表は、さしあたっては個々の他者と自分とをさまざまな点で比較した結果、患者が導き出した経験的・反省的判断ではなく、個々の他者との出会いに先だってそのつどすでに生じている持続的な意識の様態である。
*だとすると、「人と違う」というアンダースザインの意識は、「日常的現存在」の「存在態制」としてのdas Manへと自己を明け渡しえないこと、つまり「頽落しえないこと」を言い表しているに他ならないことになる。
『内省の構造 精神病理学的考察』 長井真里 岩波オンデマンドブックス
マリちゃん。
急性統合失調症状態
(1) 存在は完全に「世界」対「自己」に二分される。しかも同時に両者は総絵相対的に一つの「統合」(シンタグマ)を構成しないという背理性。
(2) 「世界」は 「意味するもの signifiant」の総体となる。
(3) これに対して「自己」は「意味されるもの signifié」となる。
かくて、ひとは”まなざされ””語りかけられ”るだけではなく、また、世界によって「読まれる」のである。世界または世界を代表するなにものかによって「読まれる」という基本的事象性がなければいかなる荒唐無稽な着想も、「統合失調症的妄想」ということはできないであろう。
(4) バルトの示すように、直示と伴示との関係は、次元の数はまちまちであるが、ヒエラルキー的な構成的関係にある。この階層秩序が崩壊し、この崩壊を前提として、マトゥセクがゲシュタルト心理学の用語を援用していうところの「本質特徴の優位」、すなわち記号学的にいえば「伴示の直示に対する優先」が起こる。ここで留意すべきは、 直示-伴示の階層秩序の崩壊をともなわない、単なる伴示の前景突出は「投影的心理空間」の優劣化ではあっても、統合失調症のこの段階を特徴づけるものではないという点である。健康者は内的(表象)空間においても、直示-伴示の階層秩序をある程度意志的に昇降する自由をもっている。
以上は急性統合失調症状態の知覚-認識的特徴の記号学的表示である。急性統合失調症状態がこのように、知覚-認識的構造として包括的に記述しやすいのは、安永浩のいうように、統合失調気質者においてはおそらく、もともと、その世界のよってたつ基底が、距離をおいた認識、しかも知覚親近的な認識にとっては、世界を把握し、実例を枚挙するために走査的に世界の中を”歩きまわら”なければならず、それゆえ実際に世界の中において行動しなければならない。
統合失調気質者における、この知覚-認識的な世界基盤は多少とも生育史的に成立したものである可能性がある。すなわち、かつて私がラッセルについてみたように、生育史の初期における彼らの、世界に対する無条件の信頼性(いわゆる”Basic trust”)の欠如を世界の可解性と整合性を措定して代償しようとする試みと関係があるかもしれない。
『精神医学重要文献シリーズ 統合失調症 2』 中井久夫 みすず書房
トラウマについての断想
記憶はそもそも五官ではなしえない「眼の前にないものに対する警告」として誕生した可能性がある。外傷性の記憶は特にそうである。その鮮明な静止的イメージは端的な警告札である。一般にイメージは言語より衡迫(しょうはく)が強く、一瞥してすべてを同時的に代表象representしうる。人間においてもっとも早く知られたフラッシュバックは覚醒剤使用者のそれである。そもそも幼時記憶も同じ性格を帯びており、基本的な生存のための智慧はそれによって与えられる。外傷性記憶が鮮明であるのに言語的な表現が困難であるのは、外傷という深く生命に根ざした記憶という面があってのことと思われる。「回避」はもっとも後まで残る症状とされるが、これは動物が主にそれによって行動するような言語以前の直観によるものであると私は思う。私がなぜ回避するかは、理屈はつけられるだろうが、実状は「いやーな感じ(あるいは恐怖のようなもの)がしてどうしても足が向かない」のが回避である。したがって心的外傷は、言語によって訴えても甲斐がない。犯罪被害者の遺族たちと会った時、異口同音に「私たちも被害に遭うまでは人ごとと思っていました」と語るのを聴かされた。
被害者は「有徴者the marked」である。疎外されがちである。この疎外はおそらく非有徴者たちの生存に有利なのであろう。
『日時計の影』 中井久夫 みすず書房
バケツを持つ子。
暴力雑記
仮に躁うつ病の代りに多重人格を置いて分裂病と対比しますと、分裂病には自分が唯一無二の単一人格でありつづけようとする悲壮なまでの努力がありありと認められます。何に措いても責任だけはわが身に引き受けようとする努力です。あるいは、人格のユニティ(単一・統一性)の維持を優先するか、コンクリフト(葛藤)の解消を優先させるかによって、ひろく精神障害を二つの系列に分けることができるかもしれません。
サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいう解離とは違います。むしろ、排除です。フロイトが「外へ放り投げる」という意味のVerwerfungという言葉で言わんとするものです。サリヴァンは「人間は意識と両立しないものを絶えずエネルギーを注いで排除しているが、排除するエネルギーがなくなると排除していたものがいっせいに意識の中に入ってくるのが急性統合失調症状態だ」と言っています。自我の統一を保つために排除している状態が彼の言う解離であり、これは生体の機能です。この生体の機能は免疫学における自己と非自己維持システムに非常に似ていて、一九九〇年代に免疫学が見つけたことを先取りしています。解離されているものとは免疫学の非自己に相当します。これを排除して人格の単一性(ユニティ)を守ろうとするのです。統合失調症は解体の危機をかけてでも一つの人格を守ろうとする悲壮なまでの努力です。統合失調症はあくまで一つの人格であろうとします。
最終講義 分裂病私見
戦争こそ、明確な言語化やイメージ化をせずに行動化される最たるものである。
近代の開戦理由を枚挙してみても、それが必要充分な理由であったことはかつてないのではないか。「なぜ、それが戦争になるのか」という反問に耐ええないものばかりであると私は思う。
不確実で、より小さな不利益の可能性のために、確実でより大きな損害を招く行為である。これは多くの犯罪と軌を一にしている。
戦争への引き返し不能点は具体的に感覚できるものである。太平洋戦争の始まる直前の重苦しさを私はまざまざと記憶しており、「もういっそ始まってほしい。今の状態には耐えられない。蛇の生殺しである」という感覚を私の周囲の人が持っていた。辰野隆のような仏文学者が開戦直後に「一言でいえばざまあみろということであります」と言ったのは、この感覚からの解放である。
イデアから行動への直結
行動化自体もまた、少なくともその最中は自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感、を与える力がある。行動というものには「一にして全」という性格がある。行動の最中には矛盾や葛藤に悩む暇がない。時代小説でも言い争いの段階では話は果てしなく行きつ戻りつするが、いったん双方の剣が抜き放たれると別のモードに移る。すべては単純明快となる。行動には能動感はもちろん、精神統一感、自己統一感、心身統一感、自己の単一感、唯一無二感がある。さらに、逆説的なことであるが、行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。
行動化の効用
例えば自分の手首を切るとか、中二階から飛び降りるとか、あるいは行きずりの人を殴るということがありますが、殴るという行為の瞬間は心身が人まとまりになるのです。乱暴する瞬間はいわば皮質下的な統一があるのですね。
自傷他害行為の背景ー自己感覚の薄さ
中井 うーん、それはまあ、宗教的にみんな聞いたとか、キリストの復活を何人もが見たとかね、昇天するのを。またファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというのも受肉するんですねぇ。
鷲田 受肉するっていうのは、憑くっていうか、残るってことですか。
中井 まあそれほどではなくてもね。マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。
「身体の多重性」をめぐる考察
『最終講義 分裂病私見』 中井久夫 みすず書房 93p
『徴候・記憶・外傷 』 中井久夫 みすず書房 141p
同上 309p
同上 311p
同上 363p
いじめの政治学
その快感は思いどおりにならないはずのものを思いどおりにするところにある。自己の中の葛藤は、これに直面する代わりに、より大きい権力を獲得してからにすればきっと解決しやすくなるだろう、いやその必要さえなくなるかもしれないと思いがちであり、さらなる権力の追求という形で先延べできる、このように無際限に追求してしまうということは、「これでよい」という満足点がないということであり、権力欲には真の満足がないことを示している。
非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。
差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。
もっとも、いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけたたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。鬼ごっこを取り上げてみよう。鬼がジャンケンか何かのルールに従って交替するのが普通の鬼ごっこである。もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。荷物を持ち合うにも、相互性があればよく、なければいじめである。
鬼ごっこでは、いじめ型になると面白くなくなるはずだが、その代わり増大するのは一部の者にとっては権力感である。多数の者にとっては犠牲者にならなくてよかったという安心感である。多くの者は権力側につくことのよさをそこで学ぶ。
子どもの社会は権力社会であるという側面を持つ。子どもは家族や社会の中で権力を持てないだけ、いっそう権力に飢えている。子どもが家族の中で権利を制限され、権力を振るわれていることが大きければ大きいほど、子どもの飢えは増大する。
いじめる側の子どもにかんする研究は少ない。彼らが研究に登場するのは、家族の中で暴力を振るわれている場合である。あるいは発言したくても発言権がなくて、無力感にさいなまれている場合である。たとえば、どれだけ多くの子どもが家庭にあって、父母あるいは嫁姑の確執に対して一言いいたくて、しかしいえなくて身悶えする思いでいることか。
そういう子どもが皆いじめ側になるわけではない。いじめられる側にまわるほうが多く、その結果、神経症になるほうが多いだろう。
『アリアドネからの糸』 中井久夫 みすず書房
「女」の覚書
女は性的なだけで、しかも完全に性的である。その性現象は肉体の全体に広がり、中には物理的な言い方をすれば、他の部分に比べて性現象の密度が非常に濃いところがいくつかある。女は性的な影響を受け、すべてのものに貫かれるー常に、そして肉体のすべての表面において。交接と通常呼ばれるものは、単に最も激しい特別な場合を指しているだけだ。
オットー・ヴァイニンガー『性と性格』
「受動的で刻印を受ける主体」
要するに女にとって、すべてのものが「父親」なのだ。女は母なる受容体そのものとして、あらゆるものに貫通されつつ子を孕むことができるというのだ。ヴァイニンガーは、女には実質的な存在論的一貫性といったものがないと主張する。女とは、男が自らの性現象を受け入れて失墜した結果として、形成された存在なのだ。その意味で女は「男の罪」であり、ラカン風に言い換えるならば「男の症状」なのである。ここでヴァイニンガーが述べていることは、「女は存在しない」というラカンのテーゼに驚くほど一致している。
ラカン派哲学者であるスラヴォイジジェクは、際どいところでヴァイニンガーの解釈に意義をつきつける。(「オットー・ヴァイニンガーもしくは『女は存在しない』」『快楽の転移』青土社、1996年)。なるほど、たしかにラカンもヴァイニンガーと同様に「女は存在しない」と断定するだろう。ここまでは同じだ。
しかし、ヴァイニンガーは、「存在しない女性」をそのまま対象化しようとした。言い換えるなら、女性という存在を、単に否定しただけに留まった。いっぽうラカンは「存在しない」ことこそが、唯一の主体の条件であるとしたのである。
まるで「なにもない」があるんだ、といった詭弁に聞こえるだろうか。しかし精神分析とは、そもそも、「ただ『ない』こと」と、「『ない』こと『ある』」ことを区別しなければはじまらない。
ラカンによれば、男と女は、相互に補完し合って全体を形成するようなふたつの種ではない。それぞれが<全体>であろうとして失敗した、ふたつの存在形式なのだ。そこには実質的な違いはほとんどない。「本来の性的快感の領域においては、男性経済は優れた快感たるファルスの器官を中心とする『目的論的』な方向に走り、女性経済は目的論的な中心原理の周りに形成される快感ではなく、散らばった網の目のような組織をした快感をもつ」(ジジェク)のだ。それゆえヴァイニンガーの諸説は逆さに読まなければならない。
『関係する女 所有する男』 斎藤環(講談社現代新書)