2026.1.5
年末からお正月にかけて、朝目覚めても起きれない、身体も重いし、何にも興味が湧かなくなって、どこにも出かけたくないのでずっと寝ているか家でごろごろとしていた。昨日あたりからようやくその重さが抜けてきて、こうして文章にすることにした。
新年らしく、今年の抱負とか、心機一転とか、今回は全然そんな気分ではなくて、なんだか地続きにぬるっと始まった2026年。初日の出を見に行ったり、お正月飾りを飾るくらいはしたけれど、その間もなんともいえない重さとそれをどうにもできない不機嫌をまとっていた。
軽い抑うつの状態で以前と違うのは、その状態がずっと続くわけではないことをわかっていること。それだけで、自分の状態をどこか客観的に見ている自分もいて、この波が抜けていくのを待っている感覚もあった。
それでも、世の中のお正月休みの浮かれたムードとあまりにもかけ離れた感覚に焦りもあって、完全に降参できているわけでもなかったけれど。
今は、割といい気分。
鬱のスイッチは、わからないけれど、年末の夫婦喧嘩かクラニオのセッション。セッションの時に、フリージングした身体が出てきたと言われ、この前の夫婦喧嘩の時の身体だと身に覚えがあった。
ポリヴェーガル理論の本を読んでいて、このフリージング状態を理解した。ネズミが猫に捕らえられたときに仮死状態になるように、自分ではどうしようもできない、抗えない状態、安心できない状態と判断して意図的に身体を動かせなくする。私たち人間が人間として進化する前の爬虫類的な神経系らしい。
喧嘩の次の日は、決まって鳩尾が固くなって痛くなったり、手足が氷のように冷たくなる理由がわかった。
これは、身体が自分を守るためにとってくれた愛おしい生存戦略だったのだ。
でも、私はもう大人で、自分その場を立ち去ることもできるし、変えようと思えば環境を変えることもできる。凍りつく必要はなくて、その代わりに、自分の意思をきちんと相手に伝えてコミュニケーションをとることができる。
何度も繰り返す夫婦喧嘩のたびに、同じパターンにはまっていることに気付き、自分の考え方を振り返る時間にもなった。
自分がそうであるように、相手もいつも同じ状態ではない。親に対しても、パートナーに対しても、この人は私を傷つけてきたから敵だ、安心できない、というふうにラベリングして、自分から孤立しようとしていたように思う。
関係を固定しない。責任や罪悪感を持たない。今、目の前にいるその人が全て。嫌なことはその場で嫌だという。関係は流動的。本当に即興でその場所、そこにいる人やもの、全ての流れを楽しむことの連続なのだと思う。そう思うと、明日は違う道にいるかもしれない目の前の人を大切にしたいと思った。
ヘビーな夫婦喧嘩をしても、お正月の間、ほとんどの家事とごはんを作ってくれたパートナーには感謝しかない。一人でいたいという私の意思も尊重してくれた。おかげで、子供の頃から長く持っていた自分の強い思考の癖に気づくことができた。
この関係性の課題と、もう一つは仕事に対する焦りも解決した!
これも長らく好きなことを仕事にしなくては、という呪詛により、早く学んでいることを形に、仕事に、と焦っていて定期的に苦しくなるということだった。
自分のやるべきことは、何も仕事でなくてもいい。仕事≠アイデンティティなのだ。生活のための今のレイバーは、自分の裁量でできるし教えるのも学ぶのも楽しいし、バイトと割り切っていたけど2年続けてみて人が変わっていくのを目の当たりにするのも楽しくて、これはこれでとても自分に合っていると思う。
もっと静かで自然豊かな場所を拠点にやりたい気持ちはあるから、そこで終わりではないけれど、今はその土台を作っているところ。それを目一杯やるぞ、と思えてそれも嬉しい。
書くことも、絵を描いたり、踊ったり、歌ったり、これらは私は自己統合のために行なっているんだと納得が行った。行なっている最中が心地よくなかったらなんの意味もないし、これが私なのであって、誰かに認めてもらうためにやるものでもないし、歴史の文脈で語られるためにやるものでもない。
もちろん承認欲求や人と何かをシェアする楽しさがあるから、こうしてもっと人目にも触れさせていきたいとも思う。それに何かになっていくには3年以上はかかるだろうから、何を今から焦ったり形にしようとしているんだとも思う。
気持ちよくなるために、生きてる。
推敲もせず、書いた。まずは生身で。ちょっと重たかったけど、ようやく踊りたい気持ちになってきた。











