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@riemiyake
最近の作品たち #craft #felt
苦手なもの
人生半世紀が過ぎ、いよいよ中盤を超えました。十分すぎるほど大人になって漸く分かったことの一つに、人の大勢いるところは苦手だということ。気付くのが遅いですね。
ここ2年間は新型コロナ感染を恐れ外出を控えていたのですが、つい数日前に友人主催の立食パーティーに参加してしまいました。油断してました。
いやあ、疲れたのなんのって、クッタクタになりましたよ。
一応大人なので、楽しく韓ドラ話に花を咲かせて場を盛り上げたりもしたんですよ。自分も好きなドラマのこと話しまくってそれなりに楽しんだんです。楽しいことは楽しいけど、家で一人で本読んだりドラマ見てる方が楽しいなって心の隅っこで小さくエコーしてるのが聞こえてくるんですよね。
なんでもっと楽しい方を選んで暮らせないのかなあ?って思っちゃうんですよ。人生の中盤を超えてから、より一層強く思ってしまうんですよ。
元々ボッチが大好きで旅も一人で行くのがデフォルトだったので、人から「一緒に旅行行こうよ」とか言われるとマジで引いていたような私。それでも、若い頃は「友達100人」に惑わされていたので、より多く友人がいた方が良い人生みたいに信じていた頃もありました。
しかし、老いと共に体力も低下した今、もう無理はしません。
多勢の人と交わる場は、私にとって体力気力両方を著しく消耗する場なのです。体力気力両方が充実していれば、自分自身を「楽しーい」と騙すことも可能でしょうが、50代の女にそんな余裕はありません。
今回の集まりも「お腹が…」とかなんとか言って早々に退場しました。
会議に関する覚書
早い話が愚痴です。
最近、職場で早急に解決すべき状況が発生し、連日会議が開かれている。喫緊で課題を処理しなければならない。時間も人員も限りがある中、対応に追われている。
課題は明確だ。何をすべきなのか、一つ一つ順序立てて整理することで次の段階に進めるのだ。簡単だ。そのための会議なのだ。
しかし、ダラダラ時間を費やして話すことといったら、みんなのお気持ちばかり。感想とかいらないから、対策を練ろうよ!頼むから!突然、数年後の話とか今するか?目前に危機が迫ってきてるのに、将来の夢とか語るか?
将来が危ぶまれるような状況を生じさせた原因も明白だ。その明白な原因を今追求する必要はない!ほぼ全員が分かっているのだから。
今やるべきことは、数日のうちに生じるであろう困難な状況をどのようにして回避するかの一点である。回避する方策はあるのだ。それを実践するための段取りを決めるのが、現在開かれている会議なのだ。
もう、こんなクソ会議で口を開くのも面倒臭いよ。軌道修正のためだけに参加しているよ。
資料とか準備してくるのもいいけど、必要な内容にしてくれ。
職場の人間関係と友情は分けて考えてくれ。
業務に関わる内容に個人的な感想を混ぜないでくれ。
関連があるかの如く違うトピックに飛ばないでくれ。
とにかく、会議では仕事の話をしてくれ。
あなたのお気持ちはどこか別の場所で吐露してくれ。
それと、私の意見は私が発言したものだけ。あなたたちの意見に勝手に私を組み込まないでほしい。主語は一人称でね!
#会議 #クソ会議 #meeting #conference #bull-shit meeting
息子が犬を飼い始めた
息子から子犬の動画が送られてきた。犬を飼うことにしたらしい。元気いっぱいの子犬だ。
正直、母は心配である。自分の面倒見るのもぎこちなく見える我が息子が、自分以外の命の世話をするのだ。確かに犬や猫のいる環境で育ったから、一人暮らしとはいえ、動物と暮らしたくなる気持ちはよーくわかる。今のアパートの大家が猫はダメだけど犬ならばと言う話なので、犬を飼うことにしたと。
息子よ、毎日散歩に行くんだぞ。君が子どもの頃は私やおばあちゃんがいたから、犬の散歩は時々気が向いた時にすれば良かったが、今回はそうは問屋が卸さない。
病気になったりしたら、病院にも行かなければならない。金もかかる。
餌代だって馬鹿にならない。
母はそんなリスクばっかり考えてしまうよ。
でも、君にそんなリスク優先で話はしない。まずは愛おしい存在が君のそばにいることを喜ぼう。一人暮らす君が心許す存在が出現したことを祝福したい。
どうか、君の子犬がすくすくと育ち、君と共に豊かな生活を送れることを母は祈ってます。
9月4日のこと
今日が特別な日って訳ではない。ただ9月になるとあれこれ思い出すことが多い。子どもの頃ならば夏休みが終わったと同時に夏も終わった感があった。2学期開始とともに運動会の練習が始まる。大嫌いだった。誰が始めたのか、そいつは絶対に子どもが嫌いだったのだろう。誰だか知らないが、私もお前のような奴は大嫌いだと思っていた。
22年前の今日は退院した日だ。妊娠初期の出血で近所の総合病院に緊急入院した。その病院も今はない。南アジア系の人が医療従事者として大勢働いていた。救急室から処置室へと移動する間に見た患者の多くは有色人種だった。明らかに酩酊状態という人がほとんど。止まらぬ血にテンパってた私に向かって小銭をくれと声をかけてくる。無視すると言うよりは返事する余裕が無かった。
結局、流産した。
あの時のことは時々思い出す。妊娠初期だったから、性別も分からない。全身麻酔で処置されて、目が覚めたら足元に黒人の看護師が二人いた。彼女たちは目覚めた私に気づかずに、ずっと最近買ったかばんの話に夢中だった。
病院から出てきたら、なんだか外が薄暗くて、もう秋なんだなって思ったことを覚えている。
今日もNetflix見てます9
相変わらず且つ安定の韓ドラ三昧の日々を過ごしている。そんな私がつい最近まで熱心に見ていたのが「私の解放日誌」
https://www.netflix.com/jp/title/81568411
既に3周もしてしまった。それぐらい気に入っている。
特に何が秀逸かというと、家族の食事シーンが素晴らしいと思うのだ。
決して家族団欒という雰囲気ではない。会話も少なめでとにかく必要な養分を摂取して次の労働に備えるのだという空気が強い。とにかく黙って飯を食えって感じなのだ。
にも関わらず、彼らの食べているものの美味しそうなことと言ったら、垂涎ものだ。あの空気の中で彼らと一緒に食事はしたくないけど、彼らの食べているものは私も食べたいと思う。
何故あんなに重い空気を纏いつつ、あんなにも美味そうにご飯を食べているのだろう?毎回食事シーンを見る度に演出の妙や俳優陣の技量にも驚かされた。このシーン撮るの奇跡じゃねえ?そう思った。
そう思ったら、一つ気付いた。彼らの食事があんなにも美味そうなのは、あの家族が一緒に食べているからなのだ。あの家族が揃ってこその旨い飯なのだ。お父さんが怒り出そうが、姉ちゃんが二の句も告げないような嫌味を言おうが、息子が駄々をこねようが、皆で一緒に食べることが重要なのだ。
美味そうな飯を重苦しい空気の中で食べることが大切なのだ。
特別なメニューがある訳でもない。多分変わり映えしない日常のおかずが食卓に並んでいることだろう。家族が黙々と箸を口に運び、そこにお母さんの小言が日常感をいや増す。
だから後半のお母さんがいなくなった家族の食事風景は心寒くなる程に味気なかった。
ただ、このドラマが精彩を放つのも、お母さんが急逝してからの展開にあると思う。それぞれの登場人物が「解放」へとどう結びついていくか。特に、お父さんと末娘の「解放」の過程が、現代を生きる普通の人々並びに未来を生きていく誰かへのメッセージになっていたと思う。
妻を亡くし半身不随になったお父さんは、自分の面倒を見てもらう為に再婚していた。しかし、お父さんは子どもたちに向かってこう言うのだ。「お前たちは結婚しなくていい」これは、亡き妻に向かって言った言葉でもあるのではないだろうか。お母さんは「お母さん」という役割から生きている間はずっと解き放たれなかった。死んでやっと解放されたのだ。生前のお母さんは自分のことを「飯炊き女」と言っていた。韓国だけではなく、世界中のお母さんたちの気持ちが代弁されているようだ。そんな女たちを認めることも助けることもできない男たちの不甲斐なさがお父さんの「結婚しなくていい」に込められていたように思うのだ。
もちろんお母さんに代表される女たちの口惜しさも忘れてはいけない。死と解放を等式で結んではいけないのだ。
死んで解放されるのではなく、生きているうちに解放されたいという末娘の願いが、紆余曲折を経た後の見返りを要求しない「愛する」という行為に至ったのは現代人の限界かと思うが、ドラマはそこで終わりという描き方ではなかったので、それも良かった。
登場人物たちは、決して完全なる「解放」に達した訳ではないが、縛り付けられることの理不尽さと、それに対する平凡な人たちの抵抗が描かれたいた。
最後に、私のお気に入り登場人物は、幸福推進室のカウンセラーの女性です。特にあの俳優さんの告白シーンは鳥肌モンでした。
#韓ドラ #私の解放日誌 #Korean Drama #Netflix #My Liberation Notes
昨日息子と話したこと
息子はニューヨークに住んでいる。
そんな彼にいつか日本で暮らしたいかと聞いてみた。
瞬殺で断られた。遊びに行くならいいけど住むのは嫌だと。
理由は明白だ。日本に暮らすと日本人であることを陰に日向に求められる。息子のようにアメリカ生まれアメリカ育ちでも容貌が日本人であれば、尚且つ日本語を話すことができればそれはもう日本人であるべきだと日本社会は要求してくる。
息子は言う。国とか人種とかで人を分けるのは愚かなことだと。また、外見だけで人を判断するのも馬鹿げていると。
しかし、日本で暮らしている時はみんな横並びで日本人らしく振る舞うことを大人も子どもも彼に要求した。
息子は言う。自分は日本人とかアメリカ人とかである前に俺だからと。小学校だけは日本で通ったが、今から思うとあの頃は随分と小さな世界で嫌な思いもさせられたと。
アメリカが、ニューヨークが、100%いいかと言うと決してそうではない。治安のことや未だなくならない人種差別のことなどを考えれば、暮らしやすい環境とは言い難い。
それでも、息子は人生のベースはニューヨークにしておきたいと話していた。
「ニューヨークに住んでいると世界の多様さを肌で感じて生きていられるんだよ。だから、いつでも視点を変えて物事を考えることが楽にできるんだ」
「いつか遠い宇宙のどこかの星から知的生命体がきて、その宇宙人と対峙することになれば、国とか宗教とか人種とかの違いなんかに拘ってる場合じゃなくなるのにね」
「ねえ、母ちゃん、そう思わない?」
空港で彼に行ってらっしゃいを言ってからもう10年経った。
彼がアメリカで過ごした10年は、日本を出発する時に思い描いていたものとは全然違ったものであったかもしれない。
それでも彼は彼の人生を着実に歩んできたのだと感じさせる会話だった。
#息子 #会話 #親子 #son #conversation #parent and child
今日もNetflix見てます8-2
映画「ロストドーター」について、一つだけすっごく良かったと思う点があるので、もう少し書きます。
それは、子育てのシーンです。
母親が機嫌よく子どもと接してるシーンもあれば、イライラして人形を窓から投げ捨てたり、子どもを部屋に閉じ込めてギャン泣きさせたりしたかと思えば、子どもが疲れ切った母親の頭叩いたり、今言うそれ的な要求ぶっ込んできて更に親の神経逆撫でしてきたりと、子育てあるある情景を何のジャッジメントも被せずに描いているところです。
もしも母性の絶対性をベースにしていたら、子育ては常に子ども目線で子どものためを思って自分を犠牲にして遂行されるべきものとして描かれることでしょう。
でもね、どこにそんな聖人然として母親がいると思ってるんだ?世間の大方の皆さんよ。そんなメッセージがそれぞれの子育てシーンから聞こえてくるようです。
そんなメッセージを具体的に書くならば次のようになるでしょうか。
何故にワンオペ育児で毎日疲弊させられ尚且つ女性も社会で活躍しろとか言われている昨今に、自分の要求だけを訴えてくる小さな人間を私一人が24時間7日世話しなきゃならないの?できる訳ないだろ?私も一人の人間なんですよ。
この映画が描く子育ての情景は良い悪いを抜きにした子育ての実情、世間の女たちが突きつけられた現実をよく表現していたと思います。
今日もNetflix見てます8
今回は「ロストドーター」見ました。
https://www.netflix.com/jp/title/81478910
いきなりストーリーとはあまり関係のないこと言います。主人公48歳の設定ですけど、50歳を優に超えてるかと思いましたよ。しかも、劇中で「もっと若く見える」みたいなこと言われてるんですけど、無理あるだろってちょっとビックリしました。雑な括りで言いますが、この映画見た極東アジア人のほとんどが主人公の年齢設定に違和感抱くのではないでしょうか。
では、ここから映画についての考察進めたいと思います。
まずは主人公についてです。
一言で言うと、「いい加減に目を覚ませ、おばさん」です。
現在は大学教授であり、一人でギリシャくんだりまでリゾートに来れる経済力もあり、娘たちとは他愛ない会話をする関係性も保っている48歳のおばさんが、いつまでも過去のこと引きずって、挙句の果てにはなんで他人の家庭にまで害及ぼすようなことしてんの?
母親が子どもを置いて3年間家を出て行ったから?でも戻ってきたんでしょ?
家にいなかった3年間でキャリアを積む基礎を築いてきたんでしょ?だから今は大学教授という職についているんだよね?
そして経済的にも余裕が出て、娘たちとも良好な関係保っているんでしょ?
映画には描かれていない親子関係や経済状況については想像の域を出ませんが、多分このような背景を想像しておけばまあまあ当たっているのではないでしょうか。
しかし、主人公の48歳おばさんは言います、「私には母性がない」と。
いいよ、おばさん。母性なんかなくたって子どもはちゃんと育ったでしょ?
そもそも母性って何?子どもを産んだ母親全てが持ち合わせなければならないものなの?
もういい加減そんなことで悩むのはやめにしましょうよ、ねえ、おばさん。
自分の過去に対して自責の念にかられ、その重圧から他人の子どもの人形を盗み、その子の若い母親のストレスフルな生活に更に加圧して、意味のない悪循環作り出すのは、マジでやめましょう。
そんなことしてないで、母性神話を打ち破るような自己肯定感を作り出すよう努力しては如何ですか?
母性などなくていいのです。
次に映画の中にある着目すべき問題点について考えてみます。
この映画の中での着目すべき問題は、母性という得体の知れないものに女性自身が拘泥させられている状況(公平に育児をしようと言いながら協力しない夫や育児にイライラしてしまう自分のこと)であり、またキャリアを積もうとしている若い女性を性的に搾取する状況(主人公が若い頃に不倫関係になった大学教授のおっさんのこと)であり、つまりは女性であることの生きづらさというものではないでしょうか。
だからこそ、主人公のおばさんにはもっと頑張ってもらいたかった。
もっと自由に、自分自身を肯定してもらいたかった。
私は何も悪くないと、自信を持って表明してもらいたかった。
きっと、娘たちは3年間疾走した母親をそこまで恨んでいないと思います。何故なら休暇中の母親に屈託なく日常会話の電話をしてくるのですから。
娘たちとは良好な関係が築けたのですから、休暇中に出会った若い女性にも女性ならではの呪縛から解放されるように何かアドバイスできなかったのでしょうか。
彼女の解放を促すどころか、変な圧かけて嫌がらせしてますね、このおばさん。
それは娘たちにはいいところ見せて、実はまだ自分では消化しきれていない後悔と自責のわだかまりを、赤の他人にぶつけているように見えます。
そんなことするから、彼女にキレられるんですよ。「私にもわからない」とか訳わかんないこと言って嫌がらせしてくんじゃんねえよ、クソババアです。
そして終わりの方のシーンで若い母親によって細長い髪留めを脇腹に刺されました。当然です。しかし大した怪我ではなかったようで、その後自分で車運転してました。
世の中の女性の皆さん、母性の欠如に囚われた中年女性に己の姿を投影して悩む必要など全くありませんから、安心してください。母性なんてものは最初からないのです。小さい子どもが好きか好きではないかぐらいの個人の好みでしかありません。そして、それは性別に関係ないのです。
それともう一つ。子どもが好きでなくても子育てはできます。だから子ども好きでなくても気に病まないでください。子どもではなく、小さい一人の人間として見ることができたら、好きになれるかも知れません。
子育てについての理想は、誰の子かなんて分け隔てることなく皆で育てることです。女性だけがワンオペ育児なんてしなくていいのです。子どもには母親が必要だなんてただの呪いの言葉なので聞き流しましょう。
とにかく、いつになったら女性は女性であることの呪縛から解放されるのでしょうかね?この映画のおばさんみたいにいつまでも自分の拘りを引きずってしかもそれを若い世代にまで負わせようなんてことは私の世代で終わりにしたいです。
追記:男性は何もしなくていいわけでないからね。女性たちが被る不利益から逃れられているという自由、そしてそうした状況に甘んじていられる特権が付与されていることに、気付く必要があることをお忘れなく!
今日もNetflix見てます7
今回は、苦言を呈します。
日本テレビの「初めてのお使い」
見てみました。結構頑張ったけど、やはり途中でリタイア。辛かった。
番組の上っ面だけ掬いとれば、幼い子どもが頑張ってる姿が映し出され、親もスタッフも視聴者も感動するって訳です。
しかし、これって児童ポルノ?って思っちゃうんです、私は。
2、3歳の子どもが、自分で買い物行くって言うかな?言ったとしても、現実に立ちはだかる壁に実行不可になるのが目に見えてる。
そこのところを親やスタッフが障壁を取り除いて実現させてるのが、この番組を成立させている大きな要因ですよね。現実にはスタッフ存在しないので、小さな子どもが一人で買い物なんか行けないんです。まず、そこがフィクションだということを理解するべきです。
フィクションだから、小さな子どもが一人で買い物に行けるのです。
しかし、実際には子どもたち買い物しちゃってる。
周囲の大人もみんなで子どもの買い物を現実として受け止めちゃってる。仮想でしか成立しないことを現実に置き換えて、そこに感動という要素をふち込んでくるのが、この番組だと思います。
タスクを全てこなせなかった子どもが大泣きするシーンがあるのですが、ゲロ吐きそうになりました。そのタスクって大人都合ですよね。何故、できなかったからと子どもに責任負わせるんですか?おかしいでしょう。この場合、大人として子どもに言うべきことは、「もう行かなくていいよ」ではないでしょうか。何故、「もう一回やってみよう」になるのですか?
十分頑張った子どもに再挑戦って、頭おかしすぎです。
はっきり書きます。子どもにそんな細かい買い物させるぐらいなら、大人が行けばいいでしょ。
まあ、この買い物の目的は買い物そのものではなく、子どもに何かを成し遂げさせる、つまり成功体験をさせるってことなのでしょうが、番組の目的が子どもの成功体験を利用した感動ポルノになってるところが大問題なのです。
子どもたちが頑張ってるのにケチつけるのかって言われることと思いますが、ええ、ケチつけますよ。何故なら、大人たちが感動したいからって子どもを利用するなんて全然受け入れらることではないですから。私がケチつけてるのは、作り手側の大人とそれに協力する大人にです。
子どもには様々なことを自分の成長過程に見合った形でで経験してもらえばいいのです。無理に大人からの要求に応えるような経験はいらない。子どもの成長過程に大人の感動要素を付け加えて変に付加価値つけるのやめましょう。
とりあえず書きます2
最近自分のSNSのタイムラインにちょこちょこと上がってくる某新聞媒体に掲載されたある全面広告のことについて、ちょっと覚書程度に書いておこうと思います。
月曜日の憂鬱に負けないで、元気出してってな感じのメッセージが添えられた発育の良い女子高生のイラストがバーンと目に飛び込んでくるその広告。
はっきりと書きますよ。キモいんだよ、そのコンセプトがよ!
元発育良好小学生として、書いておきます。
使いたくない言葉があるけど、敢えてここでは書きます。私は小学5年生頃からグングンと体が成長して、6年生の時には巨乳小学生になっていた。しかし、頭の中はまだまだ子ども。子どもの作り方さえ知らなかった。大人のような体にランドセル背負って毎日登下校していると、全く望まない状況に巡り合わせることが度々起こった。(あの時、私にまとわりついてきたクソ野郎たち、全員死んでいてほしい、マジで)
この時の私が見出した解決策は、男の子として振る舞う。髪を短く切り、男子のような服装をし、乱暴で粗雑な態度で過ごすというものでした。まあ、これはこれで問題のある行いですが、当時の私が考え出した精一杯の解決策でした。
それでも、大きく張り出した胸を隠すことはできません。すれ違いざまに触られたり、イヤらしい言葉を投げかけられたりと、随分傷つけられましたよ、チクショー!
中学、高校と制服を着る環境に進むと状況が更に悪化。思い出すと今でも全身に鳥肌が立つから具体的なことはもう書きません。
とにかく私の体に不快指数無限な視線を投げかけ、隙あらば身体的接触を試みようとするクソ共から自分を守るために無駄な労力を割かねばならない。
人生の無駄です。時間の無駄です。エネルギーの無駄です。
やらなくてもいいのなら、やりたくない。
奇跡が起こり、クソ共の脳天に神の雷が落とされて直ぐにでも死んでくれと毎日祈ってました。これも、無駄な祈りですね。
こうして自分の経験に照らし合わせて、あの広告を見たならば、無性に腹が立って仕方がありません。
21世紀に入った現在でも、なぜ、女の子を誰か他の人のモノとして扱うのですか。
発育がいいからって、男たちの癒しになりたいなんて思うわけないだろ、バーカ!自分の体は自分のモノであり、誰かのモノにはなり得ないんだよ、ボケ!
服着てようが、胸の部分を出してなかろうが、露骨な性的表現をしていなかろうが、あの女子高生を見る男たちの視線が、モノとして扱われた経験を呼び覚ます。これが人権侵害でなくして何が人権侵害になるというのか。
だから、あの広告は「性的表現はいけない」ではなくて、「女性差別を助長するからいけない」という観点で批判するべきだと思っています。
男女の性差に関係なく、誰しもが一人の人間として敬われる社会。誰もが同じスタート地点に立ち、誰もが尊厳を損なわれることなく、自分らしさを追求できる社会。そうした人類が目指すべき社会の在りようを考えた時、その属性のみで他人にその生を抑圧されたり、奪取されたりするのは退行しているとしか思えません。
より大勢の人が、あの新聞広告の何が問題であり、今後は掲載されることを許さないよう、問題点に関する理解が深まることを願っています。
追記:表現の自由云々言い出す人が多々見受けられますが、他人の権利を脅かしてまで謳歌できる自由なんてないです。それでも、胸の大きな女の子が好きだっていうのならば、その思いは大きくも小さくもない自分の胸の内にそっと秘めておけばいいのです。それがあなたの自由です。
100年前のこの場所に
車で移動することが多いです。
車そのものは大して好きではないですが、車の運転は大好きです。
最近はあまりしませんが、20代の頃は気分転換のために一人ドライブをよくしていました。
運転しながら考えることの一つに「100年前、ここはどんな場所だったのだろう」ということがあります。最近でもよく考えます。
100年前ならば、車も今程走っていなくて、家も道路も現代のように多くはなかったことでしょう。家がまばらに建っていただけかもしれない。もしくは人家など殆どなくて畑や森あるいは原野が広がっているだけだったかもしれない。
随分と遠くまで見通すことができたことでしょう。
風雨をしのぐ場所も殆どなかったことでしょう。
今私がこうして車で走り抜けていくこの場所で、100年前は誰かが何かをしていたのだろうか。何をしていたのだろう。100年前のその人は、まさか100年後に、ストレス溜めたおばさんが想像もできないような乗り物に乗って、人力では到底出せない速度で走り抜けていくなど考えもしなかったことでしょう。
でも、100年前のこの場所に佇むその人にも、苦しみや悲しみがあり、時には生きる喜びがあったことでしょう。希望に満ち満ちて道を歩んでいたのかもしれない。首を垂れて絶望に打ちひしがれていたのかもしれない。
こうして今私が走り抜けていくこの場所の100年後はどうなっているのだろうか。私が決して会うことのできない100年後の誰かは何を思うのだろう。
私が目にする風景とは違う景色を目にしながら、やはり人生の喜怒哀楽を抱え私とは違う方法で歩んでいくのだろうか。
100年後のあなたが見る風景のその向こう側に100年前の私を偲んでくれることがあれば幸いです。
最近また作り始めた
#あみぐるみ #crochet #dolls #craft
とりあえず書きます
視点を変えること
自分のことばかりに拘っていると、見落としてしまうことが多いなあといつも思ってます。
日常生活の範囲内で見聞きすることって、かなり限定的なことばかりで、見聞広めるどころか、狭めちゃってるよねえ〜と思うのです。
そんな狭い範囲の中から選択できることは馴れ合いと妥協の産物に偏ってしまう惧れも多いのではないかと不安になります。
不安になってるうちはまだ大丈夫かもしれません。何も疑問を感じず、馴れ合いと妥協の中で更に不満を膨らませ、そんな不満を表出させることなく日常生活を送ることに慣れてしまった時こそ恐ろしいと思います。
だから、時には視点を変えて、己の日常を振り返ってみたい。
そこで必要なものは想像力のみです。
想像します。自分のものではない生活。自分ではない誰かの暮らし。自分とは違う誰かの悲しみや喜び。
更に想像します。地球外の生物。生命体でさえない何か。今の自分には認識することさえ不可能な世界。
そんな世界が絶対にないとは言い切れない。
そうして想像することで、今の自分が抱えている悩みが消えはしないけれど、少し楽に息をすることができるようになるのです。
今日もNetflix見てます6
あまり話題になっていないのですが、めっちゃ気に入っている韓ドラの一つに「こんにちは?私だよ!」があります。
https://www.netflix.com/jp/title/81323200
タイムトラベルファンタジーにカテコライズされるのかなって内容ですが、SF要素強くないです。ラブコメ要素もちょっぴり入ってますが、重要ではないです。
じゃあ、何を描いているのか?
それは、ズバリ人生じゃあないかと思うのです。
20年前の自分が突然現れて、冴えない人生を送っている主人公に、生きることの素晴らしさを再認識させてくれる。
20年前のあなたはとてもカッコよかった。堂々として、弱いものの味方で、自分の意見をハッキリと表明していた。過去から来たティーンエージャーの自分が若さ故の傍若無人さでガッチガチのポジティブメッセージを送ってきます。
最初は、「なんだ、お前は?」と鼻につく過去からの自分ですが、そのバカで前向きな態度にグイグイと引き込まれていきます。
行動する前に、一呼吸置いてくれませんか?と聞きたくなる時もありますが、過去からの自分にはそんな思慮深いところは一切ありません。行動あるのみです。
過去からの自分は、そんな行動あるのみの自分のある行いがきっかけで起こった悲しい事件を、ドラマの後半まで知りません。周囲の人たちも彼女にそれを知らせたくないと思っています。
みんな、本当に優しいです。
そして、過去からの自分が悲しい事件を知ってしまうシーンがドラマの後半というか終盤で描かれます。泣きましたよ。久しぶりにボロボロ泣きました。特に、お母さんの「あなたは悪くない。20年前にもそう言ってあげれば良かった」というセリフに号泣しました。
主人公とその家族が20年間苦しんできたということ、そしてその辛い20年をようやく乗り越えることができるということが、ここでのお母さんのセリフにギュウっと詰め込まれているように思います。
大切なものを失った人が長い年月苦しんだ末に再生する。人には再生する力がある。誰かを大切に思うことも大切だが、まずは自分のことを大切にしよう。自分を好きでいよう。これこそが、このドラマの重要なテーマだと私は思いました。
例え苦しくても、自分を大切にすることを思い出してほしい。過去からの自分が20年の時を超えて伝えてくれたメッセージ。20年前の自分が応援してくれている。本当に見ていて元気になったドラマでした。
ところで、このドラマ、もっと評価されていいと思うのですが? どうですかね?
#韓ドラ #こんにちは?私だよ! #Netflix #KoreanDrama #Hi! It’s Me
人生の衝撃3
衝撃ばっかり受けてる人生。自分がちょっとしたことにも大袈裟なリアクション返すからなのでしょうが、ほぼ毎日衝撃受けてる気がします。
仕事に関しては、もうどうでもいいって感じで適当に流してますが、外部から入ってくるあれやこれやには否が応にも反応してしまいます。
今なら、やはりロシアによるウクライナ侵攻でしょうか。
微力な自分にできることと言えば、「戦争反対」「ロシアは今すぐウクライナから撤退しろ」と可能な範囲で声にすることぐらいです。己の非力さがほとほと嫌になります。でも言わなければならない。言わなければ、プーチンの暴挙に加担することになるからです。
それに加えて、今回は色々と反省しなければならないことがある。
それは、アフガニスタンやシリアやミャンマーの事態に関して、自分は何もしてこなかったということです。ただの日本のおばちゃんに何ができるの?と問われてしまえば、まあそれまでですが、やはり黙っていたのは反省すべき点だと思います。
あの時の沈黙が今の悲劇を招いたとしか思えないのです。
自分とは関係のないアジアや中東の国。大変だとは思うけど、自分の生活にはあまり影響ないからと見過ごしてきた。しかし、ちょっと待てよ!本当に自分の生活に影響ないのか?ぐるっと巡り巡って、21世紀になった今でも何だかシンドイ世の中、こんな筈じゃなかった私の暮らし、本当に世界各地で起きている戦争や紛争と何にも関係ないのか?
風が吹けば桶屋が儲かるのならば、風が吹かなければ桶屋は儲からない。
戦争は嫌だ!罪のない子どもたちが死んでいくのは嫌だ!若い人たちが本当は人を殺したくないのに武器を手にして心を病んでいくのは嫌だ!
これからドンドン声に出していこうと思ってます。
戦争反対!
ロシアはウクライナから即時撤退しろ!
#ウクライナ #ウクライナ侵攻 #ロシア #戦争反対 #NoWar #StopRussia #StopPutin
人生の衝撃2
「お金とは?」
何歳の時だったのかまでは覚えていなけれど、お金について父から教えられたことがあまりにも衝撃的だったことを忘れられないでいる。
1円玉は1円以上の費用をかけてつくる。1万円札は1万円以下でつくられる。大人になった今ではあまりにも当然のことで、なんの疑問も持たないこの事実に対して、幼い私は正直驚いた。とにかく驚いた。
一円玉というのは、ちょうど一円かけて鋳造され、1万円札というのは、材料費と印刷代でちょうど1万円になると、信じていた。
では、お金とは一体何ぞや?
父は至極簡単に言った。
「信じること」
はあ〜?何のことやら、もっと分からなくなった。簡単な一言の後、何やら説明が続いたように覚えているが、最初の一句が衝撃的すぎて覚えていない。信じろと言われ、反対に信じられなくなったという、この矛盾。まだ10年も生きていない小学生女子、大混乱。
だから、その後十数年間、「お金とは?一体なんぞや?」を考え続けた。そして、20代になった時、ようやく自分で何とか答えらしいものを得られることができた。
お金とは、あるコミュニティに共存する人類がより円滑な共生を持続させるために共有する価値観を紙幣又は硬貨によって可視化したものである。だから紙幣又は硬貨そのものに価値があるのではない。同一コミュニティに所属する不特定多数の人間がある記号に対して共有する共通認識の物質化である。
ちょっと小難しいことを書いてしまった。
年齢一桁の時に受けた衝撃によって、とにかく十数年考え続けて、何とか自力で答えを得た。自分でも頑張ったと思う。
もしも、あの日衝撃を受けていなかったら、多分自分で考えてみようとしなかったかもしれない。何の疑問も持たずにお金を使っていただろう。
あの衝撃を受けたことで、お金をはじめとした世の中のことを自分で考えるようになった。必ずしも正しくはないかもしれないが、自分なりの答えを何とか得た。ただし、あの衝撃を忘れず、死ぬまで考え続けるつもりだ。自分で出した答えは必ずしも正しいとは限らない。この先答えは変わるかもしれない。
「お金とは?」
「信じること」
だから時には騙されるということも忘れないでおこう。
#Impact #money #currency #value #worth #お金 #価値 #共通認識 #衝撃