最初の調査旅行、村のなかの拝殿
寄り道での気づきー京都までの旅ー
帰りの鈍行列車と一冊の本
まず簡単に論文の概要を述べておく。滋賀県の湖北平野一帯の村落郡の神社拝殿について扱ったものである。湖北平野のうち旧高月町域に注目し、26軒の拝殿を対象とした採集調査を行なった。それらの建築形式について分析し、建築史的にどのようなものか、また地域での使われ方などの村落において拝殿がどのような意味を持つものかを明らかにしたものである。
論文執筆を振り返ってみると調査旅行での発見などの経験が論文の内容となり、構成となっていることに気づく。つまり執筆を振り返ることは論文の内容を紹介することにもなるはずである。これは日記、旅行記であるが論文紹介も同時に含まれる。
私が所属していた千年村研究ゼミの研究テーマは、長きに渡って続いてきた地域の発見とその持続要因の解明である。その研究方法はシンプルかつユニークである。古代に記された地名辞典に記載のある地名を現在の地図にプロットする。そしてその地域に実際に足を運んでみて集落がどのような環境下のもとでどのような構造を持っているかを見る、というものである。
私は修論執筆を始めるまでに日本各地の地域を見てきた。そのなかで日本各地に豊かな風景が広がっていることを知った。従って自らの修士論文のテーマを決めるにあたって対象とする地域はどこでもよかった。どこであっても深めるべきテーマが潜んでいるであろうからである。ゼミではこれまでの古代の地名辞典に加えて中世の荘園の地名を地図上にプロットするという作業を行なっていた。私が修士論文を執筆した年度はちょうどその作業が完了した時であり、当然それらプロットのなかから現地調査をしようということになり、いろいろ議論した結果、滋賀県の湖北平野が調査地として選ばれた。私はこの時は修士論文としては別のテーマを考えていたのだが、ゼミの調査として参加することになった。
最初の調査を行った2020年8月は未曾有の感染症拡大の事態で、調査を実施すること自体が可能かどうか議論された。慎重な議論の結果、調査メンバーを少数に限定し、従来なら調査の軸となる地域住人への聞き取り調査も行わないという方針のもとで調査を実施した。都会の人間が地方に行くことが慎重になっている時期だった。ほとんど車から降りることなく、車窓からの調査となった。調査メンバーは教授と学生3名でレンタカーを一台借りた。
広大な平野から山間部にかけて、集落が点在する湖北地域のなかで、我々は調査する集落の目星をつけていた。十分な予備調査ができたとは言えなかったのであくまでも目安でしかなかったが、まずはそのうちのひとつの集落へ向かった。初めてのコロナ禍の集落調査で車から降りるのにも慎重になるという状況の中でも比較的安心して車から降りられると思えたのが集落の中の神社である。公共的空間としての性格をもち、よそものでも近づきやすいのが神社境内であった。
高月町の雨森集落の神社、天川命神社の鳥居をくぐって参拝をしようと思った時に、目に飛び込んできたのが拝殿の建物である。私はその佇まいに心打たれてしまった。その理由を建築的に記述すると次の3点である。
一つは本殿と拝殿が独立していることである。そもそも拝殿とはどのような建物か。本殿が神のための住居であるのに対し、拝殿は礼拝を行うための空間、つまり人間のための空間である。本殿と拝殿が独立しているということは神と人間の領域が明瞭に分かれていることである。私がこれまで集落を訪れて出会った神社は本殿と拝殿が一体したり、もしくは本殿のみの祠のような形式が多かった。
二点目は柱間が四方に吹き放たれていることである。開放性は日本建築の空間のひとつの特性であり、同時に近代建築が目指したひとつのテーマでもある。開放的な空間というのはそれだけで気持ちいいものである。柱間が吹き放たれる開放的な空間が神社境内に佇んでいる様子を見て、きっとこれはとても意味のあるものに違いないと直感した。また開放空間は外部に晒されるわけだから、雨や風から建物を守る必要があろう。つまり開放空間を維持管理する存在の可能性を示唆しているように思えた。
三点目は正方形に近い平面をもつことである。正方形平面は四方に向かっており、強い正面性を主張しない、どこからも見られることのできる空間である。そもそも私はそのシンプルさから、正方形平面の建物が好きである。村の中の拝殿はその空間の開放性とも相まって舞台のような佇まいとなっていた。
以上の「本殿から独立」「柱間が開放」「正方形に近い平面」の3つの特徴をもつ拝殿が村の中に佇んでいたのである。
↑雨森の天命川神社の拝殿。集落の中心部に立地している。柱間が開放されるのが大きな特徴である。私が最初に出会った拝殿で、きっとこれはすごいものに違いないと直感した。
天川命神社の参拝を終えて、いつもなら集落のなかを歩き回るところであるが、車に戻り、予定通り次の目的地である山間部の地域へ車で向かうことになった。出発してしばらくは集落の周辺をゆっくりと運転して見ていた。運転していたN教授が適当に車を回していた。すると集落のなかの森を横切ったときに、木々の茂みの中から茅葺の屋根が現れたのを教授が見つけた。その道を折り返しそこへ立ち寄った。
そこは雨森の北部にある井口という集落の日吉神社であった。茅葺の屋根は井口集落の日吉神社の本殿であり、江戸期の建築で滋賀県の文化財に指定される立派なものであった。しかし私が気になったのは拝殿であった。本殿の前に立つ拝殿は、先程の雨森の拝殿で挙げた3つの特徴と同様のものであった。ただし1点大きく異なるのは雨森の拝殿が柱間数が正面三間・奥行二間であるのに対し、井口は正面三間・奥行三間とより正方形平面に近い形であることである。ともかくこの地域にはこの形式の拝殿が分布していることが想像できて興味深かった。
↑井口の日吉神社拝殿。奥行き方向も柱間数が三間であり規模の大きいものである。開放的で床のみがあるという空間はまるで舞台のようである。
井口に立ち寄った後は、この湖北平野一帯を一望できるという賤ヶ岳に向かった。観光用のリフトで頂上まで向かうことができた。戦国期の戦地として有名である賤ヶ岳からの眺めは中世の景観を思い起こさせた。平野部の集落が俯瞰することができる立地であり、ここに山城を建てた理由が納得できる。湖北平野には古代以来の条里制地割が姿を残しており、そのなかに家々が稠密に集合する集村が展開している。私はその様子を見て、これらそれぞれの集落のなかの神社は、そして拝殿はどうなっているのだろうと思った。
↑賤ヶ岳から湖北平野を一望する。中世の荘園地に比定される。古代からの条理地割に集村が展開している。およそ2ヶ月後の調査ではこのうちの26の集落を自転車で周ることになる。
次の目的地として設定していたのは菅浦という集落である。菅浦は中世の文書が残されている集落で中世研究のフィールドとして有名である。湖北平野からは地理的に隔絶された地域にある。この日はもう時間が遅かったのと、天気も崩れる予定だったので、私はもう引き返して平野部の集落を見つつ帰るのがいいのではないかと提案したが、N教授の、全体を知るためにはまず極点を見る必要があろう、ということで行くことになった。運転は私がしていた。平野部を後にし、湖に面した険しい道を進んでいく。途中から雨が降り出した。雨が降っていたせいもあったかもしれないが地図で見ていた距離感よりも遠い。もう帰ってこられないのではないかと運転しながら不安になった。なんとか菅浦に到着したが、その時にはいわゆるバケツをひっくり返したくらいのの豪雨であり、しばらく待ったが車から降りるのは諦め、引き返すことにした。この雨のなかひたすら湖北から東へ向かって運転をしたという体験が、後の修論の結論部分を書くにあたっての伏線の一つになろうことはこの時は知る由もない。
一泊二日の調査であったがとても濃密だったが、すぐ帰るのももったいないので1日延泊して京都まで行くことにした。そのことをS君に話したら、同行することになった。S君は私が所属する研究室の向かいの研究室に所属する同級生で日本建築史を本格的にやっている。ちなみに私のはにわか日本建築史である。長浜駅を朝に出発し琵琶湖線にのって京都方面に向かった。琵琶湖の北東端の湖北から、南西端の大津の少し手前、石山駅でS君と落ち合った。
暑いなか石山寺を見学した後は、比叡山を越えて京都に入るというのをやってみようということになり、石山寺駅を始発とする京阪石山坂本線に乗車して終点の坂本比叡山口で降りた。電車を降りるとすっかりと夕方の雰囲気になっていた。ロープウェイの時間を調べていなかったので本当に京都まで抜けることができるのか不安になった。駅前に観光案内所があったので聞いてみるともう無理だということがわかったので、仕方ないのでJRで京都入りすることにした。そうすると少し時間ができたので駅から歩いていける日吉大社というところに寄ろうという話になった。
日吉大社は日吉造(ひえづくり)と呼ばれる本殿の建築形式が日本建築史の中では有名であるが、不勉強な私は知らなかった。日吉造りは神社本殿と仏堂と寝殿造を足し合わせたようなユニークな建築でありとても興味深いのだが、私が境内で目を引いたのは拝殿だった。湖北でみた「独立」「開放」「正方形」という3つの特徴をもつ拝殿がここにもあったのだ。村落のなかの神社とは違い規模が大きく、より空間的な凄みがあった。また完璧な三間四方の正方形平面であり、より原型性を感じた。三間(けん)四方の空間は柱間数においても面積についても九間(ここのま)の空間であり、その点についても特質すべきである。九間はちょうど能舞台の大きさと同じである。
ただ1点、湖北で見た拝殿と大きく違う点がある。それは屋根の向きである。湖北で見た二つの拝殿はいずれも平入りであるのに対して、日吉大社の拝殿は妻入りである。この妻入りの拝殿というのは空間的によく考えられているなと思った。神社の配置計画において最奥にあるのは本殿であり、本殿はどんと構えていてほしい。そのためにアイストップになるように平入りの方がいい。それに対して本殿の目前に建つ拝殿が妻入りなのは奥をうまく演出している。アプローチとの関係も実に巧みである。遠くから拝殿を見ると三角の屋根の形が見え、その奥には「何かがある」ことを示唆する。だんだんと参道を歩いていくと、拝殿の内部空間に近づき、その空間を通して奥の本殿が現れるのである。そんな話をS君と話しながら境内を回った。日吉大社には同様の本殿-拝殿のセットが5もあり、毎回新鮮な驚きがあった。日吉大社の境内には水が流れており、涼しく心地よかった。
↑日吉大社白山姫神社の拝殿。参道を歩いていくと拝殿の内部空間の奥に拝殿が見え隠れ始める。また三間四方の九間の空間であることにも注目できる。
日吉大社を後にし、JRで京都に向かった。京都ではS君と彼のおすすめのしゃぶしゃぶを食べた。3日間の調査旅行の後で、そして久しぶりの外食でとてもおいしかった。近江の日本酒を呑んだ。新幹線で東京に帰る予定で切符も買っていたので、京都に残るS君とは別れ、終電を調べて京都駅に向かった。京都の碁盤の目上の街区その一つ一つは人間的なスケールでできているので、京都の街は歩けばなんとかなるだろうと思ってしまう。それが間違いだと気づいた時にはもう終電に間に合わないとわかった時だった。酔いが一気に冷めた。仕方ないのでその日は急遽予約がとれた安宿に泊まることにした。新幹線は自由席であっても、乗車券の分は日付を越えてしまえばキャンセルができない。終電を逃した私に襲ってきたもう一つの事実だった。学生身分では普段新幹線など高級な乗り物に乗ることなどないので知らなかった。もう一度新幹線の切符を余裕なかったので翌日はたまたま持っていた青春18きっぷを使って帰ることにした。
せっかく京都にいるのだから翌朝は市内を散歩することにした。京都の中でも鴨川周辺はとても気持ちがいいので散歩するのにはよい。何も考えず北に向かって歩いていると二つの川が合流する点にたどり着く。鴨川デルタと呼ばれるこの場所をさらに北上すると南北に伸びる参道が森の中に続く。何も考えずに京都の四条河原町から鴨川に遡行して川の流れを見ながら歩いているとたどり着くのが下鴨神社である。同じようにして何度か訪れたことがあるので特に何かをみようという心構えはなかったが、楼門を抜けると「!」が浮かんだ。それは舞殿と呼ばれる建物が神社境内の中心軸上に建っているのを見たからである。建物の形や神社の中心軸上に建つという配置が日吉大社などの拝殿とよく似ている。そしてもう一つ舞殿をみて驚いたのは建物の平面が縦長であることである。日吉大社拝殿は三間四方の正方形平面であったが、下鴨神社舞殿は正面三間奥行き四間の縦長平面である。藤森照信がなんかのエッセイで宗教建築はその性質から縦に長く伸びるのが普通なのに、日本建築は横に長いものばかりである、と指摘して妙に納得していたから、縦長の日本建築を目の当たりにして驚いたのだった。確かに単体の建物で縦長の日本建築は珍しいと思う。三間四方の空間に奥行き方向に1スパン広げた空間と考えることができる。これまで見てきた形式の拝殿と共通点が多く、それらの間に何かしらのつながりがあることを想像した。
↑京都下鴨神社の舞殿。下鴨神社はこれまで何回も訪れた場所であったが、この調査旅行で見てきた拝殿に似ていること、そして縦長の日本建築であることに驚いた。
↑この調査旅行で訪れた場所と地域。これらをいかに結び合わせるかが今後の課題となってゆく。
京都と東京を鈍行で行くとなると10時間以上かかる。何度もやったことがあったけれど、とにかく暇である。持ち歩いていた本を読むしかなかった。旅行に行く時はいつも、どうせ読まないのにカバンの中にどの本を入れていくかで結構悩む。どうせ読まないことがほとんどなのだが。なぜこの時にカバンに入っていたのが井上充夫『日本建築の空間』だったのか、特に理由はなかったと思うが、年度始めの新入生向けのゼミでとりあげられ手元にあったからという程度であったと思う。そのゼミでは建築史のさまざまな態度を学ぶという趣旨で、そのうちの一つがこの『日本建築の空間』であった。
『日本建築の空間』は空間の発展の過程として日本建築史の動きを捉えるという試みである。空間とは人間がそのなかでどのようにそこを使うのかという行動の問題と連動してくる。そこに時代的なものが反映されているというのがこの本の大筋であると思う。空間が発生し、「人間の」空間の占める割合、つまりは内部空間が次第に大きくなり、さらには空間が流動し始めるというのが空間の発展段階である。最初読んだ時は本の大筋を捉えただけだったので、そんなに驚きはなかった。しかし調査旅行を終えた帰りの電車のなかで読み返していると目から鱗が落ちた。
この本では、神社に関してふつう建築史でメインで扱われるであろう本殿よりも、むしろ拝殿について比重が大きく書かれている。それは井上の歴史が空間への興味から描かれているからである。本殿は神の住居、拝殿は人間の空間であり、空間の歴史は拝殿に顕著に現れているのである。『日本建築の空間』から拝殿に関する部分を、私の私見が大きく入っているかもしれないがざっと抽出すると以下のようになる。まず神社の発生から。神社は神の場所であるから、その発生時には人間の空間はない。礼拝は地面の上で行われていた。しかし時代が下るにつれて、人間が礼拝するための空間が要請される。それこそが拝殿の発生であった。拝殿の発生期は本殿と拝殿は多くの場合独立していた。神の場所に人間の空間が一体することはあまり考えられなかったのだろう。さらに時代が下ると拝殿と本殿が結ばれる形式が流行する。権現造りと呼ばれる形式がそれである。これを人間の空間が拡張し本殿へと到達したと考えることができる。つまり神社においては本殿のみ⇨拝殿の発生⇨本殿と拝殿の結合という過程が〈空間〉の発達と捉えることができるのである。
また拝殿の起源についても詳細な考察がなされている。井上は拝殿の起源として3つの流れを挙げている。それらはいずれもその成立期には「拝殿」とは呼ばれていなかったが、拝殿と呼ばれるようになったという。そのうちの一つとして挙げられている拝殿の起源が「舞殿」である。舞殿とは文字通り神社において舞を奉納する舞台としての建物である。やがて礼拝空間として使われるようになり舞殿は拝殿と呼ばれるようになったという。この舞殿に由来する拝殿の建築様式は「舞拝殿」と呼ばれるらしい。
舞殿の例として京都の下鴨神社の写真が載っているのを見て、日吉大社や下鴨神社を実際に訪れて、舞殿と拝殿との間に関連性があると直感したのは正しかったのだと思った。また最初、湖北の集落で拝殿を見たときに「舞台のような空間である」と思ったが、拝殿の起源が舞を奉納する舞台であったということは、その理由を説明しているような気がした。
↑井上充夫『日本建築の空間』のうち、拝殿の起源について扱われている頁。中段の写真が下鴨神社舞殿。京都から読み始めてこの辺りの頁に辿り着いたのはちょうど関ヶ原の辺りだったと思う。
湖北から京都までの調査旅行で見た点たちが、たまたま持っていた『日本建築の空間』という接着材によって線で結ばれたのである。具体的に調査旅行と本の内容を照らし合わせて、湖北で見た拝殿について述べると次のようになる。
・独立する拝殿は、拝殿の成立期の原初的な拝殿の姿を残すものと言えるのではないか。
・柱間が開放され正方形に近い平面をもつ拝殿は「舞拝殿」と呼ばれる形式に当たるのではないか。
・舞台のような空間をもつのは、拝殿の起源のひとつである舞殿の空間性が現れているのではないか。