Cafe NEXUS
イントロダクション
グリダニアを出て、ラベンダーベッドへ向かう街道は、午後になると光の質が変わる。
差し込む陽が森の葉を何枚も通り抜けるうちに色を帯び、地面に落ちる頃にはもう、緑と金が溶け合っている。 その光の中を、フィリアは一人で歩いていた。 荷物は軽い。依頼書も持っていない。 ただ、足が動いた。それだけだった。
傭兵稼業も七年になる。依頼をこなし、報酬を受け取り、また次の仕事を探す。 繰り返しの中に不満はなかった。 なかったはずなのに、ここ数日、どこかに澱みがあった。 指の先が少し重い、あの感覚。理由はわかっている。 わかっているからこそ、誰かに話す気になれなかった。 言葉にした瞬間に、何かが崩れる気がして。
だから今日は、あてもなく歩いていた。
ラベンダーベッドの拡張区に入ると、人通りが細くなった。 石畳の路地が緩やかに曲がり、両脇の生け垣が背丈を超えはじめる。 住宅の窓から、夕支度の匂いがするわけでもない。 ただ、緑の気配が濃くなっていく。 角を一つ曲がるたびに、街の音が一枚ずつ剥がれていくようだった。
小さな案内板を見たのは、偶然だった。
蔓草の這う石壁の隙間に、手書きの文字が読めた。 『Cafe NEXUS』。矢印が路地の奥を指している。 フィリアは立ち止まり、しばらくそれを見つめた。 引き返す理由も、進む理由も、どちらもなかった。 ただ足が、奥へ向いた。
扉を押すと、光が来た。
一歩踏み込んだ瞬間、フィリアは思わず目を細めた。 暗さに慣れた目が、色を受け取り損ねた――そう思ったのも束の間、視界がゆっくりと開いていった。
壁面に、ステンドグラスが並んでいた。
孔雀の羽根を広げたような意匠だった。 緑、黄、青、白。それぞれの色が互いに溶け込みながら、室内へ向かって輝いている。 外光を受けて光源となったガラスは、単なる窓ではなく、もはや発光する壁だった。 その光が床へ落ち、フィリアの足元にも染みのような斑が散らばった。 雲がひとつ動くたびに、斑は形を変える。 溶けて、集まって、また散る。呼吸しているようだった。 生きているようだった。
水の音が、最初から全部を包んでいた。
壁の一面が、滝だった。 天井近くから白く落ちてくる水が、光の幕を引きながら流れ続けている。 轟音ではない。主張もしない。 ただ低く、絶え間なく、ここにあり続けているという事実だけを伝えるような音。 フィリアは、自分が息を吐いたことに気づかなかった。 体がひとりでに、その音に合わせた。
革張りのソファが壁際に据えられていた。 チェスターフィールドの深い黒で、座面は低く、背もたれは厚い。 その背後にあるのがあのステンドグラスだから、ソファに座る者の輪郭には常に、緑と黄の光が滲むことになる。 フィリアはそれを想像して、なんとなく、一人で来たことを後悔しなかった。
テーブルには細い木が一本立っていた。 白い幹。紫の葉。枝が繊細に広がり、葉の先が水の音に合わせてかすかに揺れていた。 生きているのか、飾りなのか、境目がわからない。 フィリアはその木を少し眺めてから、視線を壁へ移した。
奥のラウンジには、また違う顔があった。
円形のテーブルを囲むように低いソファが置かれ、テーブルの上には深青の薔薇が咲いていた。 本物の青だった。染めたのか、品種改良なのか、フィリアには判断がつかなかったが、その色は確かに青で、周囲の緑の中でひとつだけ、別の時間を生きているように見えた。 背後の窓の外にも、緑が広がっていた。 室内と屋外の境界が、ここでは曖昧だった。
フィリアはゆっくりと、ステンドグラスに近い席に着いた。
革の座面が、体の重さを静かに受け取った。
気配があった。
振り向かなくてもわかった――近づいてくる足音が、ほとんどなかったから。 床板が軋む音もない。ただ、誰かがそこにいた。
男は背が高く、細かった。 茶色がかった髪が顎のあたりで揺れ、ヴィエラ特有の長い耳が頭の上に静かに伸びている。 黒いシャツの袖を肘のあたりまで折り返し、手首には革編みのブレスレットが巻かれていた。 指先が、トレイの縁を軽く支えている。
フィリアと目が合っても、男は微笑まなかった。
愛想が悪いのではない。それはすぐにわかった。 作られた笑顔を貼り付けることに、この人は興味がないのだと思った。 目の奥に、何かを静かに観ている色があった。 客を値踏みしているのでも、歓迎を演じているのでもなく。 ただ――それだけで、フィリアは妙に落ち着いた。 見られることが、ここでは怖くなかった。
「ご注文は」
低い声だった。余分な言葉がなかった。
「これを。ホットで」
指差したのは、ラベンダーと白薔薇のブレンドだった。
男はうなずき、踵を返した。 その途中で、一度だけ立ち止まった。 窓際の鉢植えの葉が一枚、床に落ちていた。 彼はそれを拾い、鉢の縁に戻した。フィリアへ何も言わなかった。 目を向けもしなかった。 ただ、葉がそこにあることに気づいて、元の場所に返した。 それだけだった。
それだけだったのに、フィリアは何か温かいものを見た気がして、しばらく視線を動かせなかった。
カップが届いたとき、湯気と一緒に甘い草の香りが広がった。
ラベンダーの香りは知っていた。 けれどこれは、知っている匂いより少しだけ柔らかかった。 花びらが水に溶けるとき、尖ったものが丸くなるような――そういう柔らかさだった。 フィリアは両手でカップを包んだ。 熱が、指の先からゆっくり入ってきた。
一口含む。渋さがなく、花の香りが鼻の奥にゆっくり残った。
ステンドグラスの緑が、革のソファの背もたれの上を這うように移動していた。 隣の席では、若い女性が二人、声を落として話し込んでいた。 内容は聞こえない。 笑い声だけが、時おり水音に溶けた。 その笑い声は、うるさくなかった。 むしろ、部屋の音の一部だった。
フィリアは何も考えなかった。
いや――考えようとして、できなかった。 光と水と草の香りが、思考の輪郭をやわらかく崩していった。 澱みの正体を言葉にしようとすると、そのたびに音が邪魔をした。 邪魔というより――いま考えなくていい、とこの部屋が言っているようだった。
重かった指先が、いつの間にか軽くなっていた。
壁の蝶の標本を、しばらく眺めた。 ステンドグラスを作った人が、この蝶を見てその色を選んだのかもしれない。 そんなことを考えて、フィリアはカップをもう一口傾けた。 答えのない問いが、今日は苦にならなかった。
窓の外で、風が木の葉を揺らした。 光が一瞬、大きく揺れて、床の斑が踊った。
それを見ながら、フィリアは自分がいつから、こんなふうにただ光を眺めることをしていなかったのかを思った。 七年間、光は常に敵か味方かで判断してきた。 日差しは目に刺さるもので、影は身を潜めるためのものだった。 ここの光は、どちらでもなかった。ただ、綺麗だった。
それだけで、十分すぎた。
会計を済ませるとき、男は相変わらず多くを言わなかった。
金貨を受け取り、釣りを返す。 その一連の動作に、余分なものが何もなかった。 フィリアがコートのボタンを留めようとして少し手間取ったとき、男の視線がそちらへ向いた。 何かを言うわけでも、手を貸すわけでもない。 ただ一瞬、見た。 見守る、という言葉がフィリアの頭をかすめた。
扉を押して外へ出ると、夕方の空気が頬に触れた。
石畳の上に長い影が伸びていた。 ラベンダーベッドの風が、葉の間を静かに抜けていった。 フィリアは立ち止まり、一度だけ深く息を吸った。 草と土と、かすかな花の匂い。 どこかにあの湯気の名残りがあるような気がしたが、それは気のせいかもしれなかった。
澱みは、まだそこにある。
消えてはいない。明日になれば、また指先が重くなるかもしれない。 それでも今日だけは、少し遠かった。
遠くなっただけで十分だと、フィリアは思った。 すべてを解決しなくても、一日をやり過ごせる程度には、軽くなれる場所がある。それを今日、知った。
ゆっくりと、来た道を歩きはじめた。 振り返らなかった。でも路地の角を曲がるとき、水の音がまだかすかに聞こえた気がした。
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店主さん
店内ハウジング
基本情報 Cafe NEXUS MeteorDC Zeromus ラベンダーベッド 16-59 不定期営業(Xでの告知アリ) #CafeNEXUS_ff14











