CMY Spray sobre madera 30x60Cm (C/U) 2019
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Instagram - posinega_「本日のわたくしまたは大好きな蛇口たち」
2004年1月 帰省 by chihiro_s on Flickr.
にぎやかな鳥のさえずりが聞こえてきて、いつもは入らない小道に足を踏み入れた。半分ほど進んだところにちょうどいい感じの枝ぶりになった桜の木があって、枝にとまったシジュウカラとヒヨドリがずっと喋っていた。シジュウカラは3羽いて、枝から枝へと飛び回りながら忙しそうだった。つがいと、もう1羽。つがいの2羽が奥にある別の木に飛び移ってしまっても、残りの1羽は、手でさわれるほどではないけれど、近い枝を転々としながらなんとなく去らずにいた。
posinega「一人で阿佐ヶ谷住宅に行った。」
では滅ばない本はあるのか。そもそも「本」とは何なのか。それを考えるには、まず書物のイメージを捨てなければならない。つきつめると人間が作ってきた書物はすべてが「本についての本」だったと気づくからです。たとえば古典とみなされるアリストテレスの『自然学』ですら〈自然〉にすでに書かれていることをどう読みとるか、それを読みとり、議論する技術を伝授する講義録だった。そんな風に考えると古典も含めて、すべての本は先行する本を読むメチエを伝える本だったことになってしまう。言い換えれば、アリストテレスの『自然学』がそうだったように、それが読み解く対象、究極の「本」はすでに〈自然〉として書かれ、与えられていたとも言える。そして僕はこうした〈自然〉としての本の原点は、やはり天体だったと思います。人間は天体の運動の幾何学性を読み解くことで、身の廻りの事象を支配する法則を発見し読み解いてきた。文学でも音楽でも政治でも気象でも身の廻りに起こる出来事すべてが構造として天体の幾何学性に対応していたのを発見してきた。天体の時間は人間の歴史と比較できないほど長大です。その幾何学性は人間の歴史のスケールくらいでは変わらない。これほど安定した媒体はない。ですから古代以来の記憶術がそうだったように、天体にマッピングさせる読み方さえ変化させれば、いかなる情報でもすでに天体に書かれている(た)と発見できる。書かなくても本はすでにある。読み方だけ変えればよい。こうした自然と人間的事象との構造的対応こそ文化です。その対応が人間にとっての環境=二次的な自然です。
岡崎乾二郎:生きられた(自然としての)「本」(池澤夏樹編『本は、これから』所収)
智恵子が亡くなってにひ盆をむかえても、光太郎はさっぱりお盆というような気がしなかったと書いている。年中此所にいるのだから、わざわざあらたまったことをする気がおこらないのだと。 「あの世とは何も遠いところではない。あの世とはみんなの頭のなかにいつでも存在しているし、現世といつでも交通しいるところである。」 …… 「親族関係や世間一通のつき合いに一一そんなことをいってがんばる必要もないから、黙っておとなしく世間の仕来りに従っているが、自分一人の時にはすべてさういふ類の事を抹殺し盡すのである。」 智恵子の写真の前に知人から送られて来たメロン、レモンを置いたりしていたが、光太郎には智恵子の紙細工が彼女の全生活に見えもっとも智恵子を感じるものとなっていた一文がある。 「其れを見ていると智恵子の魂も肉體も智慧も欲望も、そしてかぐはしい此世の讃歌まで感じられ、又私への無言の訴をもひそかに聴くのである。實に細やかな、かくれた、口には出さぬいたはりが畫面に満ちている。私の藝術も願わくは斯ういうふやうにありたいと此を見るたびに思ふ。 智恵子の一生は最も純粋に此所にいきづいている。」
Abejas e Colmenas: 智恵子のにひ盆(2005年11月16日)