Coref(大学発教育支援コンソーシアム推進機構)主催の「三宅なほみメモリアルシンポジウム」に行ってきた。
http://coref.u-tokyo.ac.jp/event
午前の第2部から最後のパネルディスカッションまで参加した。参加した主な理由は、「応用哲学会で対話の量的評価可能性について」という題目で発表したのだが、それとほとんど同じことをしていると思われたものがあったからだった。それは「対話のテクスト化ツール体験」だった。そしてそのワークショップの見学をしたのだが、確かにやっていることの結果として全く同じことが見て取れた。のちのシンポジウムの前半で知ったのだが、実は「学習繊維評価支援ツール」のワークショップに参加した方がもっと良かった。というのも、そこでは対話の量的評価が、アクティブラーニングの学習支援のツールとして行われていたからである。ワークショップに参加できなかったから、質問などができなかったのは残念であるが、配布されていた資料では、私が対話時空環測図といったものと同じ形式のものが見て取れる。だから、もうそれだけで私が欲しかったものは十分に得られた。対話の量的評価は、可能というだけでなく実際になされている。つまり対話は科学的に分析されるような対象なのであるり、教育学、学習科学、認知科学の領域でそれは実証されてもいるし、また、高校教育やアクティブラーニングの現場で実践されることさえ試みられている。このことを知ることができたのは、とてもよかった。そして、私とは全く独立にそのことが教育推進機構で科学的になされているのであるから、実証され実験されるという可能性についてのきっかけを私が作る必要は全くないわけである。これはとてもありがたいことである。
だが、少しだけ、以上のようにして実証されている対話の量的評価は、corefが提供するどのような理念あるいは理論?にのっとっているのかを理解しておらねばならないだろう。簡潔に言ってしまえば、corefが独自に開発した理論である「知識構成ジグソー法」というものにしたがって、対話の量的評価はなされている。知識構成ジグソー法はとてもシンプルで分かりやすいので、このリンク先を見ればよい。要するに対話型学習法ではあるが、教育学的?認知科学的?学習科学的?的側面から洗練され組織されているが故に、対話を量的に評価するということの基準を明白に定義できたのであろうと思われる。「定義」というほどでもなく、全く素朴に発話の量が測られている。つまり、ここでは量とは、テクスト化された文字数であり、発言毎に区切られ、さらに発言者毎に区切られている。全く当たり前のことなのだが。どうしてこのように区切られているのだろうか。つまり、どうして、発言毎に、そして発話者毎に、個別化され、時間の順序毎に並べらているのか、このことについては何も触れられていない。それもそのはずであり、この知識構成ジグソー法は、対話者の学びを促進するための手法であり、そのための評価なのであるから。その観点に立って、対話が評価されているのである。すなわち、学習のための対話が、学習にどれだけ役割を果たしたのかという観点からの、評価なのである。
知識構成ジグソー法 http://coref.u-tokyo.ac.jp/archives/5515
いうまでもなく、以上の評価の仕方は、対話を評価するものであるとは、もちろん言えない。対話がそれ自体で持つ量が評価されるが故に、対話は量を持つと言われねばならない。しかしながら、対話が対話者にとっての学びに関してどれくらいのことを寄与したのであるのかの評価に関しては、以上のもので完璧であるとしなければならないであろう、理念的には。というのも、対話それ自体をさておき、対話者がどれくらい学ぶことができたか、どれくらい深く考えたか、、、などというのならば以上のもので事足りるのであるから。
さて、まあとにかく、私が今日、思ったことも言っておこう。それは、哲学対話がもしも対話者の学習力や思考力といったものに関わった仕方で捉えられているのならば、このように科学的に開発された手法を無視できないのはもちろんであり、こういった手法はすでにかなり開発されていることを、哲学対話の関係者が知らないのだったらそれはあまりにもったいない、ということである。また逆に、今日の参加者や登壇者やちっとも哲学対話のことなどにちっとも触れていなかったし、資料を見ても全然耳に入れているようにも思われないのは、残念である。しかし、何らかの理由があって、これら二つは関連がないのか?とも思った。まあ、はっきり言って、私にはどうでもいい。
一つだけ、しかし、あえて言っておかねばならないことが、ある。それはいつも私が言うことにつながっていることだ。つまり哲学対話の「哲学」性であり、「対話」の哲学性である。思うに、自分で考えるとか、思考力・判断力を伸ばすとか、そういったことに関しては、このcorefのような機関や学習科学、認知科学がもう十分な役割を果たすのは明らかなことではないか。もしもそうだとしたら、哲学対話がなすべきことは何なのか。思うに思考力や判断力を伸ばすなどではないと思われる。子供たちが自分で考えることを促すようなことではないと思われる。そういったことは科学的な手法で十分に開発できるのであるから。そうだとしたら、現状の哲学対話が目的としているほとんどのことは、実際にはそういったものに取って代わられるべきなのではないか。私はそれの方がむしろ望ましいと思っている。多くの現状の哲学カフェや哲学対話は、ただ単に名前に「哲学」とついているだけで、哲学では全然ないのだから。対話が哲学的であるとか、どうして対話することが哲学と関わらざるをえないのか、それは対話者が自分で考えることになるとか、そういったことで十分なのではないのである。それ以上の何かが、対話を哲学的にするのであり、そうだからこそ、哲学対話が、対話として必要なのである。
行く前から分かっていたことではあるが、やはり、哲学対話とはそもそも何なのか?哲学とは何なのか?対話って何なのか?問いって何なのか?これら全ては何なのか?とふつふつと問いが湧いてきた。いや、以前にも問うたことがあるが、やっぱりこればっかりを問うているんだな、と思った。最近は、こういう問いを全て集めて、対話の哲学、というようにしたいな、と思っている。