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Nobody knows,
「逃げ出したい」 畳の上に寝転ぶ帝統の髪に指を絡ませながら、幻太郎ははっきりと、そう言った。 俯く彼の顔に、柔らかな栗色の髪が作り出した影がかかって、その表情は見えなかった。 誰にも小生のことを知らないような、場所へ、逃げたい。 語り口調のはずなのに、彼の心からの叫びのように思えて、帝統は腕を伸ばして不健康と思えるほど白い頰に触れた。 「……幻太郎?」 どうした、と尋ねても、彼は何も言わない。その毛先に触れて、なあ、と言う。 いつものように素寒貧になって押しかけた帝統に嫌気がさしたのかもしれない。そのうえ扇風機があるから、と執筆する彼のそばで寝転がった帝統が、彼の集中力を切ってしまったのかもしれない。 帝統のせいでないなら、さきほど鳴った電話のせいかもしれない。編集者相手ではないような、気がした。あくまでも勘だけれど、そうであったとき、わざわざ彼は電話を片手に廊下になんて出ない。その相手が誰なのか、帝統は知らない。 思えば、彼のことをよく知らない。 四つ年上の、小説家。肌が白くて、細身な身体に着物が似合う。暑がりなくせにクーラーはつけない。それから、洗練されたリリックは、帝統が知っているどの人間のものよりも美しい。帝統が知っているのは、たったそれだけだ。 どこで生まれたのかも、どうして小説家になったのかも、家族のことや恋人のことも、その名前が本名か否かも、帝統は知らない。 「……僕を、どこか遠くへ連れて行ってくれませんか」 僕のことを、誰も知らないような、ところへ。 夏夜の空気をかき混ぜた扇風機の風が、幻太郎の髪を揺らした。今にも泣き出しそうな瞳を細めて、彼はふふ、と笑った。 「嘘ですよ、帝統。どうしてそんなに泣きそうな顔してるんですか」 うまい言葉が見つけられなかった。 この男の感情を読むのは、次のサイコロの目を予測することや、相手のカードを見抜くことと比べ物にならないほど難しい。それは出会った頃から、変わっていなくて。 「……そんな場所、宇宙か、海の底か、地獄しかねえだろ」 「ふふ、地獄まで一緒に行ってくれるんですか?」 「お前も俺も、天国なんて行けやしないだろ」 「まぁ、そうですねえ」 幻太郎がゆっくりと帝統に顔を近づけて、そのまま、触れるだけのキスをした。 どこまでが本当で、どこまでが偽りなのか。 そんなふうに考えて、どうでもよくなって、今度は帝統からキスをした。 その夜、二人は初めて、セックスをした。
恋や愛なら夕日に焚べろ
自分の命さえ、賭けのテーブルに載せてしまうようなこの男に、なぜこうも惹かれるのか、自分でも分からなかった。 「幻太郎、」 と、振り返った彼が、ビルの壁面に夕日を背負って笑った。その姿に、ちがう男の面影が重なる。 その場に蹲ると、彼は驚いたように幻太郎の名前を叫び、急いでこちらに駆けてきた。往来を行く人々が迷惑そうに幻太郎の両脇を通っていく。 つくづく、嫌になる。 どうして、こんなにも。 「おい、幻太郎、幻太郎! しっかりしろ!」 躊躇うことなく、帝統は幻太郎の身体を抱き寄せて立ち上がらせ、道端へ移動させた。 「なあ、大丈夫か? どこが悪いんだ? 暑さにやられた?」 戸惑ったように尋ねながらも、その大きな手は幻太郎の背を摩った。 ぱ、と顔を上げれば、今にも泣き出しそうな表情をした帝統がいた。そんな彼に、微笑んでみせる。 「なーんてね、嘘ですよ」 目の前の男はぽかんと口を開けて、しばらく幻太郎を見つめた。 怒鳴るかな、と考えていたら、そのまま強く抱きすくめられた。あまりにも力を込めるものだから、腕や背中の骨が微かに音を立てた。 「いた、痛い、痛いですよ、帝統!」 ぺし、と頭を叩いても、彼は腕を解かなかった。 「いてえのはこっちだよ」 掠れた声でそう言って、さらに力を込める。幻太郎は、その背中に腕を回すことができなかった。 そんなやさしい目で見つめないでくれ。 そんなあたたかい掌で触れないでくれ。 そんな甘い声で名前を呼ばないでくれ。 年甲斐もなく我儘を言って泣き喚けたら、目の前の男はどんな表情をするだろうか。 やっと幻太郎の身体を解放した彼の瞳の中で、燃え尽きる間際の夕日の色の光が揺らめいていた。 はく、と唇の間から漏れた息が湿っているのは、きっと帝統も分かったはずだ。 「そうやって、嘘つくおまえのこと、嫌いだ」 帝統は低い声でそう囁いてから、幻太郎に口づけた。重たくて苦い煙草の味。煙草代を浮かせば、食いっ逸れることもないのに、馬鹿だなぁ。そう思ったけれど、口には出さなかった。 唇を離した帝統の下唇を、指でなぞる。 「小生のこと、嫌いですか、」 「うん、」 「奇遇ですね、私もです」 幻太郎から口づければ、彼は唇の端を引き上げた。駆けに勝ったときのギャンブラーの表情みたいにも、いたずらが成功した幼い子どもの表情みたいにも、見えた。 「嘘って、言えよな」 何度目かのキスにももう慣れた。友達じゃこんなことしないのになぁ、と夏の熱で浮かされたぼんやりとした思考で考える。 ビルの谷のあいだに、大きな太陽が焼け落ちていくのを、幻太郎は視界の片隅で見ていた。
#Caturday
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If a man farts in the forest and no woman is around to hear...will he still ignite the forest?
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