[プラシド・ドミンゴ出演 ヴェルディ『ふたりのフォスカリ』]
8月15日は聖母マリア昇天の祝日なので、この日が近づくと音楽祭のスケジュールもややイレギュラーになってくる。というわけで、本日は、午後3時半という、いささか中途半端な時間からスター公演のオペラ上演に出かけてきた。
プラシド・ドミンゴは、今年75歳。全盛期は三大テノールのひとりとして鳴らしてきたが、もともとはバリトン歌手としてスタートしている。年を重ねてから高音がやや苦しくなったのか、だいぶ前からバリトン・パートを歌うことが多くなり、数年前にはたしか正式にバリトン転向宣言もしているはずだ。
近年のザルツブルク音楽祭に関して言うなら、2014年にネトレプコとの『イル・トロヴァトーレ』共演を予定しておきなから、この年は初日だけ歌ってあとは全日、風邪でキャンセルした。翌年も同じプログラムが予定されていたが、音楽祭開幕直前、「今後はトロヴァトーレのルーナ伯爵は歌わない」という、いわばロール引退宣言みたいなものをしてしまい、オペラは実質降板、急遽、ドミンゴの「歌曲の夕べ」が追加で組まれていた。そして昨年はマスネーの珍曲、『タイス』を一夜だけ歌ってお開き。昨年の公演後のインタビューがやけに記憶に残っているが、「来年はもう少したくさん出ます」というようなことを、一夜限りでザルツブルクから去るスターを惜しむファンに向かって笑顔で語っていた。そして、プラシド・ドミンゴは嘘はつかない。今年もここに帰ってきて、今回は2回の日程で、ドミンゴ自身が最近スカラ座はじめあちこちで歌いならしているヴェルディのかくれた名作、『ふたりのフォスカリ』を舞台に乗せた。
といっても、昨年の『タイス』と同じく、今年もまた衣装をつけない演奏会形式での上演である。これで演奏者の体力的負担もだいぶん軽減されるし、何より、本格的なオペラだったら、いくらスターのドミンゴでも1、2回のみの公演でおしまい、ということはさすがに許されないだろう。そのあたりを考え合わせると、この演奏の形も十分アリだと思う。
プラシド・ドミンゴ、この年齢でオペラを一曲歌いこなせること自体がすごいことだと思う。三大テノールを考えても、パバロッティはとっくに鬼籍に入っているし、ホセ・カレーラスは若くして病を得て、すでに長いことオペラの舞台には立っていない。ドミンゴ、と聞くと、知らない人は「もう歳だからただ舞台に立つだけでしょう」とか「ドミンゴを『聴く』のではなく『見に』行くのね」とか、意地悪なことを言い出すのだが、まあYouTubeでもなんでも、一度彼の歌を聴いてほしいと思うのだ。…私は年代的にカレーラスを舞台で観るには少し遅すぎたし、ドミンゴもテノール・パートではほとんど聴いていない。それでも、ウィーン国立歌劇場で観た「シモン・ボッカネグラ」などいくつかのバリトン・パートは、かつてのリリカル(寄りの)テノールを思わせるような繊細さと甘さを帯びた丁寧な歌唱で、本当に心に響いた。ドミンゴはまさに、歌の心を知る人だ。年齢のこともあるし、また、大腸癌を患ったりもしているが、とにかくベストな歌を歌うためにすべてのコンディションをここに合わせてくるので、必然的に素晴らしい歌しか生まれようがない。それができない時はおそらく出演しない選択なのだろうが、2014年のトロヴァトーレは別として、通常はほとんどキャンセルというものをしない歌手でもある。
『ふたりのフォスカリ』は、歴史がらみのストーリーのとっつきにくさと、1時間半足らずという中途半端な演奏時間がきらわれて、ドミンゴが最近になって取り上げるまでは、現代の歌劇場で上演される機会がほとんどなかったようだ。かつてイタリア・オペラを偏愛していた私もやはり、舞台で観るのは今回が初めてだ。しかし、聴いてみると、前期から中期にさしかかるヴェルディならではの、なんとも言えない魅力を秘めた作品である。美しいメロディーのアリアや多重唱がまるでメリーゴーラウンドのように次々繰り出されて、ベルカント的な楽しさと魅力は残しつつも、この時期になるとプロットに合わせたシリアスでドラマティックな音楽作りもしてくるので、見ている方もストーリー展開とともにある程度の感情移入が可能になってくる。ドニゼッティやベッリーニだとまだこれができないので、オペラを見る感動が、ほぼ歌手の技巧だけに限定されてくる。この障壁が取り除かれることによってこそ、オペラは近現代人の感覚にも自然に受け入れ可能なドラマとなってくるわけで、ここにこそヴェルディの最大の魅力と音楽史的意味があるのだと、一人勝手に思っている。
フランチェスコ・フォスカリは、ルネサンス期のヴェネチア共和国にて長年ドージェをつとめた実在の人物で、ヴェルディは1842年ころ、カッラーラの友人マッフェイスのサロンで、イタリアロマン主義の画家、フランチェスコ・ハイエスと、このいにしえの悲劇の人物を話題にしたことから発展して、この作品が成立したという。政敵の奸計にはまって息子を失い、失意のうちにドージェの職を去るフランチェスコ・フォスカリの物語は、英国の詩人バイロン卿も戯曲化しており、このバイロン作品もまた、ヴェルディを大きくインスパイアしたようだ。
オペラとしては、父フォスカリをどっしりと据えながらも、華をもたせるのはなんといってもテノールが歌う息子フォスカリである。息子ヤコポ役のジョセフ・カラヤの方が父より出番も早いわけだが、この時期のヴェルディ、ハイCが出て当たり前、的な曲を書いてくるので、まだドミンゴ様が舞台を踏まないうちから、さながら左中間にホームラン飛びまくり、といったおもむきである。カラヤは、難曲をやすやすと、しかもリリカルに歌いこなすじつに優れたテノールだ。歌唱が見事すぎてしばらくはまさに口あんぐり、だったが、長く聴いているうちに少しだけ音程が不安定なのが気になった。ヤコポの妻、ルクレツィア役は中国のソプラノ、ユ・ガンクン。東洋人特有の細く繊細な声は美しかったが、ソロパートでコロラトゥーラの音を回しきれていなかったし、声もパワーに欠けるのは残念だった。オケはモーツァルテウム管弦楽団。指揮をとったのはミケーレ・マリオッティ。菅パートの立ったダイナミックな演奏で、こちらはなかなか好感が持てた。
そしてプラシド・ドミンゴ。フォスカリ役は最近あちこちで歌いまくっていることもあるだろうが、昨年の『タイス』のように、初盤は声がまだ出きらない、というようなことも全くなかった。そして、演じ慣れていることは何より大きい。オケをバックにしたコンサート形式なのに、きっちり演技と表情がついている。長いあいだ権力の中枢に立ってきたのに、若い息子の失墜をどうにもしてやれない父親の苦悩が、声の抑揚だけでなく、ちょっとした指の動き、表情の翳りでこの上なく饒舌に表現される。もう、その存在がフォスカリその人になっている。ドミンゴのすごさは、歌のテクニックだけでなく、この演技力の中にも間違いなくあるだろう。
さて、ドミンゴは間違いなく音楽祭の最大のスターである。今年の出演者で同じレベルで語れるのはネトレプコとムーティと、あとは賛否はあるかもしれないが、『アリオダンテ』に出演予定のローランド・ヴィラソンがわずかにかするかもしれない。まあ、ヴィラソンの名前をあげたら、おそらく、まだまだ何年か早い! と叱責されそうだ。とにかくドミンゴはカラヤンとも共演しているし、キャリアから言っても特別な存在だろう。なので!!! 、もう今日は客席が異様な熱気を帯びていた。音楽祭も日程が終盤に近づいたが、このころになるとスター公演も多くなり、明らかに雰囲気が違ってくる。今日はオケ席が舞台上なので、オーケストラピットに8列ほど椅子を並べて客席を増やしているが、そこの特設席にも、もう熱狂的なファンのような人もたくさんいた。
まず何より、ドミンゴ様すごい、と思ったのは、その舞台入りの時、オーケストラ演奏の途中でもバーっと拍手が立つことだ。なにこれ? 歌謡ショーか…。(昨年はこんなのなかった…)
歌を歌い切るごとのブラヴォーもすごいのだが、とにかく一種恐怖を感じたのは終演後。今日はオケピは除いて数えて前から三列目にいた。オケピと本来の座席の間には隔てる壁がある。終わってアプローズに入る時、この前列の壁ギリギリのところまで、もうそれはラッシュアワーかあるいは何かのパニックのように、後方からダーッと人が押し寄せるのである。スマフォだけではない。望遠レンズつきの一眼レフを抱えた人も大勢いて、なんだかマグナム集団のようである。そしてもうそこからがフラッシュの嵐。みんなカメラをオンにしてすでに構えていて、ドミンゴが出てくるといいところで撮影ボタンを押すので、もう周囲が異様な明るさである。このパパラッチ集団は、これまでの音楽祭参加歴のうちで一番すごい体験だったと思う。
変なお客もたくさんいた。私のななめ前に、着古してヨレヨレの民族衣装(ディアンドル)をまとった薄汚い感じのおばさんが座っていて、上演中も、フラッシュおよびシャッター音が出ないように設定した古いライカを構えたまま、ほぼのべつまくなしに撮っている。ちょっと見えてしまったのだが、手元のクリアファイルの中にはドミンゴの生写真がたくさん。そして、その写真を他の人に売って?いるような雰囲気もあった。
この人なんかは、どのくらい長くドミンゴのファンをやっているのだろう。そして、いったい彼の何を聴いてきたのか。
今日のフォスカリは本当に素晴らしかった。父フォスカリはひたすら苦悩の役柄だ。何曲かあるアリアの歌い終わりを、きりりと歌い上げるというよりは、ふっと嘆息で締めるような歌い方をしていて、主人公の心がそこに丁寧にこめられていた。息子の死、自身の失脚に手をこまねいたまま、終曲の最後の歌詞、「おお、我が息子よ」"Mio figlio, mio"の語の重さといったら…。衣装なし、舞台なしの演奏会形式で、ここまで聴き手の心を揺さぶれる演奏はあまりないと思う。この境地に達しているドミンゴが、もはやすごいとしか言いようがない。
ただ、聴き手はどうなのか。ちゃんとそこまで感じてあげれているのか。まあ、写真など撮っている人は私なんかよりずっと感性が研ぎ澄まされていて、そのへんは上手に精神を仕分けしているのかもしれないが、もし自分だったら、カメラを構えたまま、あるいはシャッターチャンスを狙いながら、ここまで深い歌の気持ちを感じるところまでは心のスイッチが入っていかないだろう。ドミンゴは半世紀以上オペラを歌ってきて、ついにここまでのレベルに達したのだ。なのに、オーケストラ演奏の途中で拍手がわき、そして、役をここまで作り込んでいるのに、歌い終わった時の沈黙の間さえ味わってもらえない。それは歌手としてあまりにも悲しすぎると思うのだ。こうなってくると、もう彼の存在は、ただそこにいて、生写真撮りたいとか、下手をすると何かの犯人とかスキャンダルメーカーと同じレベルになってしまうだろう。熱烈なファンはファンでいいのだが、やはりファンにも社会的な責任と、そして、スターに対する道義というものも、ある程度はあると思うのだ。日本でも、芸能人がプライベートで食事中や移動中にスマホで撮影されていたりとか、なかなかいろいろ問題があるのは知っている。ただ、オペラ劇場がこんなホラーな場になるのを実体験してしまうと、本当に改めて複雑な気分になってくる。
何より、75歳を超えた名歌手。当たり前のようにこれほど完成度の高い演奏がこれからもずっと聴けると思うのは間違いだ。ファンであればなおさら、一回一回を味わって聴いた方がいいと思うのだが、彼らにとっては、一回一回の撮影が大事なのかもしれない。