ひとり目の哲学者は西田幾多郎です。本書では言及していませんが、彼の思想は実際、私の以前の著作『身体化された心―仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』(神経生理学者フランシスコ・ヴァレラと文化人類学者エレノア・ロッシュとの共著、邦訳、工作舎、2001年)で論じた仏教と認知科学の架橋に関連しています。西田の「行為的直観(enactive intuition)」という概念は、認知科学において認知を身体化された行為であると捉える考え方を強調した、われわれの「エナクティブ・アプローチ」を支持しています。西田における「直観」は、主観と客観が分かれる前の意識(awareness)、あるいは主客を超えた意識である直接経験を意味しています。初期の著作のなかで西田は「純粋経験」という術語を使いますが、それはウィリアム・ジェームズから取られたものです。純粋経験は主観ー客観という二項対立以前の、あるいはそれを超えた経験の基礎的な形式のことです。「行為(Enactive)」とは、受動的な受容とは対照的に、行動(action)によって特徴づけられるもののことを意味します。西田の後期の著作における「行為的直観」が意味しているのは、純粋経験は受動的でもないし身体から切り離されたものでもないということです。すなわち、私たちが自分の身体を通じて活動しているということがすでに意識的であるということであり、私たちは世界によって形づくられながらも世界を生みだしているということなのです。西田にとって身体と世界は、常に歴史的な存在です。それゆえ純粋経験と行為的直観もまた、具体的な歴史的状況のなかで生じるものであり、それらは形成されつつ形成するものであります。芸術は行為的直観のよい例になるでしょう。なぜなら芸術家の創造においては、直観に活動(アクション)が伴い、また活動に直観が伴うからです。西田はまた、科学にもこのことが当てはまると論じています。科学的な観察と実験には、研究者コミュニティにおける特定の器具と身体を通じた直観と活動、あるいはそれらとともにある直観と活動が必要とされます。行為的直観は科学の源泉なのです。このような考えは、物理学者アダム・フランクとマルセロ・グレイザーとの共著である私の近著『盲点:なぜ科学は人間経験を無視できないのか(The Blind Spot: Why Science Cannnot Ignore Human Experience)』(未邦訳)の中心的なテーマです。
— 『仏教は科学なのか 私が仏教徒ではない理由』(Evan Thompson著、藤田一照監修、下西風澄監修、護山真也訳、Evolving、2024, ISBN 978-4908148279)pp.5-6














