国家対市場を越えて:市場の外部性と政治の外部性
政府は何をすべきか―外部性の政治経済学
G.タロック(春秋社)
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ゴードン・タロック著、1970年出版の “Private Wants, Public Means: An Economic Analysis of the Desirable Scope of Government" の邦訳。ミクロ経済学や公共経済学は「市場の失敗」を明らかにし、政府の介入によってこれを克服できると考え、政府の経済活動を正当化する根拠としてきた。本書においてタロックは正統な経済学の「市場と政府の領域をどのように線引すべきか」という問題設定に異論を投じた。
政府の役割はまず外部性に求められる
外部性とは、ある経済主体の活動が直接かかわりのない第三者に影響を及ぼす効果と定義され、効用関数や生産関数の相互依存として捉えられている。この相互依存性は外部性を生み出す活動に市場取引が成立するならば消滅するものである。市場取引が成立するか否かは、取引費用とそれが齎す便益の大きさに依存するが、取引費用がその便益より極めて大きいため、市場が成立しないことに外部性の根本的な問題がある。そこで、私的活動が他の個人に及ぼす外部性を処理する機構として、政府の存在は正当化されてきた。しかし、民主制下の政府活動には集合的意思決定を必要とし、多数決ルールでは誰かが不利益を被ることが明らかである。従って、市場の失敗として外部性の存在だけでなく、政府の活動自体も一部の個人に「政治の外部性」という「政治の失敗」としてのもう一つの外部性を引き起こすことになる。
政治過程にも取引費用は存在する
外部性を解決することで得られる便益が同じであれば、必要となる取引費用の観点から、市場機構より政治機構のほうが望ましいと判定できるときにのみ、政治による解決が選択されるべきだとタロックは主張している。政府の役割は、政治の外部性を見過ごせるほど重大な外部性だけに限定されるべきなのである。また、政府活動には外部性をはじめとした資源配分の効率性に関わる活動だけでなく、社会の一部の人から他の人へ所得や富を再分配する活動も含まれている。再分配活動は市場機構とは関係なく政治力によって行われることから、タロックはこの領域における政府の活動を「公的手段による私的欲求の充足」に過ぎないと異議を唱えている。再分配の手段として政府が利用されるようになると、効率性の観点から政府が取り除ける外部性とは逆に、政府自身が外部性を生み出す状況に陥る。もし、政府がこのような分野への介入をやめて市場に任せておけば、外部性が発生したとしても些細なものに過ぎないとタロックは考える。
政治過程による再分配の問題は「レント・シーキング」の名の下で、さらに分析が進められた。
ゴードン・タロック教授について
さて、本書の著者であるゴードン・タロック(Gordon Tullock)教授は、バージニア学派の中心的存在であり、ブキャナンと共に公共選択論を提唱した。ブキャナンもタロックもL.v.ミーゼスの経済学に大いに影響を受けているが、特にシカゴ大学で法学の博士号を取得して政治学者として出発したタロックは、『ヒューマン・アクション』こそが名実ともに私を経済学者へと転じさせたと述べている。しかし、タロックもブキャナンも自身をオーストリアンであると考えたことは一度もなく、タロックに関してはslumlordさんのブログでもちょっと触れられていたが、自身を「リバタリアンではない」と考えているようだ。詳しくはこちらの”How I Didn’t Become a Libertarian"(p.360, PDF)をご参照頂きたい。また、ブキャナンのノーベル経済学賞後のバージニア学派の宣言書ともいえる『財政赤字の公共選択論』 の中では、ココやココで触れたような財政赤字へのケインズ革命の影響に対するブキャナンの主張に反論を加えているので興味を持たれた方は是非チェックして欲しい。














