久しぶりに、ある小さな美術館に足を運んだ。選び抜かれた展示品の数々が、まだ見ぬ世界の魅力を静かに教えてくれる雰囲気が大好きだった場所。しかし様相はすっかり変わり、もはや美術品は経済原理と権威づけのための「コンテンツ」として位置づけされていることに、大きなショックを受けた。
美術であれ、音楽であれ、そして昆虫であれ、それらが持つはずの意味を換骨奪胎され、別の目的のための手段としての意味だけで「消費」されていくことに、私は強い抵抗感と嫌悪感がある。それはもちろん、例えばバッハの音楽をカフェのBGMとして使うことに目くじらを立てているわけではない。でもバッハの音楽の持つ意味を、BGMとしての利用価値のみで評価しはじめたら、どうだろうか。
様々な事情は推察できるとしても、美術館という社会に対して価値を伝える役割を担うはずの媒体が、そもそも価値の理解を試みる姿勢そのものを放棄してしまったように感じられ、悲しかったのである。
優れた美術や音楽を作り出す人々の才能や営為、昆虫の驚異の造形を生み出す進化のメカニズムは、私たちの日常的な価値基準では、簡単に説明できるものでも容易に理解できるものでもない。だからこそ非日常の世界に触れるチャンスは、私たちに驚きとともに全く新しい視点の喜びを与えてくれる。簡単に理解できない複雑な事象や概念に対して、不要のものとして切り捨てるのではなく、そこにこそ何か新しい扉があることを期待しながら「わからないなりにわかろうとする」ことが、私たちの生きる日々の、ひいては社会の「豊かさ」を形作ることにつながるはずだと、私はずっと考えてきた。
つまりそれは自らとは異なる価値観/世界観/構造を有するかもしれない他者の存在を認め、それとコミュニケートしようとする姿勢そのものである、と言ってもよい。それがあってはじめて対象のクオリティの意味を質的に理解することができるはずである。
私はそれをよく「リスペクト」と表現する。
自然観察はこの「リスペクト」の感覚を人々に喚起するのにも優れた場である。自然の造形やしくみには人為が介在しない。それに接することは眼の前に実在する異世界と一対一で直接対峙する機会に他ならない。どんなに自分には理解できなくても自然の驚異は逃げようもなくそこに存在するのである。それは自然という圧倒的な他者を鏡とした自分自身の相対化でもあり、これまで聞こえなかったそうした他者の声に静かに耳を澄ます時間でもある。それこそが「リスペクト」に他ならないのではないか。それを様々なスキルを活用して少しだけアシストするのが、ネイチャーガイドの役割である。
私がネイチャーガイドのスキルを、科学と社会をつなぐことに活用しようと模索を続ける理由は、まさにここにある。科学を過剰に権威づけてその正統性を押し付けるのではなく、逆に文脈のコンテンツとして消費するのでもなく、基礎科学という営みの持つ意義と魅力そのものを実効的に伝えるには、まず科学と社会の間でコミュニケートするための土台形成が不可欠であると実践の中で痛感してきた。自然観察の場が醸成する「リスペクト」は、その土台を幅広い層の人々で共有する一助となる手応えがある。研究者として、またガイドとして、自分がそこにどう貢献できるか、考え続けていきたい。
写真は、鳥の糞にそっくりなクロオビシロフタオ Oroplema plagifera の興味深い姿。
















