Japanese Poster: Tokyo Midtown Design Touch. Ryoji Tanaka (Semitransparent Design). 2015

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Japanese Poster: Tokyo Midtown Design Touch. Ryoji Tanaka (Semitransparent Design). 2015
memo712
コピトラがフィジカルだとすると,ポストインターネットはデータの流れをどのように切断するかが重要になっている.
シルクスクリーンの絵の具の盛り方だったり,上田さんはインターネットを意識していないけど,問題意識はポストインターネットと通じる部分があるかもしれなかったり.
インターネットへの反応が加納さんと上田さん,迫さんとで異なるところが面白かった.
フィジカルな作業の細かさとデジタルの細かさの中央のちがいを明確にして考える必要がある.
『写真は魔術』のなかにあった言葉
イメージが正しく機能するための基本条件は,それがイメージらしく見える,ということになるでしょう.[Paradoxically, a primary criterion of the success of an image is that it must resemble an image. ]ショーン・ラスペット
イメージがイメージらしくあることが,コピトラとか今の写真の問題があるかもしれない.イメージがイメージに似ていること.何をイメージと感じるのか? その部分が揺らぎ始めている? 極薄の彫刻?
あと,冗談でコピトラとセミトラは似ているといったのだけれど,セミトラの本に書いてあった千房さんのテキストから考えると,フィジカルとデジタルとのちがいをこのふたつのグループから考えることができるかもしれない.
ものを作るという行為は本来「退屈」を減らす行為なのではないか.目の前の美しさに目を奪われれば,退屈は失われていく.しかし,美しさを目前にしながらも退屈を感じてしまう,そんな二重化された感性をもつことによって,構造的に表(スクリーン)と裏(ソースコード/データ)から成り立っているデジタルな世界から現れて来た彼らが,本当に美だと感じているものに近づくことができるのではないだろうか.(p.7)
半透明な記憶から,千房けん輔 in セミトランスペアレント・デザイン
「構造的に表(スクリーン)と裏(ソースコード/データ)」とフィジカルとの関係性.加納さんの大理石の作品からのコピトラの表(スクリーン)からのシルクスクリーンの穴とそこから滲みでて表面に盛り上がる絵の具との関係は考えると面白いかもしれない.
Japanese Exhibition Poster: Boring/Bored. Ryoji Tanaka (Semitransparent Design). 2014
memo542
セミトラ「退屈」展の《6PC 1MC》.ひとつのマウスで5つのカーソルを動かす.どこか落ち着かない感じがしてくる.画像=記号を扱った作品がピクセルとそれが表す記号との「1対1」対応を崩したように,ここでもマウスとカーソルとヒトとの「1対1」対応が崩れている.崩れた結果として,どこか落ち着かない.
(いや,画像の作品は符号化と復号化の繰り返しだから,厳密に1対1対応をしようとするけど,コンピュータの外でそれを行おうとするから,どうしてもその対応がズレていくのが興味深いということかもしれない)
マウスの作品に戻ると,これは今回の退屈展で,ヒトがコンピュータのなかに入り込める,これは言い方がおかしいかもしれない.ヒトがコンピュータを操作するという実感がもてる唯一の作品になっている.でも,セミトラはその前提であるマウスとカーソルの「1対1」対応を崩しているから,そこにズレが生じる.今回,ズレが生じるのはヒトの感覚である.普段,マウスとカーソルを使っているヒトが多いからこそ,そこにズレが生じる.コンピュータにとっては何一つズレていない.1つのマウスで5つのカーソルが動くようにプログラムされているので,その通りに動いているだけ.カーソルがディスプレイの枠の外にでてしまうのも,そのようにプログラムされているから.5つのディスプレイとその周りの空間がXY座標で区切られていて,その座標とマウスの動きとが対応しているだけのこと.でも,ヒトは5つのカーソルと,ディスプレイの枠の外にでるカーソルを見ると「あれっ」っと思う.
「退屈」展は作品の多くが再帰的構造をとっているが,その再帰のプロセスをヒトは眺めるだけであったり,意図せずそのプロセスに入り込んでノイズとして「機能」したりするのだが,《6PC 1MC》ではヒトは入力ソースとして機能している.再帰構造の画像の作品はヒトを必要としていないと書くのは大げさだけれども,この作品はコンピュータの論理構造をノイズあふれる世界に構築してきて,その反応を見る作品と考えられるので,そこではヒトも温度や湿度,地震によるカメラの揺れなどといった論理世界を表現した回路に対するノイズのひとつにすぎない.しかし,《6PC 1MC》はマウスが何かによって動かされる必要がある.それはヒトでなくても,犬でもカメでもウォンバットでも,あるいは電動ドリルでもいいかもしれない.こう考えると別にヒトでなくてもいいのか.ただそれらヒトを含めた何かが「ノイズ」ではなく「入力ソース」として定義されていることが,画像の作品と異なるところなのでだろうか.
memo541
セミトラトーク
Googleはプログラムでデザインしている. Googleはデザイナーがいらない.
ビッシとつくるというではないところに理由を求める. 仕組みをつくるところをデザインする.
見た目の賑やかしと無駄な動きがどうでもいい. 構造に対する思考. システムが面白いとかに興味がある.
色を決める理由.そこはセンス! センスを極力減らしていく.
プログラミングは誰でも書けるから,プログラマーのスタンスの問題.
オリジナルから状況に応じてデータを変化させて表示させるシステムを考えたい
memo540
僕がわかるのディスプレイのこちら側なのだけれど,向こう側で起こっていることも想像してしまってもいる.でも,それはとても不確かなもの.コンピュータがどのように作動しているのか.その結果としての画像.それを見ているときに,画像に美しさを感じるとともに,それを成立させている演算も考えてみる.でも,それはわからない.画像と演算について記述したテキストは理解できるけども,演算の部分をしっかりとは理解できない.画像にはしっかりとした理解がない.演算にもないのかもしれないけれど,少なくとも演算の部分はコンピュータが作動しなければならないから,それを基準として「確かな」理解というものはありそうな感じがする.
セミトラ展を見ているとき,ディスプレイに映る画像がウォーホールのエンパイアステートビルの映画みたいだな(僕はすべてを見たことがない)と思いつつも,それで「きれいだな」と思いつつ,上に書いたことの発端を考え始めていた.
memo539
筆者の考えでは再帰とは,もともとヴァーチャルな記号あるいは記号系の中で,在る内容をその内容でなければならないものにする一つの手段である.記号あるいは記号系の仕様を通して内容に意義を注入し,凝固させる一つの手段である.むろん,再帰以外の他の方法でも是態は復旧されようし,何らかの再帰の不動点であるからといって,必ずしもそれが是態を勝ち得るとは限らない.本来,意義とは,実世界に即して獲得されるべきものであろう.しかし,汎記号主義の無根拠な記号世界において意義を生み出さなくてはならないなら,再帰は,それを有せしめる一つの手段であると考えられるのである.(p.164)
ここで,使い捨ての記号を用意することと記号間の依存関係は空間的なものであることに注意すると,参照透明性の制約は,状態遷移における値,つまり記号の内容の変化の時間的側面を可能な限り空間的なものへと変換することであることがわかる.残った時間性こそは,情報記号の時間性の本質で,それは⊥から値への変化である.つまり,記号の時間性とは⊥から値への変化に集約される.(p.202)
記号と再帰:記号論の形式・プログラムの必然,田中久美子
このあたりから「退屈」と題されたセミトラ展を読み解けるのではないだろうかと思いつつ.
セミトラ展はところどころ「再帰」している.メディアがぐるぐるしているそこでの時間の流れ方の変化を捉える・感じることが重要なのかなと考えている.下のような大きなショックではないけれど,ネットと絵画と映像とそれらをつくりだしながら見えないプログラムとその再帰構造がぐるぐるとしていく感じ.そのなかでの時間性の変化が「退屈」に結びつくのではないかなと思いつつ.
ところが,テレビに映った地球の映像は,その Erde が疑いもなく一つの物であると事実をハイデッガーに突きつけた.ハイデッガーが生きた環世界のなかで,それまで大地(という条件)であったものが,地球(という物)になってしまったのだ.しかもしれがテレビ画面にすっきり収まっているのだ.これがハイデッガーの環世界への不法侵入であり,彼の大地観を破壊するショックでなくて何だろうか?(p.328)
暇と退屈の倫理学,國分功一郎
memo538
東京行ってきて,セミトラ展ほかいろいろな展示を見てきた.それを振り返りたいなと思うけれども,なかなか時間がない.ないない言っていても仕方がないので,書くしかない.セミトラ展についてはすぐにでも書きたい.「退屈」というタイトル.実際に展示を見た時に感じた「反復」という感じ.「退屈と反復」ということで書いてみたい.反復というかズームというか,そんな感じの繰り返しがセミトラ展には溢れていた.反復していくなかで感じる退屈.でもその退屈から創造が生まれる.このプロセスは誰にでもあることだと思うけど,それをアナログとデジタルの境界で活動してきたセミトラが言うことの意味を考える必要があると思う.なにを反復していて,どこが退屈なのか.そしてその退屈はもちろんポジティブな意味であって,そのデジタルとアナログという境界をできるだけないものにしてきたセミトラが考える「退屈」を考えないといけない.