ラベンダーベッドの石畳を、エランはただ歩いていた。
どこへ行くとも決めていなかった。
次の依頼はある。
会わなければならない顔もある。
だが今日だけは――膝の裏あたりに溜まった鉛のような疲れが、それらすべてを少しだけ先送りにしていた。
昨夜の野営で眠れなかったせいか、それとも仲間と交わした言葉が胸の奥でまだ棘になっているせいか、自分でもよくわからない。
石畳の目地を数えながら歩いていると、足が、ふと止まった。
ただ――路地の奥から、葉擦れのような音が聞こえた気がした。
風はない。それでも確かに、何かが揺れている。
引き寄せられるというより、逃げ込むように、エランは足を動かした。
扉は古い木製で、銅製の取っ手が長い年月に磨り減っていた。
看板には、細い文字で「Teapot Marrow」とだけ刻まれている。
腐葉土と茶葉と、それから――紙の匂い。
古い本が積み重なってきた時間の匂い。
外の喧騒がまるで嘘のように遠のいて、エランは思わず息を吸い込んだ。
肺の奥まで、その静けさが満ちてくる。
一歩踏み込むと、足元の床板がかすかに鳴いた。
視線を上げると、左右の壁を埋め尽くす書棚が目に入る。
赤い背表紙の本が幾重にも並び、その隙間から蔦が這い出して、梁へ、柱へ、とやわらかく手を伸ばしていた。
鉢植えのモンステラが窓際で大きな葉を広げ、外からの光をやんわりと受け止めて、床に斑模様の影を落としている。
棚と棚のあいだには吊り下がった蔓が垂れ、そこに小さな白い花が点々と咲いていた――咲いているのか、それとも時間が止まっているのか、判然としないほど静かに。
奥の窓から光が差し込んでいる。
木立の向こうから来るその光は、まっすぐではなく、葉に一度受け止められてから室内へ届くので、どこか夢の中の光に似ていた。
カウンターの奥に彼女はいた。
アウラ族の女性で、淡い金の髪に黒いカチューシャ。
種族特有の白い鱗が静かに光を帯びている。
黒いブラウスに金のボタン。
袖口からのぞく手首には、アウラ族の綺麗な鱗が。
眼が――その眼が、琥珀というより燃えている橙色で、じっとエランを見つめている。
笑っているのか、見定めているのか、あるいはその両方か。
口元には、かすかな弧が浮かんでいた。
窓際の席を選んだ。
モンステラの葉が肩のあたりまで垂れてきて、まるで植物に匿われているようだった。
テーブルの天板は厚い木で、長く使われた跡が刻まれている。
傷というより、時間の地層だ。
カウンターの奥では、彼女が乳鉢に向かっていた。
乾燥させたハーブを静かにすり潰している。
こりこりという小さな音が、店内の静寂の中でやけに鮮明に聞こえた。
邪魔な音ではない。
むしろその音が、静けさの輪郭を際立たせていた。
ときおり彼女は乳鉢を置いて、棚から小瓶を一本取り出し、中身を確認してから戻す。
それだけの動作なのに、迷いがない。
自分の場所で生きている人間の、静かな確かさがあった。
しばらくして、湯気の立つカップが運ばれてきた。
青い紋様の入ったティーカップで、ソーサーの端に乾燥した花びらが一枚添えられている。
それだけだった。説明はなかった。
一口含むと、最初は柑橘が来て、それから土の香りが追いかけてきた。
甘くない。苦くもない。ただ、深い。
時計の振り子が揺れる音がした――ずいぶん古い置き時計で、ケースに模様が浮き彫りになっている。
その隣には開いたままの本が伏せてあった。
読みかけなのか、それとも誰かのために開けてあるのか。
依頼のことも、ギルドのことも、胸に刺さったままの棘も――思い出す前に、茶の湯気がやんわりと遮ってくれた。
建物全体が一つの生き物みたいだ、とぼんやり思った。
カップが空になったとき、彼女はカウンター越しにちらりとこちらを見て、何も言わなかった。
それが、心地よかった。
「もう一杯いかがですか」でも「ゆっくりどうぞ」でもなく、ただ、目が合っただけ。
また乳鉢の音が再開して、こりこりという律動が店内に戻ってくる。
エランはそれを聞きながら、もう少しだけ、カップを両手で包んでいた。
やがてコートを拾い上げ、立ち上がった。
ギルの枚数を確認して、小皿の上に置く。
口から出た言葉は、挨拶ではなかった。約束に近かった。
彼女は小さく頷いた。燃えている橙色の眼が、一瞬細くなった。
石畳の感触が、足裏に戻ってくる。
ラベンダーベッドの午後の光が、さっきより少しやわらかく見えた。
荷物の重さは変わらない。
胸の棘も、まだそこにある。
けれど――肩のどこかが、わずかに下がっていた。それで十分だった。
路地の角を曲がる前に、エランは一度だけ振り返った。
木製の扉はもう閉まっていて、看板だけがそこにある。
Teapot Marrow――その文字は、呼んでいるというより、待っているように見えた。
基本情報
Cafe「Teapot Marrow」
MeteorDC Mandragora ラベンダーベッド 29-41
不定期営業
#TeapotFF14