“Moriyama Daido’s Tokyo: Ongoing” Retrospective Exhibition Posters - Link

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“Moriyama Daido’s Tokyo: Ongoing” Retrospective Exhibition Posters - Link
Tokyo Museum of Photographic Art, Ebisu, Tokyo
Leica M2 with 50mm f2 Summicron lens
戦略会議 #21 アートライティング/ ゲルハルト・リヒター《オイル・オン・フォト》TOP MUSEUM
れら今回は書き始めたはいいのだけど、おそらく答えにはたどり着けないと思う。
TOP MUSEUMで開催中の《イメージの洞窟》を観てきた。
本展は洞窟という自然の中からアートが生まれ出てきた場所をテーマとした展覧会となっている。洞窟そのものをモチーフとした作品も当然あるが、それよりも「イメージの洞窟」を概念的に取り組んでいる作品のほうにやはり惹かれる。今回で言えばゲルハルト・リヒターがそれにあたる。
元々ゲルハルト・リヒターの作品を楽しみにして足を運んだのだが、ドイツ史上最高の画家と言われる男の巨大さにやられることとなった。
ラスコーの壁画がアートのはじまりだと言われている。
アートのはじまりはフルッサーの言う「伝統的な画像」のはじまりであり、「洞窟の比喩」としてプラトンは現実に見ているものへの認識、イメージとの関係を説いた。現実世界を二次元へと抽象化することのはじまりは「ワタシ」という自己を認識しはじめたということだ。つまり同時に世界をイメージとして認識し始めたということだ。
志賀理江子、オサム・ジェームス・中川、北野謙、ジョン・ハーシェル、フィオナ・タンと展示が続き、最後がゲルハルト・リヒターであった。
ゲルハルト・リヒターの展示はいくつかの時代に作られた《オイル・オン・フォト》の作品群であった。展示された《オイル・オン・フォト》は写真に油彩、もしくはエナメルによってペイント(ペイントと言っていいのかは確信がないが。。。)したものである。
割と近作の2016年のものが2点、2015年の1月の連日の作品が5点、2011年にテートモダンで作られたMuseum Visitという234枚の作品群のうちから5点と1999年のリヒターの家族のものが1点が展示されていた。
同様の作品群は以前にもワコウ・ワークス・オブ・アートのギャラリーやアートフェアでの出展時にブースでも観たことがある。実は、ゲルハルト・リヒターとオラファー・エリアソンは同様の理由であまり深く解釈を進めたことがなかった。いいことではないのだが、ある種の無条件に良いとしてしまっているところがあるのだ。
ただ、先日グレゴール・シュナイダーの流れで、ふとオラファー・エリアソンのすごさの本質には気が付いてしまったので、今回はじっくりとリヒターについても鑑賞をし解釈しようと試みたのだった。
《オイル・オン・フォト》は写真の上に絵の具をのせていく。
こののせられた絵の具は何なのか?と考えた。これは描いているのか?消しているのか?主観的な作品だとすれば「記憶のありよう」といった安易な方向としてこういう表現なのか?などとも思ったりもした。
タイトルの日付が同じ日を選んだ2016年のものと5日連続の2015年のものとの違いは?MVシリーズの美術館内での写真のペイントによる隠しようから「みる」ということについての問題なのか?とも思ったが。。。同じフォームで展開される一連の《オイル・オン・フォト》の中にフォーム以外に指先のかかるところがない。
仕方なく、帰りにリヒターの本を買って帰ることにした。
衝撃はそこからだ。《オイル・オン・フォト》についての本であったのだが、 今までのリヒター感をひっくり返す衝撃的な内容であった。 これまでのリヒターに対しての印象は「絵画の発明」を続けるアーティストというものだった。ただ、これはやや乱暴にラベルを貼りすぎていたことに気がつかされる。 本書によれば、「リヒターの芸術に一貫するコンセプトは具象であれ、抽象であれすべてを「シャイン」に変換すること」であるという。。。「シャイン(Schein)」というのは実体のないイメージ(仮象)であり、多くのバリエーションに富んだリヒターの作品はすべてその「シャイン」への変換という点において繋がっているということだ。 本書で《オイル・オン・フォト》についての解説を読み、ここに自分で書いていても未だ辛うじて書かれていることが理解できるという程度で、踏み込んだ解釈にまでは至れないし、深い理解には到底たどり着けていない。それほどまでにリヒターという芸術家の世界は深淵であり、僕は彼に対して無知であった。色々な作品を観てきたが、ほとんど本質については何も知らないに等しい。《ATLAS》という膨大なイメージのアーカイブから写真的であるとか「絵画の発明」が準装置的なフォームなどと思っていたのはある意味で理解不能を理解の範囲に押し込めたかっただけなのかもしれない。また「シャイン」ひとつでこれほどまでに難解なことにこれまで全く気づけていなかったこと、そしてそれひとつ説明するのにこれほどの圧倒的な知識とクオリティを持った言語で説明する必要があることを理解していなかったこと。これらに関してかなり反省をしている。まだまだ全然至っていない。
今後リヒターについては深掘りし、チャレンジを続けていきたいと思う。現状で少しわかったことではリヒターは今回、TOP MUSEUM(東京都写真美術館)での展示であったが、彼は間違いなく画家で、今回の展示作品も写真ではなく、絵画だと思う。 そして、確信はないがゲルハルト・リヒターという画家はモダニズムの絵画のある意味での最終形態、もしくはそのもののアップデートを目指したのではと思えている。ジャクソン・ポロックやヴィレム・デ・クーニングなどのアクションペインティング、ステラ、ロスコなどのカラーフィールドペインティングのなどアメリカの抽象絵画が目指し、そしてジャスパー・ジョーンズが受け継ぎ、ウォーホル、リヒテンシュタインなどのポップのアーティストへと受けづがれた絵画の本質を彼らとは違った視点から突き詰めようとしていたのではないかと思える。 「シャイン」に変換するとはすなわちイメージを「平面」にするということだ。 それを3次元的なフォームで物理的に行ってきたのが前述したアーティストたちで、リヒターはそこを「シャイン」へ変換するという脳の中の出来事によって達成しようとしたのではないか?と思う。それを手を変え品を変え続けているのがリヒター作品なのであるというのが、現場までの解釈だ。 今回は鑑賞した《オイル・オン・フォト》そのものの本質的な理解へは至れていない。過去に見たバラバラに思えていたものを接続している点が見えただけで、わかった気になっていたことが恥ずかしくもあるが仕方ない。 だいぶメタ的な思考で見れてきた気がしていたが。。。今の高さだとリヒターの全体を見渡せない。ここまで上がってきたことの険しき道を考えるとめまいがする思いと、まだまだ先があってうれしいという思いとの両方が交錯する
戦略会議 #02 展示まわり/ TOP MUSEUM 志賀理江子 《ヒューマン・スプリング》
「人生の春を謳歌する」…それを僕らは「夏」とも「秋」ともとは言わない。日本人にとって「春」に対するイメージは特別なものだ。 しかし、日本の東北の人々にとっての春はあることを境に一変したものになったのだろう。
東京都写真美術館で展示されている、志賀理江子氏の《ヒューマン・スプリング》という展示はその春を題材とした作品の展示であった。 2008年に東北に移住した志賀理江子氏も2011年3月11日に東北にて被災している。本作もそこに起因したものではあるかと考えられるが、おそらく想像される震災に関連した作品のそれとはそのおもむきも、作品の批評する対象も違ったものではないかと感じた。 正面、背面、左右と天面と地面に設置した面以外の5面がイメージ面となった20の大型の什器による写真インスタレーションだ。 入口脇の展示の解説と手渡された展示リストを手がかりに1から20の番号が割り振られた什器によって作られた空間をまわる。いや、その中を彷徨うと言う表現の方が正しいかと思う。「人間の春・」という決まりの言葉をスタートとした短いタイトルがついたそれぞれの作品は鑑賞者に必要以上には解釈の助けを出さない。 意味あり気に全て同じ男性のポートレートが使われた背面に解釈の方向を見出そうとするが手がかりはそれほどにはない。 冒頭の作品の解説より一部抜粋。 長く厳しい冬を打ち破るような東北の春に惹かれていきます。変わりゆく季節から溢れ出る強烈な生のエネルギーが、同時に死を抱え込んでいることに共感した作家は、人間があらゆる位相でさまざまなイメージを求め続ける理由の源をそこに見出し、追い、また、それらが社会にどう繋がれているのかを知ろうとしました。 展示を鑑賞したのちになった今時点では、これは写真家である自分自身と、当事者ではないある種の無責任な人々など映像メディアに触れる全ての人々へ向けられたものであったように思える。 現代の映像メディアとテクノロジーはミサイルに取り付けたカメラが相手国の軍設備へ突っ込む瞬間すらも痛みを伴わずに地球の裏側にまでも届ける。 東北を襲った未曾有の出来事で何が起きたのかも2011年当時ですら瞬く間に日本中、世界中の知るところとなった。しかし、痛みを伴わないそのイメージの流通は、無責任な人々の意識を現実とは違うリアリティの中に引き込み続けたのだ。何が起きているのか?今はどうなっているのか?知りたいという欲求はそのままイメージに向けられ常に飢餓状態を続けた。決して現実には届かないリアルに対する欲求だ。 この展示によって提示されたイメージが何を示しているのか、背面の男性は一体なんなのか?実際に被災した志賀理江子氏は写真家としてどんな東北を見せるのか?1から20まで答えを探し彷徨う鑑賞者のその様はまさにその飢餓状態を再現させられる。 まずは固定された写真インスタレーションの空間をイメージのインスタレーションという装置によって鑑賞者は動かされる。 そして、会場の最後の端の20の什器の上に設置された鏡で天面に設置されたイメージを見ることができるようにされているのだが、おそらくここがこの作品のキモだと思われる。
見えるもの、見せられたものがそれぞれが求めたものであるかはわからない。だが、作家からは新たなイメージの提示が行われている。コレによる解釈の幅は広いだろうが、今の僕はコレが何なのかの解釈を持たずには先に進めない。
この鏡は天面を見るためのものではあるが、同時にこのインスタレーション全体を取り込んだ同一レイヤーを創る表象であり平面(曲面)でもある。 答えを探し、東北のイメージの中を彷徨う鑑賞者と背面に設置された同一と思われていた男性のイメージがその鏡の中で一つのイメージをその表象に創り出す。ある意味で無責任な鑑賞者である人々もそのイメージの中ではその当事者としてイメージ内に引き込まれるのだ。 鑑賞者が動いて見る背面に設置された同一の男性の写真は、鑑賞者が固定され見上げた鏡の中では鏡の創り出す3次元のイリュージョンによって個別の表情を持ってこちらを見ている。 それは、自分自身を見る目であり「東北をあなたが見ているだけではなく、私たちもあなたを見ている」と言われている様にさえも思え、無関係でないことを訴える。 鏡という固定された表象を見上げさせることで固定された観客はレフ・マノビッチ『ニューメディアの言語』で言う所の写真の特徴である主体の監禁から、鑑賞者の監禁へ移行し、この場所を見えるものに移動性こそないものの映画的にさせられる。いや、そこを仮に東北の春と見立てるのなら、移動性すらもたらしているかもしれない。 そうやって、鏡を見上げたタイミングを境に同一視していたものはそれぞれにちがったものを背負った別のものだと思えてくる。自身のものの見方がいかにある側面しか見ていないのか?というものの見方にシフトを起こさせている。 この壮大な写真によるインスタレーション装置は自分自身がどのようにイメージの氾濫するこの社会と接するのかも問い、実際のところは2011年の春以降、8度の東北の春が絶望を思い出すだけのものではなく、希望であった春を取り戻す生命の力を感じるものであったのかはわからないが、作家の思考を通した、本当にイメージで伝えるべきことへと到達させようとしている様に思える。 大学院の教授から作品制作の特異点やすばらしいということを聞いていて、どこがいいのだろうと考えた結果にたどり着いただけの解釈なのか?サラの状態で観て、自分の歩みだけでここまで考えられるのかはまだわからないが、インスタレーションによる「体験」「空間」「3次元」と「現実」それに現代の社会とを巻き込み考えさせるとても素晴らしい展示だったと思う。