まだ知らない
「ヴィクトルって結婚しないのかな」
勇利の急な質問に、西郡は仕事の手を止めた。
「お前そんなこと気にすんだな」
ちょうどスタッフのシフトを組み終えたところで、印刷ボタンを押すと席を立って伸びをした。古い複合機が鈍い音を立てる。西郡は印刷されたばかりのシフト表を事務所の連絡ボードに貼ると、別のデスクでせっせとサインペンを走らせる勇利の隣にどかっと座った。
「書けた?」
「あと……あ、2枚だ。もうすぐ終わる。ほんっとサインって苦手なんだよなー、さっきのちょっと失敗したし」
「わからんだろ」
「こんなポスターで効果あるのかな、ヴィクトルにすればいいじゃん」
「異国の英雄より地元のスターがいいんもんなんだよ、人は」
勇利の知らない間に、先日のエキシビジョンイベントで滑る自分の姿がポスターになっていた。地元の印刷屋が作ったであろうそのポスターには、さえないフォントで「新しい自分を見つけよう! 入会随時受付中」と書かれている。
「この文句誰がかんがえたの」
「わからん。優子かも」
「人増えそう?」
「わからん」
「書けた」
「サンキュー」
久しぶりに自分の名前を書いた気がする。新しい自分、かあ。と勇利は思う。サインペンのキュッとした音が耳に残っていて、今さら勇利は鳥肌が立った。
「プロのスポーツ選手って早く結婚するじゃん。そういうもんだと思ってた。プロ野球とかさ、高校出てドラフト指名されたら数年後にはアナウンサーと結婚、みたいな。お決まりなのかな、早く身を固めろ的な」
「圧力もあんだろーな」
「ヴィクトルなんで結婚してないんだろ」
「本人に聞けよ」
「聞けるわけないじゃん……」
西郡はポスターを一枚抜き取ると、それだけくるくると丸めて「これはうち用」とパチンと輪ゴムをかけた。
「てゆーかヴィクトルって彼女とかいんの」
「知らない。いるでしょ、どっかに」
「どっかって。まあでも、結婚しなさそうな男ではあるな」
「そうかな」
「似合わんだろ、あれで俺のワイフが〜〜とか言われても。ていうか何、お前結婚願望でもあんの」
「考えたこともない」
「人の結婚より自分の心配しろ」
「西郡たちが早すぎるんだよ……」
実際勇利は考えたくもないのだ。そんなこと。ヴィクトルの結婚。自分の結婚。その前に、ヴィクトルの恋愛。自分の恋愛。めんどくさくて嫌になる。確かに前者は知りたくもあるけれど、下世話な興味を抱く自分にうんざりしてしまう。そもそもヴィクトルの結婚を気にしながら、なんで自分の恋愛を考えなくちゃいけないんだ。
サインを入れたばかりのポスターを眺める。「エロス」と呼ばれるプログラムを滑っている。「エロスって」と勇利は思う。新しい自分。新しい魅力。まだ自分で気付いていないもの。ふいにヴィクトルの声が蘇る。まだ練習し始めて間もない頃、至近距離で言われたことがある。顎に手をやり、唇をなぞって、囁くように。
Can you show me what it is?
「あああーーーーーーー!!」と勇利は声を上げて手で顔を覆った。西郡は「うるさっ」とだけ言うと、それ以上勇利には構わずさっさと事務所の片付けを始めた。
もやもやする。ずっともやもやし続けている。スケートリンクを出て、走りながら勇利はまた考える。ヴィクトルの結婚。は、本当はどうでもいい。結婚しようと思えるような、そんな相手に出会ったことがあるのだろうか。そんなふうに誰かを愛するのは、一体どういう感覚なのだろうか。知りたいのはそこだった。教えてほしいのは自分だった。わかっているのだ。自分に一番足りないもの。自分に一番必要なもの。誰かを愛する、その感覚。誰かを愛していると自覚する、その実感。
勇利にとって恋愛は、確かなコンプレックスの一つだった。しようと思えば、できなくないものかもしれない。大袈裟に考えるからいけない。好きだと思う。恋人になる。たったそれだけ。でも、誰と? 誰となら、そうした関係を築こうと思える?
帰り道、ランニングの足を早める。ヴィクトルと一緒にいることで、新しいフィギュアスケーターとしての勝生勇利は着実に生まれつつある、その実感があった。新鮮で、少し歯がゆくて、だいぶこわい。うれしかった。だけどそれでは、それだけでは、勇利は満足できないのだ。













