夜勤の日だから朝はゆっくり。デカルト『省察』をやっと読み終える。1ヶ月もかかった。『方法叙説』はフランス語で書かれた啓蒙書みたいなものだが、『省察』はラテン語でよりアカデミックに書かれた著作。今回読んだちくま学芸文庫の『省察』は解説や註が豊富で(註だけで70ページにも及ぶボリューム!)初読者にも理解の助けになった。だが本文を読みながら註が登場するたびにページを繰りーかなり長々としたー註を読んでいると、本文でなんの話をしていたのか内容が頭から抜けていってしまうことに気付き、途中からはまず章ごとに本文を通読し、再び章の頭に戻って今度は本文と註を併読する、という形式をとった。一度目は自分の頭で考えながら読み、二度目は註の力を借りながら理解の不足を補うことができたため、一度だけ読むよりもいっそう理解は深まったと思う。
歴史と時代背景を知ると、デカルトがなぜこれほどまでに神の存在証明にこだわったのかがわかって面白い。彼は宗教改革以後の西洋の世界、言い換えれば、神やキリスト教の権威が揺らぎ、無神論者が跳梁跋扈した世界を生きた人物であった。そのため、神の権威をー神学的にではなくー哲学的に基礎づけることを使命としていたと考えられる。キリスト教の信者としてのデカルトの神への崇敬は端々で垣間見える(もはやエモくすらある)。
(…)他の真理を探究するに先だって、ここでしばらくの間、神そのものの観想に深く立ち入り、その属性を私において推し量り、その広大な光の美しさを、目くるめく私の精神の目が耐えうるかぎり凝視し、賛嘆し、崇敬するのがよいであろう。というのも、ひとり神的荘厳のこの観想においてこそ、来世の最高の至福があることをわれわれは信仰によって信じているように、現在においてもまた、はるかに不完全ではあるが、同じ観想から、現世において可能なかぎりの最高のよろこびが享受されうることを、われわれは経験しているからである。
しかしデカルトのテクストを読んでいてどうしても引っかかってしまうのは、最後の最後でいつも神が出てきてしまうところだった。彼は、自分がこれまで「真である」と考えてきたことが、実際にはいかにあやふやだったかと反省し、「私の意見の全面的取り壊しに専念することとしよう」(P35)と意気込む。徹底的な懐疑の末に、今まさに「考えている私」の存在は疑いえないと断ずる。いわゆる「我思う、ゆえに我あり」だ。だが、この「考える」という能力を正しく用いさえすれば、私が誤ることはない、というテーゼはーこれ自体が真偽不明に他ならないのだがー「神がそのように人間を創ったから」という神への絶対的な信仰・信頼に依存している。不可疑なものは存在せず、懐疑を徹底すると無限後退に陥らざるをえないから、それに歯止めをかけるために、神の存在を引っ張り出してきてしまう。間違いなく真であるもの、デカルト風に言えば「私が明晰判明に認識するもの」に恣意性があるように見えてしまう。