この本にはグルーピーの女の子への言及が多く見られます。ウォーホルのファクトリーにたむろする風変わりで美しい人々、60年代には人はそういった人々を見るためにそこへ出かける、と言われ始めますが、グルーピーの女の子たちがいっそう70年代の音楽シーンを華やかにしたことが伺えます。
あまり私には理解できない感覚なのですが、セレブリティやクリエイター本人ではなくファンの中で知られているポジションというのになりたがる人が今でもよくいますが、この心理というものはなんなんだろうと思います。ファンの中で一目置かれる存在になりたいとか、〇〇と言えばこの人、〇〇(何かのネタ)の人になりたい、という人がsnsの中ではとても目立ちます。グルーピーの女の子たちもリストを作って〇〇とやりたい、次は××それからまた別の△△、という欲求を率直に語っていますが、正直言って生産的ではないなぁと思います。
この章でペニー・アーケイドといういかにもグルーピーネームといった感じの名を持つ女性は「あの時代には不細工は罪だった」と発言しておりちょっとびっくりしますが、そういう風潮は最近ますますエスカレートしているような気がします。
不細工は罪、というのは女性だけではなく男性にも向けられています。この本で最も多くのページを割いている、それだけいろいろな記憶とエピソードを持っているということになるのですが、そういう人物はダニー・フィールズとリー・ブラック・チルダースの2人です。彼らはレコード会社の社員やマネージャー、仕掛け人といった立場でいろいろなバンドと苦楽を共にした人たちです。これにテリー・オーク、ロニー・カトロン、マルコム・マクラーレンなども加わりますが特にダニー、リー、テリーと、アーティストですが彼らと連んでいたダンカン・ハンナの4人はかわいい男の子についていつも目を光らせています。見た目がいいということがまず最初の才能であるといった感じで、仕掛け人タイプの人はこういうミーハーな目線を持っていないと人々の熱狂するものを見つけられないんだなぁと思いました。私はまかりまちがっても仕掛け人側にはなれないタイプだとつくづく思いました。しかしダニー、リー、そして特にテリーの3人は性欲強すぎ。
ここでパティ・スミスが登場します。パティは「イーディ」ではロマンチックないちファンといった感じですが、この本ではもう成り上がり根性と自己プロデュース能力のかたまりという感じで、すごい嫌いなタイプでした。
ニュージャージーで工場勤めをしながらランボー読んじゃうアタシエピソードに始まり、ロバート・メイプルソープと2人でいけてるカフェやバーの前に居座って仲間入りしようとし、ドラグ・クイーンの芝居にいっちょかみし、ポエトリー・リーディングでは演出のうまさで場を支配し、といった感じ。人たらしで男好きであざとくてミーハーで気取っていて、話し方がいちいち芝居掛かっている。こういう人私嫌いだわー。女性が男性に対して媚びたり男性がそれを間に受けたりするのはある程度しょうがありませんが、パティは好きになった男性に対しては尽くしますが、利用価値のない人、特に多くの女性に対してあざとく取り入ったかと思うと昔の知り合いでも相手が有名人でなければ冷たくなり、自分が成り代わりたいと思う相手に対しては失礼なことをさらっと言ってすっとぼけたり、ヌードになることを唆したり、最高に嫌な女です。自分の利益にならない人間とは付き合わないような奴。そしてパティは私そんなつもりないのに、というような感じがまた嫌です。長年パティのグループで演奏していてパティ崇拝みたいなレニー・ケイという人もなんか合わせて嫌い。しょせんパティのような人と長年組んでいられる程度の人間性だろうし。こういう、嫌いって思うとこっちが悪者になるタイプいるよね。
知っている人は知っているというレベルの有名人ですが、ジャッキー・カーティスというドラグ・クイーンがいます。彼女はルー・リードの「Walk On The Wild Side」にも名前が出てくる人物ですが、第一印象でパティが気に食わない、人を利用してのし上がっていく女だと言っているのでそういう人もたくさんいるはずです。
しかしいわゆるフェミニストの人たちってパティのことどう思ってるんだろう。私はパティやその他意識高い系の、なんでも持ってるくせに文句ばかり言う(主に白人の)女性が作るような映画や小説などのあざといものが本当に本当に年々嫌いになっていってるのですが、世の中はどんどんあざといものに飛びつく人が増えていて、これは絶対にsnsのせいだと思うのですが、さらに「あざといから嫌い」から「一周回ってあざといのもあり」みたいなことまで言い出す人が増えて、何周したってくだらねぇもんはくだらねぇよと思うのですが世の中ままならないものです。そういう女性作家やパティのような、アウトローのようでいて実は優等生的な女性という存在を見るにつけ、森茉莉が書いた忘れられない一言「女というものは駄目だと思わないわけにいかない」を呟きたくなります。
パティが詩人として名を馳せたときに陰ながら手を貸した(のに著作の謝辞に名前を載せてもらえなかった、こういうところがパティまじ無理)ジェラード・マランガはウォーホルのアシスタントとしてファクトリーマニアにはお馴染みの人なのですが、初めて「イーディ」を読んだ15か16の時からずっと、あまり印象の変わらない人物です。もちろん彼だってあの中でやっていけたというだけでひとクセあるタイプだろうとは思うのですが(ウォーホルの贋作売って捕まったり)、彼は辛抱強くオールマイティで、ファクトリーの活動とは別にマイペースに詩を書き続けていてのんびりとした感じに見えます。それについて私はたまに思うのですが、生まれつき見た目のいい人の中には鷹揚な性格の人がいることがあります。私はジェラードもそういうタイプに見えます。見た目のいいことを意識していないというか、それは当たり前なので特別なことだと思ってないという感じの人。私は見た目がいいかどうかはともかく、こういう卑屈さを感じない人が好きです。
もちろんナルシストもいっぱいいます。上に書いたダンカン・ハンナやこの本にも登場するジム・キャロル、テレヴィジョンのリチャード・ロイドは自分の見た目の良さを意識していて利用し、自惚れが滲み出ている感じ。自分の顔が大好きなタイプとひとくちに言ってもいろいろあって、ダンカンは鏡を延々と見てそうな感じ。なんかこうカフェで誰かと話してて、その人越しにガラスに自分の顔が写ってるのに気がついたらずっとそっちに気を取られてそうな感じ。ダンカン・ハンナはこの本でもちょいちょいかわいい僕、かわいかった僕アピールをしていてはしゃぐなよオッサンと思ってしまいます。昔のエピソードを話す時にいちいち自分の着ていた服についても一言添えているのがまたゾッとします。ルー・リードとトム・ヴァーレインに突っ掛かられたエピソードを突然からまれたかわいそうなボクチンという感じで話していますが、2人から罵られたセリフに自分の見た目のことを全然さりげなくなく混ぜ込んでいて、おまえ大概だなと思わないわけにはいきません。こうやって巧妙(ではないけど)に自分を上げながらしゃべれる人ってマジでどういう脳みそしてるんだろう。ルーとトムに「こいつムカつく」と思われてもしょうがない気色悪さです。
リチャード・ロイドは鏡を見るより、自分を見てうっとりしている相手の顔を見て己の美貌を再確認しているような感じ。あ〜僕見られてる、こいつ僕とやりたいと思ってる〜みたいな。
ジム・キャロルはなにしろ若い頃をディカプリオが演じたし曲も好きだから多少は認めます。あと「僕かっこよかったからね〜ハハハ。」みたいなストレートさがあるのも幾分ましです。ところでジム・キャロルの著書「マンハッタン少年日記」というヤンチャにヤンチャを重ねて繊細さで味付けしたみたいな本の中で唐突に、アメリカが日本に原爆を落としたことを恥じている、みたいな文が出てくるのですが、ここをもっと話題にしてもいいのではないかと私は思います。たとえキューバ危機を極度に恐れていたナイーヴな少年の感傷的な日記であったとしても。ここもジム・キャロルを嫌いとは思わない理由のひとつです。
でも男のナルシストはみんなタチ悪い。おじさんになってもまだカワイイつもりでいる人ってほんとに気持ち悪い。昔ごく内輪でかわいこぶっている男性に対して「かわいないわ系」という言葉を使っていました。語源はナインティナインがまだ若くてアイドル的な人気があった頃に、矢部がポーズを決めた岡村に対して「かわいないわ」とツッコんだことなのですが、リチャード・ロイドは発言もぼんやりしててまさに「かわいないわ」という感じでした。見た目がかわいくて頭の弱い男性というのは正直言ってかなり無理です。ロイドは薬物やアルコール中毒の治療でいろいろあったので気の毒でもあるのですが、やっぱり平気で体を売ったりもしてたし自業自得な部分もあるしちょっと意思が弱いというかなんというか。でもまだ生きてるみたいなのでまぁがんばってください。
ところで「アンディ・ウォーホルを撃った女」ではジェラード・マランガの役をドノヴァンの息子がやっているのですが、ドノヴァンの息子は完全に勘違いイケメンという感じでジェラード本人よりムカつく顔してました。またドノヴァンの息子が何人いるのかは知りませんが、ほんの一瞬モンキーズのマイク・ネスミスの息子とバンドを結成する予定であるというニュースを聞いたことがあったのですが、この組み合わせから臭ってくるしょうもなさといったらどうでしょう。ドノヴァンの息子とマイクの息子がやるバンド。これほどまでになんの可能性も感じさせない言葉はあるでしょうか。
そして時々ドノヴァンの息子をとんねるずっぽく言うと「ドノむすこ」になるのではないかと考えることがあります。(そんなことばかり考えている)
その後、アンダーグラウンド演劇のイギリス公演に行ったリー・チルダース達は初めて現地でデヴィッド・ボウイを見ます。のちにボウイの事務所を手伝うことになりますが最初の感想はみな大したことないというもので、さらにアングラ演劇の手法(派手な衣装や演出)をボウイが真似して取り入れたと言われています。私はデヴィッド・ボウイも好きではないのですが、やっぱり理由は声です。声が良くないし曲もつまらない。見た目もどこがいいのかさっぱりわかりません。あのリーゼントで歯を見せて笑う感じとかすごい無理。この本でボウイは当時の取り巻きを自分と同じ「人参頭」にさせていたことや、それをやりたくないと思っている人がいることがチラッと出てきますが、この自分自身と恋に落ちてるみたいなキャラ作りとか、アンジーと自由恋愛とか、なんかやることなすこといわゆる「変人に憧れる凡人」って感じがします。ナゲッツ2にデイヴィー・ジョーンズ時代の曲が入っていますが、マジで後のボウイであるという以外なんの価値もないクソみたいな曲です。ていうか20秒ぐらいしか聞いたことない。私は好きじゃない曲はどんどん飛ばすので、なんの自慢にもなりませんが20年以上持ってるCDでも最後まで聞いたことがない曲がいっぱいあります。こういうことを言うとうるせぇオールドロックファンは「ん〜でもねこれはこれで味があるんだけどね〜」とかほんとは大して思ってもないくせにしょうもない逆張り精神で言いやがるのですが、こっちは駄作の良かった探ししてるほど暇じゃねぇんだよ。(私は東京生まれなので「じゃねぇよ」とか普通に使ってしまうのですが、錦鯉の隆さんやぼる塾のあんりのような東京のツッコミを怖いと感じる人がいるということを最近知りました。でもこれはいわゆる関東弁なのです。口が悪いとか言われる筋合いないのです)
初めてボウイに会ったニューヨークの人々は、奥さんのアンジーの方が魅力的な人だったと話しています。確かにこの本でもアンジーの証言は面白い。あとこの辺りからよく出てくるようになるジェイン・カウンティも面白くて、なんというかスジが通っていて好きです。ジェインは全体的に、人からどう思われても関係ない、あたしがこうしたいの、こう思ったんだからこうなの、という感じが伝わってきて好き。自分とバンドのメンバーを「美女たち」と呼んでいるのもかわいい。多分ジェインは人としては付き合いづらそうなのですが、見てる分にはきれい事を言う人よりよっぽど好きです。
私はここを読んで、ふとテレビでやっていたミック・ロンソンのドキュメンタリー映画のことを思い出しました。出演者のところにルー・リードと書いてあったので見てみたら、実につまらない映画だった。まずミック・ロンソンが映画の主人公にするにはキャラが薄すぎる。彼がボウイのバンドをやめた経緯なども、なにか音楽的な苦悩とか方向性の違いとかそういうものではなくてギャラの配分て。おまけにルーの場面はこの映画のために撮ったものではなく、テレビ番組かなんかのを持ってきただけで内容も薄い。(どっかで見たことあるやつだった)そんなすべてが薄味の映画の中で印象が深かったのは、アンジーが出てくる場面でした。ばっちりドレスアップして、きれいな部屋ではきはきとしゃべるアンジーは生命力にあふれていて、どんよりした照明の自宅のリビングかなんかで普段着で出てくる他の人たちとは明らかにちがっていました。
私はデヴィッド・ボウイが音楽としてシンプルに好きではないし見た目も苦手と思っているのですが、私より年上のある種の人たちは彼を神格化しがちです。とくに女性は、というか洋楽好きおばさんはこの世のものとは思えない美しい人、容姿も魂も美しい人で、奥さんのイマンとも美しいカップルで、アンジーはもう別れたんだからすっこんでろ。非の打ちどころのない完璧なアーティストで彼より偉大な人物はいない。彼はお星様になったの。と発言して憚りません。そういう風に言われれば言われるほどますます嫌いになります。
その後ボウイは演劇だけではなく、イギー・ポップのスタイルも取り入れようとして連み始めます。ここでもうひとつ思い出すのは、ずいぶん前にCSで見た80年ぐらいのテレビ番組です。ソファーが並べてあるようなトーク番組で、イギーとボウイの2人がゲストでした。いつものように(?)騒いだりはしゃいだりするイギーとそれを笑顔で見守るボウイという場面。この時のボウイの表情がなんというか絵に描いたような後方彼女面みたいな、ニヤニヤした嫌な顔だったのです。これを見ておばさんたちはボウイが困ってる〜かわいい〜という気持ちになるのでしょうか。おばさんおばさんって年齢だけで言ったら私もそうなのですが、言わせてもらえば私はメンタリティはこういうおばさんとはちがうから。ボウイを絶賛するおばさん臭いメンタリティを持つ人たちには女だろうと男だろうと実年齢がいくつであろうと共通の好みのようなものがあって、たいてい24年組の少女漫画を崇拝しNHKが好き、歴史が好き、華美な物が好き、ルイ16世は頑張っていた、よしながふみの作品をこれはBLじゃないと言い張る、などの特徴がありますが、私はどれもこれも辟易しています。しかしネットやある程度の趣味のジャンルにはこういうタイプの人間が多すぎて非常に疲れます。
ずっとボウイに対して持っていたけどあまり共感してもらえなかった意見を書いて、同意がもらえるとは思いませんが書き残すことができたのでいっこだけ、いい思い出も書きます。The Whoがやっと2008年に単独で来日した時、横浜アリーナでは開演前に最近の?よくわかんない曲がかかっていたのですが、武道館では始まるまで割と60年代のロックがかかっていたのです。古い建物には60年代の曲が合うな〜と思ったり、ジミヘンがかかったら隣の席のいかにもオールドロックファンおじさんという感じの人が急に下向いたまま体を振ったりし始めてキモかったけど、ライヴへの期待が高まる中ボウイの「jean genie」がかかると、そろそろ始めろよ〜という雰囲気になり誰かが手拍子を始め、それがどんどん広がっていきかけたのですがその後曲が終わったらまたスーンとなってしまいました。でも一瞬なんかよかった。The Whoともあろうバンドがあの曲の手拍子に合わせて出てくるなんてことはありえないのですが。
ところでルー・リードとボウイとイギーではイギーがまだ生きてるんだから人間の体って不思議だな〜と思います。
と、私にとってはあまり愉快ではないエピソードが続く中、ニューヨークドールズが登場してみるみる人気者になっていく様子はエキサイティングです。7分とか12分とかの曲が増え、ロックがエスタブリッシュメントになってしまった中で登場する3分間のロックンロールの完全復活。だけど彼らはあっというまに崩れてしまいます。申し訳ないけどデヴィッド・ヨハンセンて「ぶちゃむくれ」って言葉そのものだと思いました。嫌いな顔ではないけど。全体的に、ドールズのメンバーは一瞬で落ちぶれたくせにその後のパンクムーヴメントに登場する後輩たちに対してエラそうだし曲もそれほどピンと来ませんでした。ただ当時、ドールズがいかに人々を惹きつけ楽しませたのかという話は面白かったです。あとマネージャーをしていたマルコム・マクラーレンもこの本では噂に聞いていたほどのクソ野郎ではないと思いました。かわいこぶってるとも受け取れますが、すっとぼけることが身に染み付いて取れなくなってしまったイギリス人という感じだし、特に女性やドラッグに対してやたらと「ウブだった」と言っているとおり苦労もさせられたようです。こういう仕掛け人みたいな人の話は面白いかピンとこないかのどっちかになりがちなのですが、マルコムの話は面白かった。
そしてグルーピーの女の子たちの中からいろいろなキャラクターが登場します。でもインタビューに答えているのは、あの荒んだ生活から立ち直れた人たちだけなんだと思うとちょっと悲しい。のちに事業を起こしたような人やモデル業をしていた人ははともかく、生粋の家出少女だったセイブル・スターは15で整形したとサラリと言っていてビビってしまいます。セイブルは無邪気で人柄も悪くなさそうなんだけど、リスカしたりなんというか徹底的にどっか足りないという感じがあって、よくここまで生きてこられたなぁと思いました。(もう故人だけど)いろいろなミュージシャンを渡り歩いたセイブルはジョニー・サンダースと共依存のような関係に陥りますが別れた後はボロクソ言っていて、こういうことは長生きしたもん勝ちだと思いました。ジョニー・サンダースも薄味の伝記映画があってGYAOで見たのですがこっちもむちゃくちゃつまんなかった。
その他ストリッパーとかいかがわしいマッサージ屋に勤めてた女の子とか、まぁうんという感じ。こういうハンター気質ちょっとだけわけてほしい。そのパワーを追っかけではないことに使いたい。こういう生き方を女として私は全然ヨシとはしませんが、エルヴィス・コステロとお付き合いしたことあるベベ・ビュエルはちょっとうらやましいです。語られるエピソードもなかなか素敵です。ビュエルも若干、ロックンロールの力を信じる夢見るグルーピー✨みたいなキャラを作ってる感じはありますが。私は美しくメイクした男性よりコステロが好きなの。