『破局』を読んだ
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先日ラジオで遠野遥の受賞インタビューを聞いてから、早く読みたい!と思っていた。
ラジオで語る彼になんだか親近感を覚えた。世間とのズレの感じとか、でも思ったことを言わないでは入れない感じとか、理解ができてにやにやしてた。
話ぶりが素朴で、気取ってなくていいなと思った。
で、読み始めたらこれまた面白くて、にやにやしながら読んだ。なんだろう。自律的な主人公の気の移ろい方、思考の飛び方が、わかる。寂しさを掴みきれない感じとか。
できるだけ喜びや悲しみに忠実でいたいと思いながらも、世間はそれでは自分のことを認めてくれない感じがするから、ひたすらに「客観的」「社会に受け入れてもらえるはずだ」という基準を軸に律する。
で、そんな思考回路にそこまで共感している私大丈夫なの?みたいな、私以外の声が聞こえてくるという、矛盾というか悪循環というか…
結局彼は「破局」というか「破綻」?みたいなところに向かってしまうが、やっぱりそういう思考回路じゃ向かっていけないのだろうか、世間には。
この出来事は、彼にとってただの一つの挫折、ちょっとした失敗みたいになって、結局また警察署を出た彼は
「ああ、やってしまった、あのときどうしたら良かったのだろうか、いやでも警察官は自分のことを好意的に捉えてくれたからこうやって早く保釈してくれたのだ。別に公務員試験にも問題はないだろう。いや、ダメだったとしてもこれまで試験のために自分が培ってきた知識は裏切らないはずだ。就職先について佐々木に相談してみるか。彼ならOBともまだつながっているし、何か仕事の当てをくれるだろう。そういえば、この携帯はいつから利用しているっけ、確か今月が契約更新のはずだ。この携帯機種については支払ったから、この先二年間は3千円ほど安い携帯料金で利用できるはずだ。最近バッテリーの持ちが弱まった気がするが、まあ働き始めたらそんなに私用の携帯も利用することもないからこのままでいいだろう。来週にでも携帯ショップに出向くか」とか考えて日常が続きそうである…。
批評を読んだら自律的でありながら客観的な視点に依存したような陽介の日々の判断の仕方に結構違和感を抱いている歳上の論評ばかりで、少し戸惑う。
彼らはそうやって嘲笑するけれど(嘲笑っぽく聞こえた。なんとなく)、私たちも私たちであなたたちのこと不可解だなと思いながら見てる。なんでそれを美学と捉えてたのかな、とか。
宗教なき今、慣習なき今、自分を律するとなったら「世間的に受け入れられそうなライン」に頼るしかないんじゃないの?とは思うよ。25歳日本生まれ日本育ちの人間として。 「男だから」「女だから」「30歳なんだから」そういう神格化されていたルールが目の前でがらがらと崩れていく、ときにはその既成概念を崩すために声をあげることさえある日常の中で人と生きていくには、やっぱり「世間的に受け入れられそうなライン」を見極めるしかないんじゃないの?
実はわたしたちの対話には、何か上の世代から受け取らなかったもの、受け継がれなかったもの、彼らが渡すべきだったなにかが欠け落ちていて、実はふかいふかい谷間がぱっくり口を開けているのかもしれない。








