魏志倭人伝は我々がよく知る古事記以前に中国で書かれた日本に関する記述です。
学界というしがらみの外にいる私がこれを読んだ限りでは、この魏の使者が見た倭国とは、もともとは東シナ海東岸に点在する、海を中心とした海洋国家群ということではないかと推察します。
文化風習の観点から、もともとこの海洋国家群は、実はもっと大きい環太平洋国家群の一部であった可能性も考えられます。
この記述が陸の国である魏の使者によるものであり、政治的文書であることを考慮すると、魏へ帰って報告するために、記述の中で倭の国の王に官を付与していたと考えられます。その地を勢力下と定義するため、官位という免状を与えて書面の上で序列を証拠として定め残そうとしたのではないでしょうか。
この記述において官というのはそれぞれの国の王(人口から言えば現代の市町村長)、そして副は王のもとで政り事を執りおこなう者、卑奴母離(ひなもり、武官)ということになるかと思います。当時の中国の役人の価値観、視点、政治的目的で書かれた、ということは常に差し引いて読まなければなりませんし、もちろん言葉があまり通じない中で見たものが書かれたということも考慮しなければなりません。
人々が食べ物を海から得られる海洋国家では、耕作や耕作地を守る軍事力を維持する必要がないため、税制がゆるく、中央集権的な構造を持たなかったのではないかと思います。ヨーロッパにおいても海を中心に築かれたローマ帝国も、はじめは同じ思想を持った海を母とする国家だったのではないでしょうか。海の民の価値観は、陸の民とは全く正反対のものだと考えます。海が文明の中心であれば、田畑、土地、その権利といったものが海の民にはあまり意味がなかったのではないかと思います。つまり、領地という発想は世界共通ではなく、陸の民ならではのものだということです。土地の権利に縛られない海の民の間では証文などもあまり重要とされず、書き記すということをあまり必要としなかったかもしれません。私が思う魏志倭人伝の最も重要な点は、邪馬台国がどこにあったかではなく、現代の我々と同じ陸社会(中国の使者)が見た、海社会(倭)の営みの記録であるということです。ここに記された海社会の価値観は、現代の陸社会の問題を鮮明にし、解決のヒントを示してくれるのではないかと思います。
方角については昔の人は間違えることはなかっただろうと推測しますので、忠実に訳します。畿内説のように南と東を間違えたとするのは、現代人の傲慢さだと思います。
一里は80メートル換算です。100ヤード弱、100歩、これは共に土地を計測する必要があった陸の文化の考え方です。中国人の方が英国人よりも歩幅が小さかったでしょうか。
家についてはこの記述には"有三千許家"とあり、この理由について、当時の魏では、家は租税義務と引き換えに権力から与えられるものであったのではないかと考えます。ここに書かれる家とは後に出てくる屋室とは違い、権力から与えられたもの(その代わりに耕作と租税を義務づけられる)と解釈します。家をローンで買ったら30年働かなきゃいけないのは現代も全く同じです。
戸は屋室、人が自分で作った租税義務を伴わないただの家屋と解釈します。その場合、戸・家は世帯という意味で、1つにつき2世代4人から3世代6人程度の人々がいたと考えられます。戸はもしくは単純に人戸、人口といった、人という意味かもしれません。
https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1SIu1ky8PmTwWg_3ErMI2XH7FSI8
以下の魏志倭人伝訳は一部順序を入れ替えています。理由は後述します。(2016.8.13)
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
倭人とは帯方郡(ソウル)の東南の大海の島々に国を為して暮らす人々である。島々には百余りの国々があり、漢の時代より現在まで、そのうち30の国と交流がある。
從郡至倭 循海岸水行 歷韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
帯方郡(ソウル)から倭へ行くには、船で韓国の海岸を南へ、そして東へ伝う。600kmほど行くと、北岸で狗邪(倭人の蔑称?)が暮らす狗邪韓国に到着する。
始度一海千餘里 至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴
狗邪韓国より80kmほど海を渡ると、對馬国(対馬)に至る。
官の名は卑狗(ひこ)、副官の名は卑奴母離(ひなもり)である。
對馬国は30km四方の海に囲まれた島で、山が険しく森が深く、道は獣道の様である。
1000戸ほどが、良い田がないので海産物で暮らしている。
また、船で北岸や南岸の市場へ行く。
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
対馬国からさらに80km海を渡ると、一大国(壱岐)に到着する。
官の名は対馬国と同じ卑狗(ひこ)、副官の名もまた卑奴母離(ひなもり)という。
20km四方の島で、竹や雑木が茂る。
3000あまりの家が許され田を耕すがそれだけでは足りないので、船で北岸や南岸の市場へ行く。
又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之
さらに海を80km渡れば末廬国(松浦)に着く。
ここでは4000戸あまりが浜、山、海上に暮らす。
前を行く人が見えないほど草木が生い茂っている。
魚や鮑を穫るのが上手く、水の深さに関わらずみなこれを潜って穫る。
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸
東南へ40kmほど陸路を行くと伊都国(伊万里)に着く。
官の名は爾支(にき)、副官の名は泄謨觚(せもこ)もしくは柄渠觚(へくこ)という。
1000戸ほどが暮らす。
東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家
伊都国(伊万里)より東に8km行くと不彌国(武雄)である。
官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)である。
1000あまりの家がある。
東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸
伊都国(伊万里)より東南に8km行くと奴国(有明)である。
官は兕馬觚(しまこ)、副官の名は卑奴母離(ひなもり)という。
2万戸あまりが暮らす。
30の王はみな女王の国に属し、それらの使いの者がここを拠点に往来する。
南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
船に乗って南へ20日行くと投馬国に着く。
官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。
5万戸以上が暮らす。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
船で10日、もしくは陸路を1月行けば、女王のいる邪馬台(邪馬壱)国へ至る。
官は伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)である。
7万戸以上が暮らす。
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
女王国より北については人口や道程などについて略載の可を得る。それら遠く離れた国についての詳しいことは解らない。
次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
女王国から北へ順に、斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。
これらが女王の国々である。
南には狗奴国があり、男子を王とし、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)がある。
女王国には属していない。
これが帯方郡(ソウル)から女王国に至るまでの1000kmである。
男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫
男はみな大小の入れ墨をしている。
昔より中国を訪れる倭国の使者はみな、自らを地位ある者と称した。
夏后少康之子 封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害
今倭水人好沈没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以爲飾
夏(魏よりさらに2000年前の王朝)の王の少康の子が會稽に封ぜられた時、断髪して入墨をし、龍害(水害?)を避けたと伝えられる。
今日、水にもぐって魚や蛤を捕る倭の漁師が大魚や水禽を避けるために施す入れ墨は、この厄除以外にも飾りとしての意味もある。
入墨は国ごとに異なり、あるいは左右に、あるいは大小に、尊卑によって差が有る。
倭国の位置を計ってみると、ちょうどその會稽や東冶の東にあたる。
其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣橫幅 但結束相連 略無縫 婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央 貫頭衣之
その風俗は淫らではない。男子は皆髪を露わにして結び、木綿を頭に巻く。
縫わずに端を結んで繋げた横幅の布を着ている。
婦人は髪を後ろで束ねて被り物をしており、衣服は単被のように作られ、中央の孔に頭を通して着ている。
種禾稻 紵麻 蠶桑緝績 出細紵 縑 緜 其地無牛馬虎豹羊鵲
稲、大麻を植えている。桑と蚕の知識がある。麻、絹、綿織物を作っている。牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
兵用矛 楯 木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳 朱崖同
兵器は矛・盾・木弓を用いる。木弓は下が短く、上が長くなっている。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。
倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣
有屋室 父母兄弟臥息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用籩豆 手食
土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。
飲食は高坏(たかつき)を用いて、手で食べる。
其死有 棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘曰 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 擧家詣水中澡浴 以如練沐
人が死ぬと棺はなく土で塚を作る。
(遠方の者がその死を見に来るため)10日あまりもがり(喪)につき、肉を食さず哭泣する。
他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
其行來渡海詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人
名之爲持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹
倭の者が中国へ渡る時、使者の1人は人と接せず、虱は取らず、服は汚れたまま、肉は食べず、女を近づけず、喪に服する人のようにする。
これを持衰(じさい)と言い、船が無事に帰ってくれば褒美が与えられるが、船に病や災難があれば謹みが足りなかったとしてこれを殺そうとする。
出真珠 青玉 其山有丹 其木有柟 杼 豫樟 楺 櫪 投橿 烏號 楓香 其竹 篠 簳桃支 有薑 橘 椒 蘘荷 不知以爲滋味 有獮猴 黒雉
真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、おそらくはタブノキ)、杼(ちょ、ドングリの木またはトチ)、予樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投(とう、不明)・橿(きょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は、篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘何(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。
其俗舉事行來 有所云爲 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆
特別なことをするときは骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う卜(ぼく)を行う。まず占うところを告げ、その解釈は令亀の法のように、火で焼けて出来る割れ目を見て、兆しを占う。
其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒〈魏略曰 其俗不知正歲四節 但計春耕秋收爲年紀〉
見大人所敬 但搏手以當脆拝 其人壽考 或百年 或八九十年
集会での振る舞いには、老若男女の区別がない。人々は酒が好きである。
敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。人は長命であり、100歳や90、80歳の者もいる。
其俗 國大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫 不妒忌 不盗竊 少諍訟 其犯法 輕者没其妻子 重者滅其門戸及宗族 尊卑各有差序 足相臣服
身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。
女は慎み深く嫉妬しない。
盗みはなく、争論も少ない。
法を犯す者は軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。
收租賦 有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯
下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傳辭說事 或蹲或跪 兩手據地 爲之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾
其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歷年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食 傳辭出入
居處宮室 樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衞
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都
其年十二月 詔書報倭女王 曰
制詔親魏倭王卑彌呼
帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻男生口四人 女生口六人 斑布二匹二𠀋 以到
汝所在踰遠 乃遣使貢獻 是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝封付帶方太守假授 汝其綏撫種人 勉爲孝順
汝來使難升米 牛利渉遠 道路勤勞 今以難升米爲率善中郎將 牛利爲率善校尉 假銀印青綬 引見勞賜遣還
今以絳地交龍錦五匹〈臣松之以爲地應爲綈 漢文帝著皁衣謂之弋綈是也 此字不體 非魏朝之失 則傳寫者誤也〉
絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直
又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠 鉛丹各五十斤 皆裝封付難升米 牛利 還到録受
悉可以示汝國中人 使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
正始元年 太守弓遵遺建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拜假倭王 并齎詔賜金帛 錦 罽 刀 鏡 采物 倭王因使上表答謝恩詔
其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人 上獻生口 倭錦 絳青縑 緜衣 帛布丹木 𤝔 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
其六年 詔賜倭難升米黃幢 付郡假授
其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
https://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/31910770.html
http://kodakana.hatenablog.jp/entry/2015/10/30/212351
http://blogs.yahoo.co.jp/kuroken3147/50291998.html
兵は矛、盾、木弓を用いる。木弓は、上が長く、下が短い。
倭人が使う武器について、中国の使者がこのように書き記しました。特に弓は形状について書き記してあります。つまり、このような形状の弓は中国の使者にとって珍しかったのではないでしょうか。ではなぜ中国で見られないものが倭で見られたのか、私はここに陸文化と海文化の違いを見ます。
おわかりでしょうか。和弓の形状は、船の構造を採り入れたものではないかと考えます。海に暮らす人だからこそ編み出した知恵だと思います。この形状は、陸の民にはなかなか思いつかないと思います。日本人がもともと海の民であったことを示す痕跡の一つではないでしょうか。(2016.8.12)
◯見大人所敬 但搏手以當脆拝 其人壽考 或百年 或八九十年
敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。人は長命であり、100歳や90、80歳の者もいる。
拍手をして拝む、というのは、今なお神社で見られる作法です。中国の使者が特に記したということは、これも中国には見られない作法であったと考えられます。現在に至るまで、様々な文化の影響を受けつつも、倭文化が現在の日本文化の主たる源流であることを示していると思います。そして、皇室は現在にいたるまで、この作法を継承、守護しています。つまり、邪馬台国が九州であっても、それが大和朝廷とは無関係という理由にはならないと思います。
そして人々は長寿であったと記されています。これはただ長寿であるということだけではなく、社会が働かざる高齢者を許容することができた、つまり豊かであったことを示すと思います。今日これほどまでに開発に開発を重ねた社会において、豊かであるにも関わらず窮屈なのはなぜでしょう。倭人はただ海から食物を得ることで、何ら開発することなく充分に豊かな暮らしを実現していました。(2016.8.12)
戸(家)数が記録された国は使者が実際に訪れた国、記録がない国は伝聞である。
魏の使者は、女王の国まで、末廬國から奴國以外は自分が魏から乗ってきた船に乗っていた。
使者が乗ってきた船は、安全を最優先とした、揺れにくい大きく重い手漕ぎ式の船であった。
ここに記される倭人は、食物の大半を海産物で賄っていたのではないかと推測し、人口が多い奴國、投馬國、邪馬壹國は海辺にあり、人口が少ない伊都國と不彌國は山間にあったと考えます。
魏の使者は、末廬國で一旦船を降り、徒歩で奴國へ向かう過程で通った伊都國と不彌國を記録しました。そして長崎を迂回して奴國まで迎えにきた船に再び乗り、20日をかけて投馬國へ、また10日かけて邪馬壹國まで向ったと考えます。そこで、陸路を採らなかったため訪れることがなかった邪馬壹國から奴國までの国々を、その名のみ箇条書きで記したのではないかと推測します。
また使者が乗る船は、転覆のリスクを避けるため、大きくて重い手漕ぎ式であったと思います。軍人を乗せ、使者が異国においても安全に過ごせるよう寝泊まりが出来るぐらいの備えもあったと思います。この船は一日20キロ未満の距離しか進まなかったと考えます。
また旅の間、記録はは竹簡に書かれていたと考えられます。ですからバラバラに竹簡に記された文節を陳寿が編纂する際におそらく順序に若干の誤りがあったのではないかと思います。もしくは、真実を秘匿する目的で、あえて順序を変えてあるのかもしれません。
前提条件と照らし、以下のように順序を並べ替えてみます。
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歷韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家
東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸
南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
7. 不彌國、8. 奴國を入れ替えました。理由は人口が多いのは海辺だという考えです。伊都國および不彌國は山間部もしくは平野のない海辺であったと考えます。
9. 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐は6. の後に書かれている文ですが、交通の要衝としてふさわしい奴國にかかった方がしっくりきます。交通の要衝であるという紹介を受け、以後の投馬國、邪馬壹國への道程は奴國から放射説を採ります。連続説を採れば萬二千餘里におさまらないという理由もあります。
11. 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月は、奴國から邪馬壹國まで船行10日もしくは徒歩30日と理解します。というのも歩いて一ヶ月かかる内陸部に7万戸の大都市があったというのはこの記録において異質であり、船行10日の後、徒歩30日を要する内陸部にあったというのは考えにくい。邪馬壹國は海辺あり、奴國から船なら10日、徒歩なら30日で行けるという意味だと思います。そしてこの使者は船で行きましたので、13. で邪馬壹國から奴國の間の陸地にある国々(おそらく海岸沿い)について自分の目で見ることがなかったため、倭人に聞いたものを書き記したのではないかと思います。
邪馬壹の発音は、やまたいでもやまいちでもなく、やまとであったと思います。「や」は弥、多い、グレートという意味、「まと」は満ちる、丸、円、和、という意味。や・まと国は大丸国、この語は現在も大和としてその意味を伝えています。的は丸いというところから来た言葉だと考えられます。
この海域で水揚げされるマトダイという魚があります。この地域でマトは丸と言う意味だったのではないかという一つの材料です。
また、投馬「とま」は欠ける、月、湾を意味し、「とま」と「まと」は、言わば陰陽、月と太陽、妻と夫、凹と凸のような関係ではないかと考えます。ヤマト国が日(肥)のマト国であるなら、トマ国とは月の国という意味なのかもしれません。
トマトの語源は膨らむ果実(カゴメ) 環太平洋一帯において「マト」は同じ意味を持っていたのかもしれません。マトとトマは、太陽と月ではなく、満ちる月と欠ける月の関係なのかもしれません。海が生活を支えたのであれば、海のリズムを知るために月が重要になると考えられます。(2016.8.16)
末廬國から2000里、奴國から船で10日または徒歩で30日の位置は、おおよそ水俣あたりになります。水俣のあたりはもともと「やまた(やまと)」と呼ばれ、後に弥俣の字が当てられ(日本人はここに”邪俣”とは当てないと思います)、それがいつからか「みまた(みまと)」と読まれるようになり、水俣となったかもしれません。水俣の南の町もまた出水とかいて「いずみ」、これも「出弥」、「いずや」であった可能性はあるでしょう。八代、矢城(やつしろ、やしろ)矢筈(やはず)など「や」のつく地名が多くあります。やまたのおろち伝説でスサノオノミコトによって征服されたのは、ここで海や自然とともに平和に暮らす日本の先住民族であったのかもしれません。スサノオが土地を征服する者であれば、スサノオは元は陸社会の者だということでしょう。
邪馬壹國は地理的には肥前と肥後、つまり肥を治めていたと考えられます。肥はもともと火、日と言う意味かもしれません。卑弥呼は肥(火、日)の巫女(御子、神子、皇女)であったと考えられます。卑奴母離とは肥守(ひのもり)だったのではないでしょうか。(2016.8.13) (2019.8.31)