2026年6月30日火曜日
何もかもが瑞々しくてあり得ないほど目新しい
一日というものの価値がずっと下落しているのですが、その理由が何かということを、私はずっとわからないでいる。朝起きると一日は恐ろしく長いように感じる。しかし夜には、今日はボロ切れ程度の価値しかなかった、とか、流星が消えるよりも速かった、とか、もう一度今日を始めようとしてもその時には恐ろしく長い一日が始まると思いそして同じようにあっという間に終わるだろう、などと思うのである。
だんだんと、いつから働いてないのかということが分からなくなってきている。もちろん冷静になればわかるのだが、パッと浮かばなくなっている。二年半だ。二年半働いていない。働いていた時には三連休が死ぬほど待ち遠しかったりした。盆暮れの連休がどこまで繋がるかとかいうことを本当に真剣に考えたりした。それが今や二年半である。そして今になってわかる。私は連休になってもやりたいと思っていたことができずに、ベッドに横たわっていることが多かった。連休の一日目の午後には、どうしよう何もできそうにないと絶望していた。そんな人間はやっぱりどこか悪いのであって、どこか悪い人間なのだから、この二年半の間、ほとんど出かけることも出来ずに横になっているしかないのである。最初の一年は友だちと会ったりしたが、やっぱりそういったことも続かなかった。友だちと会っている最中に、「今日はとっても楽しいが、こうしたことは続けられないだろうな」と思っていた。どうしてかはわからない。「どうしてなのか」、そう自分に問おうとした場合には、なぜか私は涙がいっぱいになっている私を見つける羽目になりそうだった。
私は障害者手帳を取得した。二級である。友だちに「取れるんじゃない?」と言われ、主治医に「取れますか?」と訊いたら難なく取れた。自立支援医療制度も利用できるようにしてもらった。私でも取れるんだ、と思ったが、もうひとり私が居て「意外と私でも取れたよ」と言ったなら、「そりゃ17年も心療内科通ってたら取れるんじゃない?長いこと通ってるもん」と言うだろう。それでも私はいまだに自分の病気が何なのかわかっていない。ふんわり鬱病ということになっているが、そんなゆるふわなまま17年も通っていいんだろうか。ゆるふわだからこそ17年通ってるのだろうか。真に何の精神疾患なのかということを突き止めたらもっと早く好転したり、あるいは自死に至ったりということになったのだろうか。今となってはわからない。時間は戻ってこない。そのことをみんな人生の早い段階で知る。しかしそのことはみんな忘れがちである。
鬱というものはあると思うのだが、双極性障害なのかもしれない。神経症と思しき感じもあるが、潔癖脅迫のようなものは寛解したかなと思う。昔は字を丁寧に書かなきゃいけないと思うと何度も何度も書き直したりして、消しゴムを擦りすぎてぐちゃぐちゃになった紙に涙が落ちて濡れてしまったりした。それが二十代のことであるが、そんなことも医者には伝えていない。痙攣がでるのは統合失調症と誤診された時に投薬していたのを自分で勝手にやめてしまったからだが、行動と感情が合わなくなった時にビクッと痙攣するのは果たしてなぜなのか。私は解離性けいれんとカルテに書いてあったのを見たことがあるが、それも医者から伝えられたことはない。たまにADHDかもしれないと思うことがある。コンサータを飲んだら色々とすんなり行ったりしないだろうか、などと、宝くじ当たんないかなくらいの感覚で思うのは不謹慎だろうか。
果たしてここまで読まれた方がいらっしゃったら、一番の問題は、私が主治医に何も打ち明けていないということがわかると思う。私は誰かに色々と打ち明けることができない。それをプライドが高いからとか言われることがままある。プライドが高いならそれでいいんだが、低くする方法を教えてくれる人はあまりいない。とにかく私は何も打ち明けられない。自分の中でこねこねした油粘土が自分の中に置いてあって、こねこねしているのだが、それを人に見せて「私の今の状態です」ということができず、つまりそれを取り出すことができず、外からそれを見ることもできず、油粘土があることも信じてもらえず、かといってこねこねせずにはいられないといった感じなのである。
この文章をプリントアウトして主治医に見せるというのもひとつあるなと思った。ものを言うことより紙を渡す方が動作として簡単である。私にも子ども時代というものがあり、その時は毎日毎日、何もかも瑞々しくてありえないほど目新しかった。そういう日々が戻ってくることはあるのだろうか。そういう日々が戻ってくるのだとしたら、その時私は私の中にあるかなりのものを捨て去っているのではないか。そんな気がしている。














