現在の政治的状況は、芸術の無責任さを政治へ導入し、人生すべてがフィクションに化し、社会すべてが劇場に化し、民衆すべてがテレビの観客に化し、その上で行われることが最終的には芸術の政治化であって、真のファクトの厳粛さ、責任の厳粛さに到達しないというところにあるといえよう。 東大安田城攻防戦は、大勢の観客を集め、人々はテレビドラマに飽きた目をブラウン管に向けて、時の移るのを忘れた。あるイギリス人の言葉によれば、それは巨大なシアターであった。そこに登場する俳優は遺書を書き、「かっこよく散るぞ」という落書きをして、あたかも死のポーズを見せたが、ひとりとして死ぬものはなく、手を上げて全員逮捕された。そしてその一幕は終わってしまい、人々はまたその芝居を忘れて、日常の生活へ帰っていった。 しばらくして、二月十一日の建国記念日に、一人の青年がテレビの前でもなく、観客の前でもなく、位工事場の影で焼身自殺をした。そこには、実に厳粛なファクトがあり、責任があった。芸術がどうしても及ばないものは、この焼身自殺のような政治行為であって、またここに至らない政治行為であるならば、芸術はどこまでも自分の自立性と権威を誇っていることができるのである。私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」というものに、夢あるいは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である。
三島由紀夫『終わり方の美学』徳間文庫:58.59














