愛みたい
※東京。凛ちゃんがハルちゃんを観察している話。
朝。
遙が起きてすぐにすること。Tシャツを、背中からむいっと脱いで、そのまま洗濯機に放り込む。そのフォームはさながら、ゆるいウインドミルの下投げ。
遙は日に何度か、こうしてTシャツを新しいものに換える。汗で貼り付くのが嫌。らしい。なので、Tシャツの洗い替えは無限にあるようだ。 地元にいた時からそれは変わっていないが、一体いつの間に着替えているのか、その姿を見たことはほとんどなかった。
東京の一人住まいの部屋は、すべてワンフロアで繋がっているし、ドラム式の洗濯機はダイニングに備え付けられている。なので、凛が洗面所兼 風呂場で顔を洗っている背中で、遙が、さっとTシャツを脱いで着替えるのを、鏡越しに見つける、なんてこともありえるのだ。
食事。
遙と共に食事をしていると、ふと、自分の無作法に気付く時がある。例えば、箸の持ち方。遙ははじめに右手で箸を持ち上げ、箸先を左手で支 え持ち、それからすっと右手指を添える。それは百年前からその形で待っていたかのように、自然な動きだ。この一連の動作を、彼は何 気なく一呼吸の間にしてしまうので、幾度となく食事を共にしていたのに、気付いたのは最近だ。他にも、こまごまとした食事のマナーに気付かされる。お椀の持ち上げ方。口の中の物を飲み込んでから「ごちそうさま」を言うこと。当たり前のことと言えば、当たり前のことなのだが、とにかく、ハッとさせられることがある。食事のマナーについては、昔、祖母に習ったものだけど、海外生活や男子寮生活を送るうちに、すっかり疎かになっていた。まあ、これは言い訳にすぎないけど。
ひっそりと反省し、ひっそりと遙を真似て、無作法を正す。おそらく、日本に戻る度に 、こうして「そういや、そうでしたね」と自分を正すのだろう。
洗濯。
Tシャツでも何でも、必ず一度、はたいてから干す。Tシャツだったら肩の部分を両手で持ち、顔前まで持ち上げてから、思いきりはたく。皺 を伸ばす、というより、パン!といい音を立てるためにやってるんじゃないかと思うくらい、乾いた小気味のいい音がする。同じ要領で、タオルでもハンカチでも、必ず音を鳴らしてから干す。でも、靴下はしない。それから、二人で汚してしまったから、洗わざるを得なかったしわくちゃのシーツも。
遙の住む部屋は南向きに掃き出し窓とベランダがあって、日中の日当たりは申し分ない。朝、干して出かければ、帰ってくるころには気持ちよく乾いていそうだった。それを伝えると、陽が沈む前に帰って来られる日はまれで、干しっ放しで夜露に濡らしてしまうことも、時々あるそうだった。遙が洗濯物を取り込むのを忘れるくらい、泳ぎ疲れて、帰って来てすぐに寝床に沈む姿が想像できる。なぜなら、自分にも憶えがあるからだ。
映画館。
喉が渇くのを嫌がるわりに、映画館のポップコーンは買いたがる。そして、上映が始まると、大体において、彼はポップコーンの存在を忘れる。時々、思い出したようにもこもことした山に手を伸ばすけれど、なんと一粒ずつ食べるのだ。一粒、指先でつまんでは、上唇と下唇の狭間に挟み込み、ゆっくり、ゆっくり、もそもそ食べる。凛が、わしっとひと掴みして、口にざらざらと放り込んで食べる速度の、三分の一ぐらいの進み具合だ。
さらにいえば、彼は物語に見入ると、完全に手が止まる。そういう時は、わずかに口が開いている。その小さな小さな隙間に、ポップコーンを放り込んでやりたくなる。
それから、不思議なことがある。うす暗い中で一体どうやって察知するのか、凛が物語の展開によっては涙ぐんでしまうことがあると、少しうろたえたような仕草をして、タオルを凛の顔に押し当てて来る。これで視界を遮られて、大概、いい場面を見逃すのだ。いつか、そのうち、「放っておいてくれても大丈夫だから」と伝えたい。
スマホ。
人差し指でプッシュホンを操っているかのような、覚束なさ。凛が親指で操作するのを真似てやってみたが、誤字脱字がひどく、しまいには「指がつった」としょんぼりしていた。それでも、貴澄に教えてもらったというアプリで電車の乗り換え案内を検索するのは慣れているし、乗り降りしやすいホーム位置まで教えてくれる。
改札やホームで凛を案内する時、遙はあまり言葉を発さないし、指で示したりもしない。まるで猫が「こっちに来て」と誘う(いざなう)みたいに、ちらちらと凛を振り返ったり、足並みをそろえたり、目線で行き先を示したりする。新宿のダンジョンのような駅構内を、すいすいと迷いなく歩く遙の後姿は、街に住み慣れた猫みたい。
電車。
よほど疲れた時でなければ、積極的に座席に座らない。扉と座席側面の隙間にするすると猫みたいに収まるのが、ものすごくうまい。 地元で、同じ電車に乗ることはほとんどなかった。たまに、乗り合わせて移動する時は、鈍行列車のガラガラに空いた座席に座るのが当たり前だ ったので、立ち並んだままでいるのはなんだか新鮮だ。
遙は、ガラス窓に映る街並みを、隈なく点検するみたいに眺める。車体が揺れても上手にバランスを取る。大きく揺れた時は、それとなく、凛の背中を手のひらで支えてくれたりなどして、それ、女子にもすんのかよ、するんだろうな、ハルってそういうやつだよな、と照れと嫉妬が同時に巻き起こって、なんとも言えない気持ち。
風呂。
長い。とにかく風呂が長い。遙が入っている間に、凛は寝る支度どころか、翌日の準備や連絡など、その他のタスクをすべて終えてしまう。自分がせっかちなのもあるかもしれないけれど。新たに汗をかく前に、肌がすべすべしたまま眠りたい。ので、待てずに先に寝ることがこれまでも多かった。遙の長風呂は、東京へ来て、風呂の仕様が変わっても、相変わらずだった。
新たに汗をかきたい気分で(いわゆる、そういう、恋人同士の、という意味で)、がんばって起きていたとしても、遙は風呂から上がると、かなりスローになる。コップの冷えた水をちびちび飲みながら、ぼうっとしている。髪を乾かすのが面倒らしく、ドライヤーを使いたがらない。自然乾燥でいいと言う。つまり、彼曰く、ぼうっとしているのではなく「髪を乾かしてる」状態なのだと言う。
見かねて、「ちゃんと乾かせよ。頭皮を大事にしろ。将来的に、悲惨なことになるぞ」と脅すと、目をぱちぱちさせていた。凛がドライヤーを持ち出して乾かしてやる時は、大人しくしている。遙のつむじの場所と向きがおもしろいし、割と意志の強い感じのする、まっすぐな黒髪は触っていて心地よいので、乾かす作業は結構好きだ。屋外の、塩素濃度の調節が難しいプールで泳いでいた頃よりは、毛艶はよくなった気がする。
就寝。
あんなにもたもたしていたのに、寝るとなると早い。凛の背中に鼻先をくっつけて、くんくん匂いを確かめたり、頬っぺたをぴたりと当てて、体温が馴染むのを待ったりしている…かと思うと、すうっと寝入ってしまう。毎回、驚かされる寝つきのよさだ。非常にうらやましい。
しばらくじっと待ち、遙が身じろぎしなくなってから、そっと体を返して向かい合わせになる。今日一日の観察をまとめる。高校生の頃と、変わったところ。変わっていないところ。離れている間に更新された遙の観察記録。かといって、どこかに書き付けたりはしない。ただ、時々思い出して楽しむだけだ。
いつもまっすぐでサラサラの髪が、少しだけ乱れている。その髪の束のカーブとか、閉じたまぶたの淵の、睫毛が描く半月のラインとか、呼吸に合わせてわずかに上下する肩とかの、遙にしかない、遙を象る(かたどる)線を、全部なぞりたくなる。遙の命の輪郭。それを、どこにいても、離れていても、そっくりそのまま思い出せるようになぞりたくなるのだ、無性に。でも、触れれば起こしてしまう。だから、ただ、見つめるばかりだ。薄暗がりの中で飽きずに眺めていると、遠くでサイレンが鳴った。消防車に救急車、パトカー。どこかで誰かが困っている。あるいは、苦しんでいる。でも、その音は、夜に溶けていくみたいに、小さく、遠のいていく。
深く寝入ったと思っていたけれど、遙はそれで起きてしまったらしい。やや身じろぎをして、薄っすらとまぶたを起こした。
「凛、」
「ん」
寝たふりが間に合わなくて、寝床で間近に目が合ってしまう。遙は眠たそうな重い瞼を何度か起こし、閉じ、また起こして、小さく言った。
「明日は、まーぼーどうふだ」
「ん?」
まーぼー。どうふ。
ああ、麻婆豆腐ね。そう、麻婆豆腐。
「なんだよ、それ」
「食べたいって言ってただろ」
「言ったっけ?」
そう言えば、帰国前に「何が食べたい」とたずねられて、いくつか適当に答えたような気がする。それも、辛いメニューばかり。それを遙は律儀に覚えていたのだ。
「明日の晩は、まーぼー」
「わかったって。なんで今、明日の晩飯の話すんだよ…お前は親か。おふくろか」
「実は、作ったことないから、おふくろさんの味になるかどうか、わからない」
「いや、いーよ。おふくろの味じゃなくて。ハルの味で」
一体寝床で何の話をしているのか。色気もそっけもない、麻婆豆腐の話がなんだかおかしくなって、笑ってしまう。ふふ、と声を漏らしてしまうと、またまぶたをくっつけそうになっていた遙も、ふふ、と笑った。
「それとな、凛は、話は変わるけど、て、ちゃんと断って話すのが、いい」
「…ほんと突拍子もねえな。何の話だよ、もう」
「今度会ったら言おうと思ってて、まだ言ってなかったから…」
眠気に浸かった、覚束ない声で言う。明日、この小さなやり取りのことを覚えてないかもしれない。
「べつに、普通のことだろ」
「普通のことが普通に出来るのが、いい」
「そんなもんかな」
すべてひそひそ声で話しているのも、なんだか、小さい頃みたいでおもしろかった。お泊まりとか、旅行とかの夜みたいに。
「もう寝ろよ。まだ何かあるなら、明日聞くから」
「そうだな、明日」
ふあ、と遙は小さく欠伸をする。
「…よかった。凛が、ここにいて」
そう言って、遙は腕をそろそろと伸ばして、凛の頬を撫でた。
よかった。ここにいて。
まるで、ここにいるのが奇跡であるかのように、大事そうに、包むみたいに言うので、自分の命の輪郭がはっきりする感じがした。
それから、遙は、こめかみにも、肩にも、背中にも、順に触れていった。撫でるというよりも、凛の体の輪郭を、なぞるみたいにそっと触れた。 じっと押し当てられた手のひらの真ん中から伝わる、遙のぬるい体温が心地いい。
そうしているうちに、彼はまた眠りに落ちて行った。はたりと腕の力がゆるんで、凛の腰に腕を添えたまま、子どもみたいに眠ってしまった。
遙は多くを語らない。「よかった」に込められた意味は、凛が感じ取るしかない。けれどこうして、さざ波が立てる泡みたいな彼の気持ちを、大事に、大事に、掬う。
よかった。
自分だって、そう思う。
この体で、この姿かたちで、どこも損なわれることなく、海を隔てた遠い場所へ行っても、無事にここへ戻って来られて、よかった。愛してくれる人を悲しませるようなことが起きなくて、よかった。好きな人を、好きなだけ映せる目と、時間と、触れられるこの腕があってよかった。そしてそれは、そのまま、遙へも「よかった」と思えるのだ。誰に感謝すればいいのかわからないけれど、そういう当たり前の奇跡の創生者に、ありがとう、と言いたくなる。
今日は特別な記念日でもなんでもない日だ。それなのに遙が、凛の命の輪郭を、愛おしそうに優しくなぞるので、…こんな何でもない日の、特別ではない夜に、生きていてよかったと思える。心の奥底の、深い深いところから、間違いのない愛みたいに、そう思えるのだ。
そして、こういう瞬間のことは、きっと一生忘れない。
「明日の晩は、まーぼー」
なんとも気の緩む、どうでもいいような会話を、一人でなぞって、まぶたを閉じる。遙と呼吸のリズムをそろえているうちに、自分も眠りの波にさらわれてしまった。
台所。
豪快に、フライパンを振る。力強く躍動する前腕に、筋が入っていて、思わずなぞりたくなる。近くにいると「危ないだろ」と猫を追い払うみたいに言われてしまう。それでも見ていたくて、背中からくっつく。「動きづらい」「重い」「今日は甘えん坊だな!」とぶつぶつ言いつつ、時々肩越しに味見をさせてくれる。ぴりりと山椒の効いた、まーぼー。
たぶんだけど、お互いに、背中の匂いと体温、好きだよな。そこは間違いなく、お揃いだと思う。
















