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「どこの誰でも、どんな人種やジェンダーであっても。あなたの声を聞かせてください。あなたの言葉で、名前と声を探してください」
1月28日、笹川記念保健協力財団主催の「ハンセン病の歴史を語る 人類遺産世界会議」で、映画監督の宮﨑駿氏が「全生園で出会ったこと」と題する講演を行った。ハンセン病の原因となる「らい菌」の感染力は弱く、国内での新規感染者は毎年数名程度という状態が続いている。一方
宮崎駿監督「自分に与えられたフィールドとチャンスにおろそかになってはいけない」
1月28日、笹川記念保健協力財団主催の「ハンセン病の歴史を語る 人類遺産世界会議」で、映画監督の宮﨑駿氏が「全生園で出会ったこと」と題する講演を行った。
ハンセン病の原因となる「らい菌」の感染力は弱く、国内での新規感染者は毎年数名程度という状態が続いている。一方、かつて国が患者を強制隔離していたことから、治療法が確立されてからも、元患者やその家族に対する差別や偏見が解消されずに残ってきた。今も多くの元患者が全国の療養所で暮らしている。
(左から)佐川さん、宮崎監督、平沢さん「全生園」は、このうち東京都東村山市にある「国立ハンセン病療養所多磨全生園」のこと。同所の近くに住む宮崎監督は、散歩や通勤途中など、折に触れて「全生園」を訪れ、平沢保治さん(88歳、多磨全生園入所者自治会前会長)、佐川修さん(84歳、同自治会会長)ら入所者との交流を続けてきた。講演などを滅多に行わない宮崎監督だが、平沢さんと佐川さんからの依頼を受け、登壇を決めたという。
入所者の平均年齢が80歳を超える中、「全生園」の敷地や建物を「人権の森」として残していく構想を提唱している宮崎監督。「全生園」との関わりや、創作活動において大きな影響を受けたことを語った。講演の内容と、その後の記者団との質疑応答の内容をお送りする。
”おろそかに生きてはいけない”と思った
BLOGOS編集部こんなことは初めてなんですが、朝、ズボンぐらいは折り目のついたものにしようとして、慌てて履き替えたものですから、いつも入れている財布からハンカチからライターから、全部忘れてきました。車の中で気がついて、今さら戻るわけにもいかなくて(笑)。それで、「全生園」へ入所する時には私物を全部提出して、それからお仕着せを着て入院するんだっていう話を思い出しました。
僕は、全生園から急いで歩けば15分ぐらいのところに住んでいます。50年前に女房とトラックを借りて引っ越しをしたんですけど、所沢街道を通って、右手に立派な生け垣が続いているところに差し掛かって、そこが全生園だってことを、初めて知ったんです。その角を曲がって、自分の住む秋津の方に向かったんです。
その頃もハンセン病についてそれなりに知ってはいたんです。伝染性は極めて弱いとか、特効薬があるかとか。でも、なにせ新婚ホヤホヤで、仕事の方にも夢中でしたから、ほとんど関わることもなく、20年ぐらいが経っちゃいました。
今から20数年前ですけども、後に『もののけ姫』という映画になる、日本を舞台に時代劇を作る企画を立ち上げていました。
原作はもちろんないわけで、主人公が刀を下げた侍ではないとしたら、どういう形になるか。貴族でもなかったらどういう映画が作れるだろうかと。それで参考になったのは、一遍上人の時宗という宗教改革を描いた『一遍上人絵伝』でした。
それを見ますと、ありとあらゆる生業が出てきます。例えば、お寺・神社の周りには、乞食やハンセン病の人がいます。その他、得体の知れない、唐傘を差して一本歯の高下駄を履いている男たちとか、本当に不思議な人達がいっぱい出て来るんです。時代劇で見てきた世界とは全然違う、本当の民衆の姿が描かれているなと思いましたよ。
なんとかして、この人達が登場する映画を作れないか、と。主人公にする上では、それなりに活動する能力を持っていないと映画になりませんので、謎に満ちている「エミシ」という人々ですね。
それから、『一遍上人絵伝』を見て興味を持っていました、”たたら者”っていう、朝鮮半島を経由して入ってきた、製鉄をする人々です。中国地方の山の中で、砂鉄と炭を求めて、山から山へ移って行く集団ですが、その人達が作った鉄が色んな人間を経て、里に降りてくる。農具になり、あるいは武器になり、ということだったらしいんです。
で、たちまち行きづまりました。そうすると、ノートを持ってウロウロ歩き回るしかないわけです。そのうちに、家から15分のところにある「全生園」の前に来たんです。『一遍上人絵伝』の中にあったハンセン病の人達のことを考えると、そこで私が踵を返して帰ることは出来ないのではないかと思って、初めて中に足を踏み入れました。
なぜそれまで入らなかったのかというと、それは大変な、惨憺たる運命に生きている人達に出会った時に、自分がどういう顔をしていいか分からないという、恐れが大きかったからなんです。
冬の日でしたけど、全生園の裏の方から入っていきましたら、すごい桜の並木が見えました。桜の見事な巨木が実に生々しくて、衝撃を受けてその日はそのまま帰ってしまいました。
それから何度か訪ねて行くうちに、資料館にも入ったんです。当時はまだ古い資料館(旧「高松宮記念ハンセン病資料館」)でした。療養所で使われていた、お金に代わる、ブリキで作った通貨など、色々な生活雑器が大量に保存されていました。大変な衝撃を受けました。
そのあと、何度も資料館へ行くようになるんですが、その度に、”おろそかに生きてはいけない”という風に思いました。”おろそかに生きてはいけない”、というのは、今、自分がぶつかっている作品をどういう風に作るかということを、真正面からキチンとやらなければいけない、そういうことだと思います。
実際、『もののけ姫』にはハンセン病の人も出しました。それは”無難な線”ではなくて、当時”業病”と言われたハンセン病を患いながら、それでもちゃんと生きようとした人達のことを、はっきり描かなければいけないと思ったんです。
しかし、本当のことをいいますと、これを患者のみなさんが見た時に、どういう風に受け取るかということが、ものすごく恐ろしかったんです。平沢さんや佐川さんに見てもらうのがとても怖かったんです。でも、とても喜んでもらったんで、本当に僕は救われた思いがしました。
生きてきた人たちの巨大な記念碑をずっと残しておきたい
今、戦前からあった建物がボロボロになって取り壊されています。これを残したいと思いまして、わずかですけど、僕も少しはカンパできますからとお話をしたんです。 それから色々な方がお金を出し合って、「山吹舎」(昭和3年に入所者によって建てられた独身男性のための寮。昭和52年まで使用されていた)をきちんと直して後世に伝えようということになりました。学校もあったんですけど、シロアリに食われていて、これは直しようがないと取り壊されてしまいました。僕が他の仕事でうつつを抜かしているうちに壊れちゃったんです。あと、「少年少女舎」っていうのもあるんですけど、今やもう残骸のようになっています。これも消えていくしかないのかなと思います。 資料館は素晴らしいものです。2007年に「国立ハンセン病資料館」として新しくなった時、中身が随分薄まったなと思ってたんですけど、その後、色々な努力によって、また前の雰囲気が出ています。あの場所にいくと、粛然とした気持ちで出て来るような。無駄に生きてはいけない、おろそかに生きてはいけないという気持ちになる。そういう場所だと思います。 いずれ厚生労働省は全生園をただの公園にでもしてしまうんじゃないかという気がしています。全部とは言わないけれど、記念の場所を作らなければいけない時期が来ているんじゃないかと思います。何かの記憶があそこに残っていくことが、とても大事なことなんじゃないかなと思います。大きな緑が残ったということも良いことだと思いますが、同時に、生きるということの苦しさと、それに負けずに生きてきた人たちの巨大な記念碑をずっと残しておきたいと、本当に思います。
質疑応答
BLOGOS編集部
講演終了後、別室で記者会見が行われた。予め主催者側から質問は講演に関するもののみ、という申し送りがあったにもかかわらず、講演や会見の機会が少ない宮崎監督とあって、詰めかけた大勢の記者から「憲法改正」「原発」「普天間基地移設問題」に関する質問が飛び出した。 -ハンセン病療養所を世界遺産として残すということについてはどういうお考えでしょうか。もう一点は、富国強兵の中に、このハンセン病隔離政策が行われてきたという歴史について。それと、3.11から間もなく5年ですけども、原発再稼動についてどう思いますか。 宮崎:療養所は全国にいっぱいありますよね。それをどういう風にするかっていうのは、それぞれの人が知恵を出し合って、俺のとこさえ残せばいいっていう風じゃない視点で、何か残していくことは必要だろうと思います。それも、そこで多くの人が苦しみながら生きたっていうことだけじゃなくて、人間が善意で間違えるってことがあるんだってことを。「らい予防法」が一度出来てしまうと、廃止させるまでに本当に長い戦いをせざるを得なかったっていう教訓のためにも、どこか残すべきと思います。 富国強兵策については、本当に難しい要素があって、簡単に切り捨てられない部分があるんです。というのは、隔離政策で、貧しいとはいえ、寝るところと食べるものを提供しなかったら、多くの人が行き倒れで死んでいたんですよ。だから、「らい予防法」が出来たことも功罪があって、そこは考えなければいけないことなんじゃないかと思うんです。「らい予防法」のせいで、酷いことになったというだけではなく、救った部分もあるんだと思うんですよね。 ハンセン病に関しては全世界で克服出来るような、医療的な成果も出ているわけですけど、中国ではまだ患者数が分かっていないですよ。そういう部分もいっぱいありますから、まだケリがついた話じゃありません。 ですから、やっぱり人は何度も同じ過ちを繰り返す。繰り返すけど、それを忘れないようにするために、「全生園」を残せるなら、残して欲しいです。 -改憲の流れについて、戦争に向かっているという雰囲気について、日本外国特派員協会の会見でおっしゃっていたんですが、それについて話していただけないでしょうか? 宮崎:21世紀に入って、いままでの枠組みでは考えられないようなことが世界中で起こり始めているんだと思います。それこそ、ゲルマンとスラブと、イスラムと。イスラムの中でもISと、そういう葛藤がはっきり形を見せてきた時期だと思いますね。 今、僕らの中に「鎖国していればいいんじゃないか」っていう気分が、日常の中や職場の中に、濃厚に出てきています。僕にも出てきているんですよ。「隅のほうで静かにしていよう」って。さらに「20世紀の人間で、21世紀についてはなかなかわからん」ってこの頃、口走るようになってしまっているんですけど、本当に新しいレベルの葛藤と矛盾が噴出しつつある世界に居合わせているんだから、なるべく目を開けて、道を誤らないようにやっていくしかないと思っているんですけどね。 -改憲についてはどういうお考えですか? 宮崎:それは僕、反対に決まっているじゃないですか(笑)。家内の父親は、懲罰的な招集を受けて大陸に行ってましたから。思想犯で1年3ヶ月捕まってますんでね。 ですから亡くなった義理の母は、子供5人の留守家族で、本当に苦労したんですよ。そういう人達がいっぱいいるわけです。その人達の目の黒いうちは、「平和憲法をやめよう」なんて言えないんですよ。僕は家で絶対言えませんね。だから、僕は憲法を変えるのに反対です。もし世界で変えなきゃいけないとしても、一番最後で良いと思っています。 -もうすぐ3.11から5年経ちますけども、原発再稼働について一言。 宮崎:原発を使わなくて済むような、しかし石油に依存しないで済むような。何か違う発想でやらないと、石油を巡ってISと揉めていても、これは先行きがないなという感じはしますね。でも僕は、原発は再開しないで頑張るべきだと思っています。 -作品の中にハンセン病の患者さんを登場させることに対しての迷いについて、お伺いしたいなと。それも含めて登場させた理由をお答えいただければと思います。 宮崎:主人公(アシタカ)は、村に突然やってきた「タタリ神」っていう、鉛の玉を打ち込まれた化け物から村の娘達を守るために闘うわけですけど、その結果、腕に大変なアザを持つことになった。そのアザは生きていて、コントロール出来ない力と、蝕んでいくものを持っている。非常に非合理なものを抱え込まざるを得ないという運命を主人公に与えたわけです。 それは、ハンセン病と同じなんですよ。ですから、そういう主人公を作ったり、タタラ場の人たちを描きながら、ハンセン病を出さないわけにはいかなくなったんです。その時、本当にためらいました。 でも、彼らに相談はしませんでしたから、映画を観てくれた時にどういう反応があるかっていうのは、本当に恐ろしい覚悟で作りましたので、さっき一緒に並んでいた方々が、映画を観て、とても喜んでくれた時には、本当に肩の荷が降りたような気がしたんです。でも一方で、それで安心していいんだろうかっていう思いもあります。 主人公のアザは完全には消えずに、映画は終わっています。そのアザと共に、主人公の少年は生きていく。 映画では描ききれませんでしたけども、実は中国地方の斐伊川は、たたら者が砂鉄を取って流していた結果、どんどん川底が上がって天井川になってしまった川ですね。今そこを訪ねてみると、とてもキレイな川ですけども、そういう風に人間が作り変えてきた自然のシンボルみたいなものがあるんですよね。 そういう、良いの悪いのと、簡単にケリがつけられない部分で、人は生きて行かざるを得ないし、美しいモノには美しいと感じるし、醜いものには醜いと感じる。もっと深い知恵と、もっと多くの知識を持たないと、楽園はとても作れないにしても、継続可能な国土を作ることも、人生を作ることもなかなか難しいんだろうと思います
-全生園の建物や緑を残すのは、とても大切なことだと思うんですが、悲惨な体験をされた患者、回復者の方々のですね、建物だけでは分からない体験とか記録とかそういうものを、残し伝えていくっていうのは、なかなか大変なことだと思うんです。 宮崎さんが作品に取り上げたのは、ハンセン病を語るために取り上げたわけではないと思うんですけども、映画を含めどういう風にそういう経験を語り伝えていくかっていうのも、また1つの課題ではないかと思うのですが、どのようにお考えでしょうか? 宮崎:資料館に学会員が赴任して以来、様子が変わってきました。今まで出したくないと言っていた映像が随分出て来るようになったんです。写真集も出ていますし、少しずつ開かれつつあるように思います。そこが一番物語っているんで、一般論として語るよりも、行けば誰でもそれを見ることが出来るようになっていることですね。 それから定期的に色々展示をやっていますけども、本当に胸を打たれるような展示がいくつもありますから。特に、社会復帰出来るようになった人達も、生涯が終わるような年頃になっています。その人達がどういう風にやってきたか、本当に感動的に生きた人達の話がいくつもあります。 同時に、生きるのが苦しかったという話の中には、何もそれはハンセン病だけじゃなくて、都市に集まってきて、そこで暮らさなくてはいけなかった多くの若者達が味わった孤独や無力感みたいなものとそっくりですから。この都市生活というものの中に持っている、大きな黒い泡のようなものを感じて。それはハンセン病じゃなくても、僕自身も青春の時によく感じていたものなので、そこら辺も含めて、あそこの資料館は、非常によく努力されていると思います。だから、展示が変わるたびに観に行っています。 -沖縄県で政府が対立していて、さらに工事がドンドン進められようとしています。それについてのお考えと、今後どうすればいいでしょうか。 宮崎:僕は止めなさいといいます。要するに沖縄に基地が多すぎるってことですね。 その次の問題は、日本のどこにも基地を作らせる場所がないってことなんです。 それからもう1つ。中国はISの問題の方が大事で、海軍で東に出て来る能力は今持っていません。しばらくは持たないと思います。だから、中国海軍が増強しているから云々、というのは当たらない。新しい航空母艦を造ったからって、あんなもん全く役に立ちません。自信を持って言います。むしろ、あそこで危機感を煽る事自体が滑稽です。 むしろ、コントロール出来ていない軍隊のほうが危険でね。中国軍はコントロール出来ていないですよ。だからパイロットがミサイルを見せびらかして接近してくるとか、本当に国際的感覚が欠けているんですよ。よその国の軍隊の悪口を言ってもしょうがないんですけど、一緒に共同演習でもしてルールを教えていかないと、つまらないことで戦端が開かれてしまう危険が出てきたってことは確かだと思います。 でも、辺野古の海は残しておいたほうがいい。沖縄の人のためにも。それでも埋めるやつは埋めるだろうと思うんですけど。そこから先の戦いは、極めて政治的な判断と、粘り強さが必要なんだと思います。 -社会全体として、ハンセン病に限らず、原発事故も含めた負の問題。これに蓋をしてしまうような感覚がどうしてもあるような気がしています。抽象的な質問なんですが、社会としてはこういう問題に対して、どのように求めていくべきというか…。 宮崎:手分けしていくしかないんです。僕は原発が無くなってもいいと思いますけど、署名を集めるために、仕事を放り出していくわけにはいかないんです。 ハンセン病についてもそうです。ハンセン病について先頭に立ってやることは出来ないです。今、平沢さんとか佐川さんは、自分の残された時間をそれに賭けようと思ってやっています。 それぞれに偏見を持たないで、出会ったらそれについて賛同いたしますとか、幾ばくかのカンパはしますってことは出来るかもしれないけど、僕らはジャーナリストじゃないんだから、なんでもかんでも手を広げてね、この世にある問題全てに関わるというのは不可能です。 「おろそかに生きてはいけない」というのは、自分に与えられたフィールドについて、僕の場合は映画を作るってことですけど、そのフィールドについておろそかに生きてはいけないという意味です。そうすると、家庭生活は入っていないのかって、家内に言われそうですけど、それも少しは入っているという(笑)。 やっぱり自分に与えられたフィールドとチャンスに対して、おろそかになってはいけないということだと思います。
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相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害された事件で、35歳だった長女を奪われた神奈川県内の父親(62)が毎日新聞の取材に応じた。「娘がこんなに可愛かったことを知ってほしい」。父親は時折、笑顔を見せながら思い出を語った。【国本愛】
【写真特集】相模原事件:「やまゆり園」内部を初公開
<ことば>相模原障害者殺傷事件
<知的障害施設 高齢の親、看護限界「理想と現実違う」>
<都内の知的障害者 14県の「都外施設」で3000人生活>
長女は身長約140センチ、体重約35キロと小さかった。父親のことを「ちち」と呼んだ。父親がやまゆり園の長女の部屋を訪ねると、長女は父親の手を引っ張った。2人で散歩やドライブに行った。
歩いたり話したりできず、成長が遅いことに気付いた母親が病院に連れて行き、3歳のころに脳性まひと診断された。その後、養護学校に通い、両親と5歳年上の長男、2歳年下の次女が日常を支えた。
8年ほど前、母親にがんが見つかった。母親の入院と治療のため、長女は2012年7月にやまゆり園に入所した。翌月、母親は他界した。
長女の障害を周囲に隠したことはない。だが、長女のことが大切だからこそ「家族だけで静かに悼みたい」と、事件に巻き込まれたことは知らせていない。
事件からまもなく1年になるが、殺人罪などで起訴された植松聖(さとし)被告(27)への感情は湧いてこない。「娘が亡くなったことを、まだ現実として受け止められない。娘がいなくなったことと事件が、まだ結びつかない」。考え込むようにそう言った。
自らは今春、がんと診断された。「もうすぐいくよ」。仏壇の前で毎朝、語り掛ける。
長女の朝は、甘めのコーヒーを飲むことから始まった。大きなマグカップに母親が氷を一つ落とす。眠そうな顔で一気に飲む。足りないとテーブルをカップでコンコンとたたいた。父親のまぶたには、そんな日常が焼き付いている。
仕事人間だった父親は49歳で早期退職してから、長女と一日中、一緒に過ごした。長女はソファに腰掛ける父親の足や肩をトントンとたたき、抱っこをせがんだ。本を読もうとすれば「かまって」とばかりにはたき落とした。夜中になると布団に潜り込んできた。
長女が食事を粗末にした時、怒ったことがある。すねて口を利いてくれなくなり、最後には折れて「ごめんね、お父さんが悪かった」と謝った。「気まぐれでわがままで、甘えん坊だった」
あの日の朝、テレビで事件を知った。駆け付けた園で職員から「亡くなりました」と知らされた。長女と対面できたのは午後8時ごろ。傷痕は見えなかった。「すごくきれいで、今にも起きそうだった」。家族だけの葬儀を済ませ、ひつぎには長女が大好きだった「となりのトトロ」の絵本を入れた。
そばにいたくて、四十九日まで骨つぼを枕元に置いた。毎朝、仏壇にコーヒーを供えて「元気か?」と声を掛け、「元気ってことはねえか」とつぶやくのが日課になった。
思い出が詰まった自宅での1人暮らしは、つらい。洗面所で歯磨きをすると、後ろから抱きついてきた長女を思い出す。トイレにも、リビングにも……。施設に預けた自分を責めた。少しずつ現実を受け止めようと生きてきたが、ふとした瞬間に「もういないんだ」という現実が去来し、おえつしてしまう。
今年3月、がんと診断されたが、延命治療は選択していない。最後に会ったのは、事件の3週間前。肩の具合が悪く、いつもする抱っこができなかった。「次はしてあげるね」。すねた長女に言って別れた。父親は「最後に抱っこしてあげられなかった。早く会って、抱っこしてあげたいなあ」と、ぽつりと漏らした。
才能は関係ない。やるやつはやる。やらないやつはやらない。
売れてもつらい。売れなくてもつらい。だから、好きじゃないと。
https://togetter.com/li/1131657
「テストで見たいのは、学生の問題解決と分析能力であり、ある特定のトピックについて考え議論する能力である。」 「試験でインターネットを利用することで、インターネット上の巨大な情報源から、関連する情報とそうでない情報を峻別し、関連する情報を文脈に載せるスキルが学生には求められることになる」 「(試験中に)コミュニケーションをとったりディスカッションをしたり、あるいは検索したりすることが許されるのであれば、誰もカンニングをしなくなるだろう。なぜならもはやそれはカンニングではなくなるからだ。我々が考えるべきはその方法である。」
デンマークの大学で試験中のインターネットへのアクセスを許可(記事紹介) | カレントアウェアネス・ポータル (via twinleaves)
泣き虫
21年のサラリーマン経験がある。私自身が女性社員としてマネジメントされる立場だったこともあったし、マネジメントするサイドとしても多くの女性社員に接してきた。その両方の立場から、「女性部下が泣くのはなぜか、上司はどう対応すればいいか」を考えたい。
私も若い頃は、上司とのやり取りで泣いてしまったことが何度かあるし、女性メンバーとのやり取りで泣かれてしまったことも幾度となくある。最近は、男性部下の涙も見る。男性部下は、叱責の場ではなくお酒を飲んでいるときや面談時に、しみじみとした会話から生い立ちなどに触れはじめ、自分の話の途中でふいに声を詰まらせるパターンだ。この場合は私はとにかく黙っていることにしている。
不思議なもので、顧客から叱責を受けても、客先で泣いてしまった記憶はない。それは女性メンバーも同じで客先を出た後、あるいは電話を切った後に泣くことはあっても、顧客の前で泣かれたという経験はほとんどない。
「泣くなんてビジネスマンとしてあるまじき行為」「だから女性部下は面倒くさい」「その後の関係がぎくしゃくする」といった話と共に、「こういう時どうすりゃいいの?」と聞かれることがある。
私の経験から言えば、上司にとって女性部下に「泣かれる」ということは、関係性が向上する絶好のキッカケだと言っていいのではないかと思う。顧客の前ではガマンできるのに、上司の前では泣く。それは上司との関係を「ホーム」と認識しているからに他ならないのだから。
女性が仕事で泣くときは、「悔しい」といった感情が主のように思う。ミスをして叱られたからしょんぼりしたり、その上司が恐ろしくなって泣くということはあまりない。上司から叱られたとして、自分なりに懸命に「なぜこうなったか」「どうすれば良かったと思っているか」論理的に話したいと思う。しかし、感情が論理的に話すことを妨げる。それが自分でよくわかる。わかりにくい話し方になってしまっている、相手の事を知らず知らず睨みつけている、そんな自分がよくわかって焦ってくる。
「ああ、このままではわかってもらえない。その上、涙が出てしまいそうだ。そんなのいやだ!」と涙に集中してしまった挙句、とうとう鼻の奥がつんとしてくる。相手が明らかに困った顔をして黙り込む。そして優しく、「別にあなたが全部悪いと言っている訳じゃないんだよ」などと言ってくる。そうなると悔しさは全開してしまう。もう自分の涙が上司に与えてしまった印象や影響が残念でたまらなくなり、一度こぼれてしまった涙をとめられなくなるのだ。
男性部下はどちらかというと、説教された後、「人として」肯定される会話になると涙腺が緩む気がする。「あなたはもともと、こういうところがとても優れていると思っている」などといった会話の後の涙だが、これは小学生がひどいテストの結果を叱られた後、「あなたはやれば出来る子じゃない」と母に優しく言われると泣きたくなるのと似ているのかもしれない。
女性部下は相手の言葉に泣くのではなく、もっと利己的に泣く。自分の思いをうまく伝えられないもどかしさに泣く。下手をすると、そんな状況に置いた上司を憎たらしく思ったりする人までいるが、たいていは自分に悔しくて泣いているのだ。
だから上司は、必要以上に自分を責めたり焦ったりしない方がよい。もし泣かれても、黙り込んだり優しく話しかけたりしなくていい。期待している女性部下だったとしたら、普通に「改めて時間を取った方がいいか」だけを確認し、周囲の目を配慮した上で、「顔を洗っておいで。待ってるから」と言えばいい。そしてその後は態度を変えずに話を続けることだ。
女性部下が上司に見せる涙は、恋人とケンカしたときに流す涙と似ている。「認めて欲しい」という気持ちの表れであり、自己主張の1つなのだ。そしてそれがうまくいっていない、と察したときに感じる自己嫌悪の涙だと思う。怒鳴ったり、言い分も聞こうとせずに責め続けたりしたのではなく、ごく良識的に叱ったのならば、泣かれた上司は「認められたい相手」と認識されているというわけだ。だからこそ、「認めて」話を続ける。うんざりさせてしまったと感じさせたり、子ども扱いをされたような気分にしてしまっては、せっかく、女性部下が心を開こうとしている機会を逃してしまう。「ホーム」と認識されているという自信を持って、愛ある叱責をしていただきたい。
作家で食うとはどういうことか
作家で食うとはどういうことか
▼作家デビューの方法 新人賞を取るか、出版社に原稿を持ち込んで本にしてもらうか。どちらがいいかと言えば、新人賞を取ってデビューするほうが絶対にいい。
▼偏差値の高い新人賞を狙う 「偏差値が高い」とは、賞の出身者がデビュー後どれだけ活躍しているかということ。つまり、直木賞受賞者やベストセラー作家を多く出している賞が「偏差値の高い」賞である。
作家の生活とはどのようなものか
▼作家の財布事情 例えば書き下ろしの単行本を出す場合、新人作家の収入は半年かけて68万円と、コンビニのアルバイトよりも低い金額である。
▼縮小する出版市場 当時(大沢在昌講師のデビューした30年前)に比べて今の出版市場は3分の1くらいに縮小している。つまり、生き残る確率も3分の1、入るお金も3分の1だということ。
▼ご飯を抜いてでも買いたい本 リーマンショック以降、本全体の売れ行きはガクンと落ち、熱烈なファンであっても、単行本1冊を買うために昼ご飯を2回抜かなければいけない人だっている。そこまでしてでも買いたい、読みたいと思ってもらえるような作家にならなければいけない。
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作家になるための大切なポイント
①正確な言葉を使う まずは自分の日本語力を疑うこと、そして辞書を引くことを習慣に。
②自分の原稿を読み返す ぎりぎりまでアイデアをひねるより、締め切り前に書き終えて最後の一日を推敲に当てるほうが作品の完成度は確実に上がる。
③毎日書く 車のエンジンと同じで、一旦冷えてしまうとなかなか回転が上がらない。一日一枚でも書いていれば、アイデアも出やすくなるし、すぐに作品世界に入っていける。
④手放す勇気を持つ 次の作品に行くために、とりあえず目の前の作品を仕上げて本にする。
▼作家のモチベーション 作家がより良いものを書き続けるためのモチベーションは、結局のところ、本が売れるか賞をもらう、その二つしかない。