20260717
美しいものは人間が世界と適合していることを示す。(カント)

@theartofmadeline

titsay
macklin celebrini has autism

★
Monterey Bay Aquarium
YOU ARE THE REASON
will byers stan first human second
No title available
Noah Kahan
The Stonewall Inn
Fai_Ryy
Sweet Seals For You, Always
NASA
EXPECTATIONS

oozey mess

Origami Around
Cosimo Galluzzi
sheepfilms
RMH

bliss lane
seen from United States
seen from United Kingdom
seen from Serbia

seen from Malaysia
seen from Argentina
seen from United States
seen from Russia

seen from India
seen from Bolivia
seen from Spain
seen from South Korea

seen from Morocco
seen from Chile
seen from Malaysia

seen from United States
seen from United States

seen from Russia

seen from France

seen from Türkiye

seen from Colombia
@practiceposts2
20260717
美しいものは人間が世界と適合していることを示す。(カント)
20260716
ἀσυγχύτως, ἀτρέπτως, ἀδιαιρέτως, ἀχωρίστως(融合せず、変化せず、分割せず、分離せず)
──カルケドン決議書
ひとつの日付。西暦451年10月25日、カルケドン──ボスポラス海峡の東岸、現在のトルコはイスタンブールで、皇帝マルキアヌスが公会議で決定された教義文書を布告し、450名を超える司教たちがこの文書に署名したとき、「個」という概念は歴史上はじめて誕生した。つまり、神に対してさえ混ざらず、変わらず、しかも神から分かたれず、切り離されもしない「個」という概念、完全に超越的であると同時に決して普遍的ではない尊厳を有した「個」という概念は。ここからすべてがはじまった。神の運命に対する人の自由も、この「わたし」という概念も。この公会議は神学者=哲学者たちによる静かなる革命であり、この文書は人類史に炸裂した一個のダイナマイトだった。事実、話せず書けないように舌と右手を切り取られた証聖者マクシモス、暴徒によって洗礼堂で殺害され、その遺骸は市中を引きずり回されて燃やされた総主教プロテリオスをはじめとして、この文書は数世紀に渡って断続的な暗殺や叛乱、暴動を引き起こすことになる。──だが、それにしても。一方で、この「個」の概念の定義は「愛」の概念の定義そのものでもなかったか。合一でもなく分離でもない「愛」、ありとあらゆるカテゴリーを超えた個から個への「愛」の。
続けよう。
20260711
早朝、佐渡にむかう。
iPhone のアラーム音で目を覚ます。寝台を下り、ひげを剃り、顔を洗う。服を着替え、荷物をまとめ、部屋を出る。ホテルをあとにして、新潟駅前から新潟港まで歩く。空はまだ薄明。街はがらんとしていて、自動車もまったくと言っていいほど走っていない。すずしい、と思う。気持ちのいい朝だ。国道を横切って、ビルの谷間を抜け、住宅街を横切る。Google Map にしたがって、湾曲し折れ曲がる道をたどっていく。午前5時30分、フェリー乗り場に着く。改札の前にはけっこう人がいる。眠そうな目をした観光客たちが小さな声で言葉を交わしている。子どもたちだけが元気よくふざけあっている。わたしも行列に並んで、乗船時刻を待つことにする。鞄から本を取り出して、冒頭から読み始める。
仕事の出張で新潟に来ている。
旅先では必ず一冊は本を買うことにしている。暇つぶしになるからというのもあるが、それ以上に、いつどこで何の本を買ったというのが意外といい思い出になるからで、それに旅先のほうが本の内容もすっと頭に入ってきたりする。そんなわけで、さっさと仕事を済ませると早速新潟駅前のジュンク堂に行った。間取りの中央のあたりにひろびろとした吹き抜けがある比較的大きな店舗で、壁面の一部に古代ギリシア語でホメロスの詩句が刻んであった。暇つぶしの本というのは直感で決めるに限る。だが、普段なら15分もあれば決められるのに、迷いに迷ってなかなか決められない。なんだかひどく索漠とした気分で、そのせいかどの本もあまり面白そうに思えない。結局、2時間と少しの逡巡のあとで、ハンナ・アーレント『人間の条件』を購入した。
フェリーの中で少しまどろんで、扉を押し開けてプロムナードデッキに出ると、朝の海だった。風が強く吹いている。潮の香りがする。水平線が果てしなく広がっている。かもめの群れがフェリーと併走している。朝の薄い雲をまつらわせながら、太陽がやわらかく明るく輝いている。その輝きは海の上に真っ直ぐな光の道を形づくっている。海は空を反映し、菫いろにゆれている。わたしはプロムナードデッキの縁に寄りかかって、しばらくその風景をながめている。不意に、わたしは自由だ、と思った。わたしは自由だったんだ。最初から。もうずっと。わたしは自由で、世界は開かれている。そう思った。気がつくと、かすかに頬が濡れていた。カップルが小さな声でおしゃべりをしている。親子がわたしのすぐ後ろを通り過ぎていく。椅子に腰かけた老人がじっと海を見つめている。太陽は雲のあいだで現れたり翳ったりをくり返している。石油のにおいがする。壁にはところどころ赤錆が浮いている。濃緑の床はわずかに湿っている。わたしは椅子に腰かけて本を読むともなく読む。それにも疲れたら海を見る。そしてまた読みはじめる。そのくり返し。フェリーの震動をたえず感じている。やがて行先に巨きな島影が見えてくる。佐渡だ。
午前8時過ぎ、佐渡に到着した。
バスに乗って金鉱に向かう。平野のただなかを横切っていく。一面に薄く水を張った稲田が広がっている。そのむこうには大きな山々がそびえている。空は曇っている。外は蒸し暑く、車内はすずしい。あちこちで紫陽花が咲いている。わたしは座席に腰かけて風景をながめている。佐渡出身のWさんが言っていたことをいろいろ思い出す。バスは発車し、停車し、また発車する。真っ直ぐに続く道をたどっていく。わたしは中心部を通り過ぎていく。平凡な街並み、道行く人々、草木、自動車、錆びた看板。それからローソン、マツキヨ、西松屋、TSUTAYA、カメラのキタムラ、Joshin、BOOKOFF…… わたしはペットボトルのミネラルウォーターを飲んで本をぼんやりと読む。バスは海岸線を抜けて山の中に入っていく。巨きな杉の林が斜面に広がっている。木下闇がくろぐろとしている。湾曲した道を進んでいく。トンネルを抜けると、水平線が視界に広がる。テトラポッドが波に打たれている。小さな集落に入る。古びた瓦屋根の家々が軒を連ねている。定食屋や郷土資料館がある。その集落も抜けると、いよいよ金鉱のある山に入っていく。大きな奉行所がある。斜面のあちこちに坑道への入口がある。バスは急傾斜を上っていく。
金鉱を見学し終えたら、先ほどの集落まで戻って佐渡鮨を食べる。うまい! ついついおかわりしてしまう。
それから防波堤に上って海を見渡す。波の音がする。潮の香りも。鳥が鳴いている。岬が長く伸びている。午後の海はあおあおとして透き通っている。遠くには灯台が見える。背後にはあざやかな緑いろをした初夏の山々。テトラポッドがうず高く積み上がっている。静かだ、と思う。防波堤の端に腰かけて、バスがやってくるまでの間、ぼんやりと海をながめている。波が寄せては引いてをくり返している。さまざまな思いが浮かんでは消えていく。全身で陽射しの熱を感じている。わたしはまた本を読み始める。結局のところ問題はこの二択に収斂する──永遠か、それとも不死か。思考は永遠を目指す。だが、仕事は不死を目指す。何によって? もちろん、継承によって。仕事は不死となる。継承する者さえいれば。わたしはそれになれたらいい、と思う。つまり、継承する者に。あるいは、願わくは継承される者に。われわれの儚くささやかな不死のために。「われわれの遺産はいかなる遺言によっても先立たれてはいない」(ルネ・シャール)。
続けよう。
きわめて不遜で俗で無粋な提案なのですぐに消すのですが、哲学についてもっと知りたいという方には二点ほど推奨したいことがあります。
①原典を読む。入門書を読まない。
哲学の歓びは原典にあります。入門書にも良書はありますが、哲学者たちの泥臭い苦悩や情熱、混乱、迷走、ひらめき、構築性、ユーモア、洒落っ気などなどはやはり原典でなくては味わえません。どうせ新品でも一冊千円以下です。とりあえず買っておきましょう(すぐに手に取れるところに置いておくのが大切です)。それで人類史上最高の叡智が手に入るのですから、まるで詐欺のような話ではありませんか。ちなみに、古典の中でも特に次の著作はきわめて平易で短くしかもひらめきに満ち溢れていて最初の一冊にお薦めです。
プラトン『ソクラテスの弁明』『饗宴』
エピクテトス『人生談義』
セネカ『生の短さについて』
マルクス・アウレリウス『自省録』
デカルト『方法序説』
カント『啓蒙について』
ニーチェ『この人を見よ』
②現代日本での実践を知る。
哲学のもうひとつの歓び、それは実践にあります。今、この国にどのような哲学者が存在し、どのような実践をしているのか、そして、現代日本において哲学がいかなる意味と価値をもっているのかを知ることは、自分自身が今ここでどのような哲学を営んでいくかの大きなヒントになるはずです。ただし、それはスター哲学者の意見を鵜呑みにすることではありません。批判的に吟味し、自分ならどう思考するかをたえずイメージし続けてください。現代日本において著名な哲学者には次のような人がいます(ただし、あまり著名ではない哲学者にこそ本当にすばらしい人がいたりすることも忘れないでください)。
東浩紀
千葉雅也
國分功一郎
また、個人的な好みとして、佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』もお薦めします。
Amazonで佐々木 中の切りとれ、あの祈る手を-〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話。アマゾンならポイント還元本が多数。佐々木 中作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また切りとれ、あの祈る手を-〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話もアマゾン配送商品なら通常配送無料。
をはり。
恥ずかしくないのですか。金銭ができるだけ多くなるようにと配慮し、評判や名誉に配慮しながら、思惟や真理や、魂というものができるだけ善くなるように配慮せず、考慮もしないとは。
(プラトン『ソクラテスの弁明』)
息のつづく限り、可能な限り、私は知を愛し求めることをやめない。
(プラトン 同上)
すなわち、さまざまな美しいものから出発し、かの美を目指して、たゆまぬ上昇をしていくということなのだ。その姿は、さながら梯子を使って登る者のようだ。すなわち、一つの美しい体から二つの美しい体へ、二つの美しい体からすべての美しい体へと進んでいき、次いで美しい体から美しいふるまいへ、そしてふるまいからさまざまな美しい知へ、そしてついには、さまざまな知からかの知へと到達するのだ。それはまさにかの美そのものの知であり、彼はついに美それ自体を知るに至るのである。
(プラトン『饗宴』)
一番大切なことは単に生きることではなく善く生きることである。
(プラトン『クリトン』)
善く生きようと努めること。善とは何かとたえず問いながら、善とは何かを知らぬまま、それでも善く生きようと試み続けること。「海や山を支配できずとも、美しいことをすることはできる」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)。
続けよう。
20260710
Initium ut esset, creatus est homo.(始まりが存在するために、人間はつくられた)
──アウグスティヌス『神の国』
20260709
わたしは話す。わたしは、と。わたしの言葉を、あなたにむけて。だがあなたも話す。わたしは、と。あなたの言葉を、わたしにむけて。わたしが話しているとき、わたしはわたしでありあなたはあなたである。だがあなたが話しているとき、わたしはあなたでありあなたはわたしである。対話においてわたしとあなたは反転する。まるで鏡像のように。あるいは手袋の表と裏のように。エミール・バンヴェニストが指摘した通り、対話とはわたしすなわち一人称の交換である。対話が続く限りわたしとあなたは反転し続けざるをえない。わたしはあなたに、あなたはわたしに。そのくり返し。対話において発された言葉は片方にとってはわたしの言葉だが、もう片方にとってはあなたの言葉である。わたしの言葉はいつもあなたの言葉として届く。「送り手は受け手から自分のメッセージを反転した形で受け取る」(ラカン)。わたしとあなたがわかりあうことはない。ありえない。決して。すべての言葉は逆さまにしか届かないのだから。ところで人称と呼べるものは二種類しかない。わたしすなわち一人称であり、わたしではない者としてのあなたすなわち二人称である。三人称は存在しない。彼や彼女というのはこれやそれ、あれと論理的に同型であり、正確に言えば三人称ではなく非人称すなわち伝聞に過ぎないのだから。だがそもそも伝聞とは何か。簡単だ。自分自身の言葉ではない言葉のことだ。だがそもそも自分自身の言葉など存在するか。存在しない。なぜなら、誰もが誰かから言葉を教わったのだから。幼少期に。すべてのひとがそうであるように。くり返す。自分自身の言葉など存在しない。すべての言葉は伝聞である。あるいはこう言ってもいい。メタ言語など存在しない。すべての言葉はメタ言語である。いつかどこかで聞いたことがあるような話をいつも聞いているし話している。わたしもあなたも。何をしても、どう生きても、いつかどこかで聞いたことがあるような話になっていく。わたしもあなたも。だがそのことの何が問題だというのか。わたしは話す。わたしは、と。わたしの言葉を、あなたにむけて。あなたも話す。わたしは、と。あなたの言葉を、わたしにむけて。そこに歓びはないのか。すべての言葉は無意味で無価値なのか。──言っておく。そんなことはありえない。
続けよう。
20260606
e quindi uscimmo a riveder le stelle(かくして我らは出でて再び星を見た)
──ダンテ『神曲』地獄篇第34歌最終行
20260517
わたしとあなたは
むかいあって
半円をえがく
ひとりがえがいた半円に
ひとりがえがいた半円を
半円と半円は
重なり合って
魚になる
わたしとあなたは
そっと見送る
すぐそばの窓から
魚が泳ぎ去るのを
泳ぐだろう 魚は
泳ぎ続けるだろう
駅前の交差点を
五月の木洩れ日の下を
わたしもあなたも
いなくなった世界を
わたしとあなたは
席を立って
べつべつの方向に
歩き出す
テーブルの上で
一枚の白紙が
日差しに明るく
照らされている
……
20260503
20260421
20260415
フランス、ショーヴェ洞窟の壁画、あまりにも美し過ぎて、ずっと見てしまう。
3万2,000年前〜3万5,000年前、つまり旧石器時代の壁画なのだが、そこには記号的な牛や馬、犀、虎の強迫的=亡霊的な反復がつくり出す力動的なうねりやよじれ、ひずみが氾濫していて、ドゥルーズ=ガタリが言うところのその「感覚のブロック」の広大さに圧倒される(この壁画に比べ現代美術のなんと貧弱なことか!)。ラスコーやアルタミラの壁画もそうなのだが、原始時代の壁画というとすぐに個別の絵の上手い下手ばかり注目されてしまって、その全体像は見過ごされがちな気がする。だが、一般に寺院や教会がそうであるように、いずれも個別の絵よりも洞窟それ自体が表現する宇宙観(コスモロジー)をこそ鑑るべきではないか。それに、真にわれわれの心をふるわせてくれるもの、われわれに美しい啓示を与えてくれるものも、そちらのほうにあるような気がする。
(宇佐美圭司『Wave Ring』)
「ラスコーやアルタミラに心奪われぬ画家はあるまい」とかつて宇佐美圭司は言った。彼が原始美術に関心をもっていることは以前から知っていたが、無数の亡霊のひしめきやざわめき、うごめきが事後的にカンバス上に時空間を切り開くという彼の方法論そのものが、ラスコーやアルタミラの壁画と呼応し合っていたことに、つい先ほど、今さらながら気がついた。
今夜はいい夜です。
続けよう。
20260414
アンビエントって結局ブライアン・イーノの『Music for Airports』とモートン・フェルドマンの『Rothko Chapel』さえあれば十分なんだよな、と思わなくもない今日この頃。
必聴。
20260413
20260409
練習とは祈りのようなものである。週に一度、月に一度というわけにはゆかない。(マイルス・デイヴィス)
わたしと同じだけ勤勉であれば、だれでも同じことをなしとげられるだろう。(J・S・バッハ)
わたしの芸術が容易に得られたと考えるのは誤りです。親愛なる友よ、作曲の研究にこれほど注意を払った者は、わたしをおいて他にいないと断言します。著名な大家で、その作品をわたしが頻繁かつ勤勉に研究しなかった者はほとんどいません。(モーツァルト)
練習が完璧をつくるのだから、わたしは進歩せずにはいられない。一枚のデッサンを描くたび、一枚の習作を描くたび、まさにそれが一歩前進なのだ。(ゴッホ)
付け加えるべきことは何もない。
続けよう。
20260405
テート美術館展見てポール・ボキューズ、明治神宮、新宿紀伊國屋でクンデラ『小説の技法』とバフチン『小説の言葉』買つて、新宿中村屋地下二階のカレー。
おいしかつたです。
をはり。
20260323
交換
① 晰(あきら)の場合
作品を壁に掛けながら、晰はその絵が自分の絵ではないような気がしていた。
ギャラリーのオーナーが搬入の手順を説明していた。作品の配置、照明の角度、キャプションの位置、動線の誘導…… 晰はあいづちを打ちながら、自分の手が額縁をもっているのを他人事のように見つめていた。《この手が描いた。この手が。三年かけて、この十二枚を》。それはまぎれもない事実であるはずだった。だが、壁に掛かっていく絵を一枚また一枚と確認するたびに、何かが少しずつ遠ざかっていくような感じがした。
技術的には何の問題もなかった。光の扱いは以前よりずっと巧みになっていた。構図も、色彩も。個展を開く前から、この個展は称賛を受けると晰にはわかっていた。だが、まさにそのことが、晰には堪えられなかった。そんな絵を描いた、ということが。あるいは、そうとわかっていて描いた、ということが。怒りではなかった。悲しみでもなかった。もっと静かな、だがもっと深いところにある何かだった。
最後の一枚を掛けたとき、
「いい個展になりますね」とオーナーが言った。
「ありがとうございます」と晰は言った。
窓から十月の午後の光が差していた。その光の中で、十二枚の絵が整然と壁にならんでいた。 晰は少し離れて全体を見た。整っていた。整い過ぎていた。そのことが、作者にむけて何かを告げていた。晰はその何かを知っていた。ずっと前から知っていた。だが、その何かを知りながら、それでもなお描き続けてきたことが、はたしてほんとうに正しいことだったのかどうか、晰にはよくわからなかった。
ギャラリーを出て、駅まで歩くことにした。
空は青く晴れていた。太陽がまばゆく街を照らしていた。晰は雑踏の中を歩きながら、ニ十歳のときに描いた、ある一枚の絵のことを考えていた。今から思えば、その絵はつたない絵だった。構図は歪んでいたし、色彩は汚かった。だが、あの絵には、今日壁に掛けた十二枚の絵のどれにもない何かがあった。すくなくとも、晰自身はそう確信していた。
だが、その絵を見返すことはできなかった。その絵はずっと以前に晰の手もとを離れてしまっていた。
晰がその絵を手放したのは二十二歳のときだった。当時つき合っていた人がその絵をほしがったのだ。その人はその絵をほんとうにほしがっていた。晰にはそのことがわかった。自分の作品を心から求めている人を前にして、晰はどうしても断れなかった。その人とはその後も少し続いたが、長くは続かなかった。その人は晰のもとを去り、その絵も晰の前から消えた。そして、それきりだった。
《あの絵さえ見ることができれば》と晰は思った。《あの絵をもう一度見ることができれば、おれは「あれ」を取り戻すことができるはずなのに》。
それは確信だった。ただ、確信は確信でも、何の根拠もない確信だった。そのことを晰はよく知っていた。だが、それでもなおその確信は消えなかった。《あの絵には「あれ」があった。今おれが最も求めている「あれ」が。ああ「あれ」を取り戻すことさえできたなら、そうすれば……》。
晰は駅に入り、改札を抜けて、電車に乗った。
電車は高架の上を走った。晰は窓の傍に立って、雑踏が行き交う街を見下ろした。《アトリエに戻れば、壁を向いたカンバスがある。八枚。この一年で八枚、途中でやめた。嘘をつきたくなかったから……》。絵を描いていて、ああ嘘をついている、と感じる瞬間がある。そうなるともう駄目だった。それ以上描き進めることができなくなった。だが、どのポイントで嘘になるか、晰にはわかった。だから、いつもその手前でやめた。そうすることが彼なりの誠実さだった。べつに、今日壁に掛けた十二枚の絵が嘘にまみれている、というわけではない。あの十二枚の絵も全力を尽くして描いた絵だ。だが、そこには「あれ」がなかった。「あれ」から見放された日々が、もうずっと続いていた。《おれはこのまま永遠に「あれ」から見放されたままなのかもしれない》。
ごん、と音を立てて、晰は窓に額を押しあてた。十月の午後の日差しが地上へとまばゆくふりそそいでいた。
② 紡(つむぐ)の場合
晰と知り合ったのは大学二年生の頃のことだった。
課題の講評で晰の絵を見て、
「これは何を待ってるの」と紡は言った。
批判ではなく、純粋な疑問だった。晰の絵の前に立ったとき、紡の中で何かが止まった。それは紡にはあまりないことだった。紡はたえず何かを追っていた。世界に対して能動的な構えを取り続けることは、紡にとってあたりまえのことだった。だが、晰の絵の前で、紡は止まった。止まらざるをえなかった。そんな絵を、紡はそれまで見たことがなかった。すくなくとも、課題の講評では。他の絵はどれも何かを主張する絵だった。だが、晰の絵は静かだった。静か過ぎるほどだった。何も主張せず、ただそっとその場に存在していた。その静けさが、晰の絵をかえって他の絵から際立たせていた。だから、つい問わずにはいられなかった。これは何を待ってるの、と。
だが、晰はうまく答えることができなかった。そんなことは考えたこともなかったようだった。
ともあれ、その問いから、ふたりの関係がはじまった。
それから十年が経過した。
晰のアトリエにはよく遊びにいった。そのたびに、壁を向いたカンバスは増えていった。《ああまた待ってるな》と紡は思った。晰の待ちかたは学生の頃よりもさらに過激さを増しているようだった。
紡には何かを待つということがどうしてもできなかった。いつも何かを追っていた。追い続けていた。そうしなくては不安で仕方がなかった。その不安が紡を駆り立て続けていた。紡にとって、誠実さとは追い続けることだった。だが、晰の過激なまでの待ちかたを見るたびに、自分の誠実さがほんとうに誠実さと言えるのか、紡にはわからなくなった。
その夜も紡は晰のアトリエにいた。
東北の、とある小さな街から帰ってきたばかりだった。港のすぐ傍に住む老漁師を描くために、三週間ほど滞在していたのだ。アトリエの窓から夜の街が見えた。太陽はもうとっくに沈んで、街灯があたりを照らしていた。紡がもってきたワインを、ふたりは飲んでいた。
「手がよかった」と紡は言った。「甲板で何十年も綱を引いてきた手で、指の関節がひとつ残らず変形していて、でもあの人はその手でお茶を淹れてくれた。とても丁寧に淹れてくれた。その丁寧さが手のかたちに全部入ってた」
晰は紡の話を聴いていた。とても静かな聴きかただった。晰は人の話をいつもこんなふうに聴いた。とても静かに、最初から最後まで全部聴いた。
「描けそう?」と晰は言った。
「わからない」と紡は言った。「でも描かなきゃいけない気がしてる。そうじゃないと、あの人に失礼な気がして」
晰と違って、紡は社会と関係しなくては絵を描くことができなかった。べつにそのことをうしろめたいとは思っていなかった。だが、その代わり、それ相応の責任を負う必要があると考えていた。そこには自分なりの倫理がなくてはならなかった。取材者としての、確固とした倫理が。
「先月のコンペ、どうだった?」と晰は言った。
「褒められた」と紡は言った。
晰は紡を見た。紡は笑わなかった。晰も。褒められた、という言葉のうちにどんな気持ちが込められているか、晰には伝わっていた。
《賞をもらった。美術館に展示された。雑誌にささやかな記事が載った。批評家に取りあげられた。それが何だって言うんだ?》と紡は思わずにはいられなかった。紡にとってほんとうに大切なのは、あくまでも「どれくらい対象を追うことができたか」でしかなかった。それが、それだけが、紡の唯一の基準だった。
晰のアトリエの中心には、小さな椅子が置いてあった。それは肖像画のモデルが腰かけるための椅子だった。
晰から静(しずか)の話は聞いていた。二十代後半の女性であること、ギャラリーで声をかけたこと、すでに何度かアトリエに来てモデルをしてもらっていること。だが、それ以上は何も知らなかった。晰は静のことをあまり話そうとしなかった。
「モデルの人、来てくれてる?」
「ああ」
「描けてる?」
「途中まで」
その答えはいつも通りの答えだった。だが、そのいつも通りの答えのうちに、今日は何か少し違うものがあるような気がした。だが、何がどう違うのかとなると、紡にはよくわからなかった。
夜も更けて、紡はアトリエをあとにした。
街灯に照らされた暗い道を歩きながら、その間ずっと、あの小さな椅子のことを考えていた。
アトリエの中心に置いてある椅子、肖像画のモデルが腰かけるための椅子、静のための椅子。晰はあの椅子の前で、静が来るのを待っている。来る日も来る日も、くり返し。太陽の光が床の上で移ろっていく。アトリエには、壁を向いた未完成のカンバスが八枚。そのすべてに静の肖像画が描かれている。《だが、それにしても、どうして晰はあんなにも静を描くことにこだわっているのだろう》。
紡はくしゃみをした。冷えてきたな、と思う。十月の夜空はしんとしていた。もうすぐ冬になろうとしていた。
③ 晰(あきら)の場合
そのときも個展を開いていた。
今から一年と少し前のことだった。晰はその日も在廊していた。月曜日の午後ということもあってか、ギャラリーにはまったくと言っていいほど人が来ていなかった。ほんとうはべつに作者がいなくてもいいはずだった。だが、アトリエに戻れば、壁を向いたカンバスがある。また自分と対決しなくてはならなくなる。ギャラリーにいれば、すくなくとも自分の絵を見ていることができる。ひとつの「作品」として。あくまでも客観的に。
《これは必要なことなんだ》と晰は自分自身に言い聞かせた。《これが、これだけが、今すべきことなんだ。これ以外に今すべきことなんてないんだ》。そう言い聞かせなくては、自分が何をしようとしているのかわからなくなってしまいそうだった。
その女性が入ってきたのは午後五時過ぎのことだった。
今日はそろそろ閉廊しようかと思っていたところだった。窓のむこうには晩秋の甘やかな黄昏が広がっていた。彼女はベージュいろの地味なコートを着ていた。晰のことを知っていて入ってきた、というよりは、何となくふらりと入ってきた、という感じだった。足どりは重く、疲れ果てていた。何となく孤独な感じがする人だった。彼女は一枚目の絵の前を通り過ぎた。二枚目の絵の前でも立ち止まらなかった。晰はその動きを受付の椅子から見ていた。
三枚目の絵の前で、彼女は足を止めた。
残照がその絵の上にかすかに漂っていた。十月の淡い光を浴びて、その絵はほんの少しだけいつもと違う色に見えた。彼女はその絵の前でしばらくじっとたたずんでいた。
その光景を前にして、晰の中で何かがゆれた。それはとてもささやかなゆらめきだった。「あれ」の予感、というほどのものではなかった。だが、そこには確実に何かがあった。晰を駆り立てずにはいられない何かが。
晰は黙って立ち上がり、彼女のすぐ側まで行くと、
「描かせてもらえませんか」と言った。
唐突過ぎる。そう思った。だが、言わずにはいられなかった。断られるかもしれないと思った。断られても仕方がなかった。だが、断ってほしくはなかった。そんなわがままな気持ちが自分の中にまだあったことを、晰は少し意外に感じた。
彼女は晰を見た。驚いていた。だが、怖がってはいなかったし、怒ってもいなかった。少し間を置いてから、「わたしを、ですか」と言った。
「はい」と晰は言った。
また間があった。
「いいですよ」と彼女は言った。なぜですかとは言わなかった。
連絡先を交換した。静、という名前だった。
はじめてアトリエに来たのはそれから一週間後だった。
静は時間通りにやってきた。晰がドアを開けると、静は小さく会釈し入ってきた。前と同じ地味なコートを着ていた。そのコートを脱いで壁に掛けると、アトリエの中心に置いてある椅子にすたすたと歩き寄って、そのまま何も言わずに腰かけた。とても自然な動きだった。どうすればいいかとは訊かなかった。
晰はカンバスの前に座り、筆とパレットを手にすると、静を見た。
《遠くを見ている人の眼だ》と晰は思った。《たしかに、眼はこちらをむいている。だが、おれを見ているわけではない。おれを貫いて、その先、はるか遠くを見ている。そんな眼だ。だが、だとすれば、この人は何を見ようとしているのだろう? そんなにも遠くにある何を……》。