元祖佛清墓石 由来不明、飯島虚心「葛飾北斎伝」等より北斎の父の墓との説が根強くある。 他に銘文一切ない比較的大なる自然石(硬い青海石)で、様式的にも一般的なものとは思えず、称より宗教家、もしくは特定の職業の家(寺町特有の石屋、もしくは仏師など)のものの可能性が高いと思われる。 北斎実父とされる川村市良衛門の墓のある誓教寺には北斎が参拝に訪れていた(北斎自身は日蓮宗に帰依していたので近所の別寺にも寄ったことから誓教寺を浄土宗ではなく日蓮宗とする偽説が流れた)という話が伝わるが、 北斎は貧乏であり、子ないし孫代で現在の墓石にて別けて葬されるまで、父の墓に併せて土葬されたという。市良衛門が別の子のために建てた墓石が現在の墓石の脇にあった(現存しない)が、虚心はその墓の他に「宗教家としての」吉良衛門こと「佛清」の墓石というもの~この石碑~を見出し、そこに最初に葬られたのだと推測した。北斎から恩義ある者が、先ずここを拝んだという話を間接的に聞いたともいう。 北斎父は鏡師で御用鏡師中島伊勢に養子にやったのもそのつながりという説もあるそうだが、百姓だったという説(北斎が養父中島姓を自称していた一方出自を自嘲的に語り号にもした話、生誕伝承地辺の古地図上に川村家が見え無いことからその説もあったようだが、寺の過去帳上は川村は名前をしっかり頂いた下級武士のように見え甚だ疑わしい)同様、根拠に乏しいように思われる。 なお、同寺は関東大震災により北斎のおさめた全ての画を焼失したという(現在は後に檀家よりおさめられ戦中は疎開して助かったものが残る)。その後区画整理で移転を余儀なくされる寺が多い中、それを拒んだことなどから大幅に寺域を減らされ、北斎墓も移動した。現在胸像のおかれている本堂向かって左向こう側あたりにあった。そのとき掘り起こした棺に副葬は何もなく、立派な体躯の骨を当時の法律に従い火葬しなおして現在地に小さく収めたという。 昭和七年五月二十三日に北斎百七十年建碑式が行われたとき、当時の住職が震災後の改葬について「仏清の碑」の下より翁の遺骨を掘り出した、と証言した記録もあるそうで、この碑がはっきりしたことがわからないにもかかわらず境内草そう内に辛うじて残されたのはその理由もあってのことかと思われる。ただ、そうなるとそもそも明治前期「北斎墓」建立時には何も改葬されなかったことになり、不自然な点が残る。幕末ごろ「までは」合葬されていた、という話(説明板にもある)と矛盾する。 川村家についてはこんな説も(仏清説にたち「川村清七」こと市良衛門の謎を想像している)。 klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/handle/10487/7360




















