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オオタ13月初のワンマン
オオタ13月になってから、正確にはroot13.が活動休止してから、2回目(ライブとしては、3ステージ目)。
前回見たときも、思ったがどこか儚い。 そして、自傷行為のようだ。
root13.というバンドが、脆く壊れてしまいそうな危うさを持ったバンドであった。しかし、保っていた状態が完璧過ぎた。
root13.について、過去に書いたものはこちらで。 http://musicwriterblog.hatenablog.com/entry/2014/10/05/174709
完璧な状態が崩れた。そして、ソロになった。
僕にとって、root13.の音楽は一人では成り立たないと思う。目の前に三人がいて、それを見るものがいて、世界ができていた。その場所が緊張感があり、終わらないでほしいという気持ち、居心地の良さ、これらが僕らを引きつけた。
ソロになり、3ステージ目であったが、 root13.の曲を演奏するときに、 頭の中でサキさんのコーラスとかハタケヤマワンツーとかが自動補正されてしまう。 体がソロを受け付けないようだ。
今回生で(ちゃんとしたところで)初めて”人魚救い”を聴いた。 音源としては、持っていた。(2013年に行われた限りなく透明な果実とroot13.の東阪ツーマン来場者特典として配布)なんども聴いていた。 今日のMCで2月13日に発売する新譜にバンドヴァージョンとして収録されるというアナウンスがあった。
どこか、寂しく辛かった。 初めて音源化されたときは、まだroot13.があった。 いつか、バンドで聴けるものだと思っていた。 アコースティックからバンドにするというのは今までも何曲もあったからだ。 しかし、root13.ではない形のバンドスタイル。 現実をつけられたようだ。 目を瞑りたくなりような、現実を逃避したくなる。
バンドとして、またやりたいという話は聞いていた。 前向きに、動いているのだと思う。 そう捉えるしかない。
いつかの、「おはよう」のために。
root13.の主人公リリィの出てくる曲は、やらなかった。 これが、彼なりのソロのけじめなのかもしれない。
バンドをやる時までの繋ぎのソロ
バンドの曲は、懐古させるばかりだ。 そして、居心地がいい。 それが、過去に縋り付き前に進めないのではないのかと怖くなる。
しかし、ソロの曲はバンドとは違う表情を出そうとしている。 “リリィ”のいない世界を創り出そうと。 もがいているようにも見えた。 それこそ、彼なりの”革命”なのかもしれない。
活動再開まで、時間はかかりそうだが、それまでは、 ソロの活動を見守り続けたいと思う。
A803
クリープハイプゼップ東京2日目
クリープハイプは、去年のホールツアー大宮公演以来。 その後に出たアルバムは、とてもよかった。 「おかえり、クリープハイプ」と思った。 クリープハイプの良さを再度書くと、心の葛藤を描く歌詞と心の葛藤を表した音だ。
それが、ビクター時代には大人の事情とでもいようか、メロディーにお重きを置いた曲が生み出され続けた。メロディアスなクリープハイプが好きな人には、よかったのかもしれない。
それは、武道館らいぶでも同じだ。 1日目は、インディーズ時代の曲が多かった。 2日目は、メジャー中心=ビクター時代。 1日目を気持ちよく感じたものもいれば、つまらないというひともいた。 そう思う人からしたらアルバムは、つまらなかっただろう。
本当の私の整理番号はBの600番台後半だったのだが、フォロワさんの知り合いが雪のせいで来れなくなったために交換してもらえた。 その知り合いは、私も知り合いだ。正確には、知り合いだった。 その人と最後にあったのは、ライブでその次の日にもろもろブロックされてしまった。 前もあったから、またかとも思ったが、寂しかった。 その人とは、仲がいいと思ってたし、 何より僕が文章を書くことを応援してくれていたから。
フロアが暗転し、いつも通りSEなしにメンバーが入ってきた、ああクリープハイプだ。 アルバム一曲目が”2LDK”は、別れの曲。クリープハイプは、いつだって別れの曲でも別れる数ミリ手前を描いてきた。”ねがえり”や”オレンジ”に”寝癖”どれも終わりが見えている。しかし、いざ別れるとなると寂しくなる。そんなそんな、別れた後の一番鮮明な部分が私たちを引きつける。
私の目の前に30手前のお姉さんが立っていた。 どこか儚げに”2LDK”を聴いていた。その聴く姿の隣に彼氏という存在が、前のツアーのときには、居たのでは無いかと思わされた。
“イノチミジカシコイセヨオトメ”からの”手と手” アルバムの曲順であるために耳馴染みがいい。 しかし、それ以上にこの二曲の相性がいい理由がある。知られたことかもしれないが、もう一度言わせて欲しい。初期”イノチミジカシコイセヨオトメ”には、アウトロが存在し、そのアウトロが”手と手”のイントロなのである。こんなうんちくは、別良いとして大切な曲なのであろう。インディーズの時から、手塩を込めて育ててきたのだから。
前の恋人は、歌詞をよく引用した。 その中で”手と手”の歌詞も引用していた。手を繋ぎたいという時に。 そのため、私にとって思入れが強い。 忘れれればいいのに、忘れられない過去。
クリープハイプも、忘れられない過去を唄う。
長谷川カオナシが「夏目漱石は、I LOVE YOU を月が綺麗ですねと訳した話を知っていますか?」とオーディエンスに問いかけた。それに続けて「現代では、なんで訳すかわかりますか?」会場内が、ざわざわし始め、皆気がつき始めた。すると、釘をさすように「セクロスをしようじゃありませんからね」と見ている側の頭の中を見通したかのように一掃した。次の曲は、もちろん”HE IS MINE”。カオナシのソロとともにフロアの熱も一気に上がり、踊り狂いはじめた。 そして、あの言葉の大合唱。クリープハイプなりのI LOVE YOU で会場がみたされた。
"二十九、三十"後のMCで「音楽を聴いてる時にゆらゆらしていて、いいですね。音楽を聴いている時くらい、日常の嫌なことわすれてくれたら、嬉しいです」と尾崎世界観は、寄り添った。 うんうん。音楽とはそういうことなんだよ、と思わせてくれた。近年、ライブのスポーツ性が取り出さされるが、ライブはスポーツではない。これを言葉に出来るのは、強い。移籍騒動で痛みを知り、優しくなった。それを象徴するようだ。
「次の曲も嫌なことがあっても音楽を聴いているときくらいは何も考えずに聴いてください。」 アルバムの核である”大丈夫”この曲を前回聴いたときは、アコースティックスタイルで、長谷川カオナシがヴァイオリン、尾崎世界観がアコースティックギターと部屋で聞いてるかのようであった。バンドとしての演奏は、初めてだ。バンドになるとどこか距離感を感じるのではないのかと思ったがそんなことはなかった。息のあったグルーブで、語るような音が、ラジオコンポから流れる懐かしの名曲のような距離感にした。そして、寄り添い励ましてくれる。大丈夫だと。
曲が進むにつれ、目の前の三十代の女性は、手を挙げるようになった。しかし、全部に手を挙げるのではなく挙げたいときに挙げる。想いの詰まった曲は、聴き、好きな曲は、聞きながら楽しんでいるかのように。「自分の楽しみ方で楽しめのばいいのだよ」と協調主義の若者の楽しみ方に問いかけた。
本編終盤に差し掛かり、”社会の窓と似た構成”へと。 「なんか似てる、なんか似てる」という歌詞がこの曲には、出てくる。いつも好きになるのは、笑顔の綺麗な子だなーと自分に当てはめてしまう。笑 これも、音楽の楽しみ方だ。と思っている。 似たような経験はいくらでもあると思う。
"社会の窓"と原曲が投入され本編は、終了。
アンコールは、”愛の標識”「残すことなく楽しんでってください」という言葉に感化され、その人なりに楽しんだ。
交換してもらったチケットの裏の自分だけの柵や前付き合ってた人のことを考えるのは、辛くもどこか愛おしく、私の血や肉になっている。潜在的なものを思い起こす、奮い立たせるのもライブならではなのかもしれない。クリープハイプには、たくさんの気持ちが詰まっている。曲それぞれが人生の栞になっている。何より大事なバンドであることを再確認できた。